第10話 今度は、私が決めた結婚です
四月十二日。
私が、自分の手帳に書いた結婚式の日だった。
「少し、顔を上げて」
顔を上げると、伯母が襟元の最後の釦を留めた。
鏡の中に、婚礼衣装を着た私がいる。
柔らかな象牙色のドレス。
袖口には、小さな青い花が刺繍されている。
衣装店で三着を試し、私がいちばん着たいと思ったものを選んだ。
母が遺したドレスからは、傷んでいなかったレースだけを外して、襟元に縫いつけてもらった。
新しい衣装なのに、母の思い出も一緒に連れていける。
そうしたいと決めたのも、私だった。
「よく似合っているわ」
伯母が鏡越しに笑った。
「ありがとう」
「青い花にしてよかったわね」
「ええ。好きな色ですから」
淡い青のドレスで、初めてニーロ様とお茶を飲んだ。
今日の刺繍を見るたび、あの日、好きな服を好きだと言えたことを思い出せる。
伯母が、襟元のレースをそっと整えた。
「この部屋へ来た日に、これからどう暮らしたいか聞いたでしょう」
「覚えています」
「この家に住みたい。仕事をしたい。そう言ったわね」
私は窓の外を見た。
通りの木には、柔らかな緑の葉が出ている。
一階を貸して、二階の小さな部屋に住む。
あの時は、それだけでもずいぶん大きな望みに思えた。
今も、この家は私の名で残っている。
結婚したあとも、町で仕事をする時には、ここへ帰ってくる。
「どちらも、できました」
「ええ。それから、もう一つね」
伯母の目が、少し潤んだ。
私は鏡の中の自分を見た。
「今度は、私が決めた結婚です」
その言葉を口にすると、胸の奥が温かくなった。
「では、行きましょうか」
「はい」
私は、自分で選んだ花束を持った。
◇
ニーロ様と婚約してから、冬を越え、春を迎えた。
冬、積雪で馬車の通行が止まった日があった。
会う約束の前日、騎馬の使いが別の道を通って手紙を届けてくれた。
明日は町へ出られないことと、約束の日の五日後か七日後なら都合をつけられることが書かれていた。
五日後には、私の相談の仕事が入っていた。
私は七日後を選び、その日に会いたいと返事をした。
雪が解けて道も開き、ニーロ様は選び直した日の約束の時刻にやって来た。
私の方から、日を変えてほしいと頼んだこともある。
相談相手の支払いに関する話し合いが、会う予定の日へ移った。
仕事として最後まで立ち会いたいと手紙に書くと、翌日の午後ならどうかと返事が届いた。
私はその日を選んだ。
話し合いを終えた翌日、彼と二人で川沿いの道を歩いた。
会えない日があっても、次がいつなのか分からないままにはならなかった。
どちらか一人だけが、いつまでも予定を空けておくこともなかった。
私はニーロ様の領地へも足を運んだ。
工事を終えた橋を一緒に渡り、馬で走るにはちょうどいいという道を、私たちはゆっくり歩いた。
「歩くと、傷んでいるところがよく見えますね」
そう言った彼に、私は笑った。
「今日は、お仕事の確認はしないのでは?」
「そのつもりだったのですが」
彼も笑い、道ではなく私の方を見た。
旅の本に書かれていた海にも、夏に一緒に行くことになった。
互いの予定を確かめ、旅のために数日を空けた。
桟橋の先で二人とも下を覗き込むのだろうと思うと、今から笑ってしまう。
◇
商会の小部屋を月に八日借り、相談を受けている。
毎月来てくれる人もいれば、オスモさんから初めて紹介される人もいる。
店の仕入れと支払日を整えたり、家賃収入から修繕費を残す方法を一緒に考えたりした。
一度、足りない分を私に貸してもらえないかと尋ねられたことがある。
「お金をお貸しすることはできません。けれど、今ある金額で、どの支払いをいつ行うかは整理できます」
私はそう答えた。
その人は、次の相談日に、減らせる支出を自分で決めて持ってきた。
私は書面を整え、約束した料金を受け取った。
自分のお金を差し出さなくても、私に頼める仕事はあった。
結婚後は、面会の日を隔週にまとめ、ほかの週はニーロ様の領地で書面の仕事を続ける。
彼も月に二度の町での用事を、その週に合わせることにした。領地の仕事で別々に過ごす日もあるけれど、一緒にいるために、二人とも自分の予定を整えた。
一階の家賃は、私の暮らしと家の修繕のために残している。
返してもらったお金の一部で、母の荷物を置いていた部屋を片づけ、二人の寝室に整えた。
今までの部屋には仕事机と小さな食卓を置き、古い腰掛けも背もたれのある椅子に替えた。
結婚の準備は、その食卓でニーロ様と一緒に進めた。
招きたい人の名を書き、互いに出す費用を決め、どちらが何を手配するかを分けた。
神殿と馬車はニーロ様が確かめ、衣装と花は私が選んだ。
祝いの食事に出す菓子は、二人で試しに行った。
「胡桃と蜂蜜は、外せないと思います」
三種類目の皿を前にして、ニーロ様が真剣な顔で言った。
「林檎のタルトも、お願いしましょう」
「二つとも?」
「どちらかを我慢する必要はないでしょう?」
そう答えると、彼はとてもうれしそうに頷いた。
費用を確かめ、どちらも頼んだ。
今日、式のあとに皆で食べることになっている。
指輪も、二人で店へ行って選んだ。
宝飾店でいくつもの箱を開けてもらうと、大きな石のついたものや、細かな飾りを彫ったものが並んだ。
「トーヴェ様は、どれがお好きですか」
私は一つずつ見て、端にあった滑らかな金の指輪を手に取った。
ニーロ様も、隣から覗き込んだ。
「これが好きです。毎日着けていても、ペンを持つ時に邪魔にならなそうで」
「私も同じ形がいいですね。こちらの幅が広い方なら、私の手にも合いそうです」
彼が選んだ指輪を、私の選んだものの隣に並べた。
大きさは違っても、よく似合う一組だった。
二人で指にはめ、大きさを確かめた。
内側へ四月十二日の日付を入れたいと言うと、彼はうれしそうに賛成した。
待ち続けた年数ではなく、二人で決めた日を刻む。
今日、互いの指にはめるための指輪だった。
準備が終わった夜、ニーロ様は食卓の向かいでカップを置いた。
「町にいる間は、私もここへ帰ってきていいですか」
私は窓辺の本と、二人分の椅子を見た。
「もちろんです。領地へ行った時は、私もニーロ様のところへ帰ります」
「では、どちらも私たちの家ですね」
自分の家を残したまま、彼と帰る場所ができた。
私は、向かいの椅子に座る彼へ微笑んだ。
◇
神殿へ着くと、春の花が飾られた扉の前に、オスモさんがいた。
「本日は、おめでとうございます」
仕事の時と同じ丁寧な口調で、けれど、いつもより大きく笑っている。
「ありがとうございます」
「来週の相談室も、ご希望の時刻で用意してあります」
「では、来週、またお願いいたします」
「仕事のお話は、その時に。本日は、どうぞよい一日を」
私が一礼すると、オスモさんも礼を返した。
伯母と並んで扉の前へ進む。
「準備はいい?」
「ええ」
伯母の腕に、そっと手を添えた。
扉が開く。
正面に、ニーロ様が立っていた。
濃紺の礼服。
私が選んだ青い花と同じものが、胸元に一輪飾られている。
目が合うと、彼が微笑んだ。
私は、自分の足で歩き出した。
一歩ずつ進むたびに、胸が高鳴る。
それでも、足は止まらなかった。
ニーロ様の隣まで来ると、伯母が私の手を離した。
「行ってらっしゃい、トーヴェ」
「はい。行ってきます」
私はニーロ様へ向き直った。
「そのドレス、とてもよくお似合いです」
「ありがとう。いちばん見てほしかった人に、そう言ってもらえてうれしいです」
「見とれていました。笑ってくださるまで、何を言うつもりだったか忘れてしまって」
私の頬まで熱くなった。
「胸の花も、気に入っていただけましたか」
「ええ。あなたの花と同じですね」
彼が花に触れ、うれしそうに笑った。
司祭の前で、私たちは並んだ。
互いを尊び、喜びも困難も分かち合い、夫婦として暮らすことを望むか。
そう尋ねられ、ニーロ様が先に答えた。
「望みます」
次に、私の名が呼ばれた。
私は隣に立つ人を見た。
この人が何を望んでいるのか、私は聞いてきた。
私が何を望むのかも、話してきた。
どちらかだけが我慢して、相手の気持ちが変わる日を待つのではない。
二人で決めた日を、二人で迎えた。
「望みます」
自分の声が、神殿に響いた。
ニーロ様が、私の左手を取る。
二人で選んだ指輪が、薬指にはめられた。
飾りの少ない、滑らかな金の指輪。
内側には、四月十二日の日付が刻まれている。
私も、彼の指に揃いの指輪をはめた。
「トーヴェ」
ニーロ様に、初めて敬称なしで呼ばれた。
私は顔を上げた。
「はい、ニーロ」
その名を呼ぶと、彼の目元が柔らかくなった。
司祭が、私たちを夫婦として祝福した。
ニーロが身をかがめ、私の唇に、そっと唇を重ねた。
短く触れて、離れる。
すぐ近くで、彼が笑った。
私も笑った。
自分で決めた日に、自分で選んだ人と、私は結婚した。
◇
翌朝、二階の食卓には、二人分のお茶があった。
向かいには、少し眠そうな顔の夫がいる。
「おはよう、トーヴェ」
「おはよう、ニーロ」
干した果実の入ったパンを割ると、甘い匂いがした。
ここへ移ってきた日に、伯母が買ってくれたものと同じパンだった。
「今日は、何をしましょうか」
「もう少し、こうしていたいです」
私が答えると、彼はカップを置いた。
「私も。出かけるのは、あとにしましょう」
こちらへ伸びてきた手を取る。
二人の指輪が、朝の光を受けていた。
顔を上げれば、好きな人がいる。
私を見て、うれしそうに笑ってくれる。
「あなたと結婚できて、うれしい」
声にすると、ニーロが私の手を握り返した。
「私もです」
明日も、この人に「おはよう」を言える。
そのことが、たまらなくうれしかった。




