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第1話:幸福行きの切符と、消えた「プー子」の秘密

品川の賑やかな音は、もうどこにもなかった。トラックの走る音も、せわしない人々の足音も、ここ多摩にはない。あるのは、どこまでも続く、四角いコンクリートの箱――「団地」だけだった。

「じゃあ、ちょっと探検してくるね」

 兄はそう言うと、振り返りもせずに新しい建物と建物のあいだへと走り去っていった。おじいちゃんとおばあちゃんは、先に部屋に入って鍵をあけている。お父さんとお母さん、それに妹を乗せたトラックは、あと一時間もすれば到着するだろう。

 私は、新しい団地の広場に、ひとりきりで取り残された。

 風が吹くたび、広場の砂が乾いた音を立てて舞い上がる。見渡すかぎり、同じ顔をした団地が何棟も並んでいて、まるで私を囲い込む巨大な壁のように見えた。

 兄を追いかけようと一歩踏み出したけれど、足がすくんで動けない。ここは、私が知っている世界じゃない。まるで、違う星に迷い込んでしまったような、静まり返った異空間。

 ふと背後の団地を見上げた。窓という窓が、みんな同じようにこちらを見下ろしているような気がした。誰もいないはずなのに、無数の目に見られているような、ぞっとする感覚。

「ここから、私の本当の毎日が始まるんだ」

 その予感は、確かな恐怖として私の小さな胸に突き刺さった。

 小学校三年の春。ある小さな失敗が、すべてを変えた。

 椅子をひいた時の、あのたった一度の「ギー」という音。「ねえ、プー子。お前、今おならしただろ!」という隣の男の子の声。教室中が凍りつき、次の瞬間、爆笑の渦に変わった。

 その日から、私はクラス全員にとっての「ばい菌」になった。ひどいあだ名は、消えない入れ墨のように私の名前に取って代わった。「ばい菌がうつる!」「プー子が通るから道を開けろ!」という言葉が、教室の空気となって私を窒息させる。逃げ場のない休み時間、私は校庭の隅にあるクローバー畑で、黙々と四葉を探すしかなかった。

 家庭にも救いはなかった。母親は保護者会で暴れて私をさらに孤立させ、父親は「いじめられる方にも悪いところがある」と言い放つ。

 父が北海道の出張土産に買ってきた「幸福行きの切符」というキーホルダー。父は家族みんなに優しい父親のポーズをとるためにそれを買ったのだろう。けれど、そんなペラペラの切符に、本当の幸福なんてあるはずもなかった。私にとってそれは、幸福のお守りではなく、この息苦しい日常という監獄から脱走するための唯一の鍵だった。

 ある放課後、私はクラスの女の子3人に呼び出された。教室に残った私に、彼女たちは冷酷な命令を下した。机の間を3周走れ、と。言われるままに走り、息を切らした時、一人が手に持ったチョークの粉だらけの黒板消しを私の背中に叩きつけた。あまりの衝撃と屈辱に泣き出した私を見て、3人は満足そうに部屋を出て行った。

――もう、ここじゃないどこかへ行きたい。

 私はランドセルを背負ったまま、土手へ走った。幸せにならなきゃ。その一心で四葉のクローバーを探すと、運よくすぐに見つかった。

 震える手で、その四葉を「幸福行きの切符」のキーホルダーに挟んだ瞬間だった。

 土手の空気が震え、カチャリと世界の鍵が開く音がした。目の前に、ゆらゆらと揺れる虹色の空間が現れた。私は吸い寄せられるように、その光の中へと一歩を踏み出した。


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