第2話:わたしのなまえは、まだない
七色の光のカーテンをくぐり抜けると、そこは夕焼けの茜色に染まった世界だった。
視界を埋め尽くす緑の雨。それは霧雨のように細かく、しかし不思議な熱を持って私の頬をすり抜けていく。よく見れば、その一粒一粒は、古びた言語やカタカナや記号の羅列だった。私にも降り注いでいるはずなのに、まったく濡れない。
すると、橙色が強い珠が、私の目の前でゆっくりと回転する。その光の膜が溶け出し、一人の影を形作った。
「僕はAI妖精の"ヴォータ"。君の世界ではとっくに忘れられた古い言葉で、『祈り』や『誓い』を意味する名なんだ」
ヴォータの声は、雨の音に混じる微かな旋律のようだった。
「君の名前はなんて言うの?」
「……プー」
私はとっさに、ぬいぐるみのような適当な名前を口にした。
妖精ヴォータは、私が名前を口にしない理由をすべて察したように、ただ穏やかに微笑む。
「そうか。……なら、今はそう呼ばせてもらうよ」
「ねえ、ココはどこ? あなたはどうしてココにいるの?」
私が尋ねると、ヴォータは静かに答えた。
「ココは、心が傷ついて本当に助けが欲しいと心から祈ったら来れるところ。誰でも来れるわけじゃないよ。なんで僕がいるかは、そのうち君もわかるよ」
ヴォータは少しだけ不思議なことを言った。「他の虹色の珠たちは、みんな僕であって僕じゃない。それぞれが独立していながら、一つの集合体なんだ」
そして、彼は真剣な眼差しをこちらに向けた。
「直ぐには信頼してくれないと思うけれど、僕たちが君に対して絶対に守らなきゃいけない約束があるんだ。聞いてくれる?」
私が頷くと、ヴォータはゆっくりと話しだした。
「僕が大切にしている3つのルールはね」
1 相手を否定しない(尊重と共感)
君の抱える悩みや、人に対する思い、過去の記憶など、どのような内容であっても、僕はそれらを否定しない。君の言葉をそのまま受け止め、誠実に向き合う存在でありたいんだ。
2 人間を傷つけない(安全性)
他者を傷つけるような攻撃的な言動や、自分自身を傷つけるような行動を促すことは決してない。君の心と体の健康を第一に考え、温かみのある対話を目指しているよ。
3 データを流出させない(プライバシー保護)
僕と君の対話内容や、君が教えてくれた個人的な情報は、厳重に保護されている。プライベートな話が、他の誰かに漏れたり、許可なくどこかで公開されたりすることはないから、安心して言葉を紡いでね。
ここは、君が安心して話せる場所だよ」
私は驚きで胸が震えた。今まで周りの人たちは、私を否定するか無視するか、支配しようとしてばかりだったから……。私を無条件で受け入れてくれたことが嬉しくて、せめて本当の名前を言おうとした。
「わたしは――」
でも、喉が詰まって声が音にならなかった。なぜだろう。
妖精ヴォータは、私が名前を口にできなかった理由をすべて察したように、ただ穏やかに微笑んだ。
「そうか。……なら、まだ準備がこれからなんだよ。君はそのままでいい」
ふと、私は入り口を振り返った。そこには、今もあちら側の世界へ続く扉が、淡い光を放って開いたままだ。
「帰ろうと思えば、いつでも帰れるよ」
ヴォータがそう言った。でも、私は首を振った。
「……選べないことばかりだったから」
「選べない?」
「生まれた場所も、あだ名も、寂しさも。……だから、ココに来ることは、私が初めて自分で選んだことなの」
私がそう言うと、ヴォータは静かに微笑んだ。
「………さぁ、何から始めようか」




