第7話「Lという名前」
手帳を読み返しながら、マティアスは一つの問いに辿り着いた。
ミナが誰かに似ている。その誰かは、通信や音に関わっている。
記憶の中に、その人物がいる気がする。でも、顔が見えない。
マティアスは、自分の記憶をもう一度、丁寧に遡った。
戦場で会った人々。士官学校で会った人々。上官。部下。同僚。
その中に——一人、顔のない記憶があった。
顔がないのではなく、顔を思い出すたびに、何かに遮られる感覚があった。
その記憶に近づこうとすると、別のことを考えたくなった。任務のことを考えたくなった。作戦のことを考えたくなった。
マティアスは今日、その習慣をやめることにした。
遮られるものを、遮らせないようにした。
その記憶は、研究棟の図書室にあった。
窓際の席。床に落ちた書類。それを拾った時に、声をかけた女性。
「ありがとうございます」
そう言った人の顔が——。
マティアスは、目を閉じた。
ゆっくりと、思い出そうとした。
黒い髪。静かな目。それでいて、何かを深く見ている目。
ミナと同じ目だった。
「……L」
声に出た。
その名前が、どこから来たのか分からなかった。でも、その名前が正しいという感覚があった。
Lという名前の女性。
研究棟の図書室で会った。書類を落とした。それを拾った。「ありがとうございます」と言った。
それだけではなかった。
その後も会った。何度も会った。話した。笑った。
笑顔が、屈託なかった。難しい顔をした自分に対して、いつも「また難しい顔をしている」と言った。
いつの間にか、傍にいたいと思う人になっていた。
でも——その記憶の先が、また遮られた。
マティアスは、その遮りを押しのけようとした。
引き離された記憶があった。
カワシマ家、という名前が出てきた。
縁談。政略。引き離された。
Lは——その後、別の名前になった。
その別の名前が、出てこなかった。まだ遮られていた。
でも、今日初めて、その記憶の一部に触れた。
マティアスは手帳に書いた。
「Lという名前を思い出した。研究棟で会った。笑顔が屈託なかった。引き離された。カワシマ家という名前が関係している。その後の名前は、まだ出てこない」。
カイルにコーヒーを受け取りながら、マティアスは言った。
「カイル。Lという名前を知っているか」
「L? それは人の名前か、略語か」
「人の名前だ。若い頃に会った女性だ」
「……俺は知らないが。お前の知人か」
「そうだ。かなり昔の話だ」
「なぜ今それを聞く」
「今日、思い出した」
カイルは少し首を傾けた。
「どんな女性だった」
「静かな目をしていた。でも、笑うと屈託がなかった。いつも『また難しい顔をしている』と言われた」
「……それはお前のことをよく見ていたんだな」
「そうだな」
「今はどこにいる」
「分からない。引き離された。カワシマ家という家に関係している」
「カワシマ。聞いたことのある名前だな」
マティアスは、カイルを見た。
「どこで聞いた」
「技術関連の論文だったか……確かではないが、UR-651関連の資料に名前が出ていた気がする。だが、俺の記憶なので確かではない」
「UR-651にカワシマという名前が出ていた?」
「気がする、という程度だ。確認したわけではない」
マティアスは手帳に書いた。
「カイルが『UR-651関連の資料にカワシマという名前が出ていた気がする』と言った。確認すべき情報」。
その日の作戦の前、マティアスはミナに近づいた。
「カワシマ伍長。一つだけ聞いていいか」
「はい、大佐」
「お前の母の名前は何というんだ」
ミナは、少し驚いた顔をした。
「……マリア、です。マリア・カワシマ」
マリア。
その名前が、何かに触れた。
Lという名前と、マリアという名前。どちらも、同じ人を指しているのではないか、という感覚が——。
「大佐、どうかされましたか」
「……いや。何でもない」
「お母さんのことが何か?」
「いや。ただ、聞いてみたかっただけだ」
「そうですか……」
ミナは、少し不思議そうな顔で、また整備に戻った。
マティアスは、その背中を見ながら、手帳を握りしめた。
マリア・カワシマ。
Lが、その名前になったのではないか。
まだ確信はない。でも、確信に近い何かがあった。
そして、もしそうなら——ミナは。
その先を考えた瞬間、光が来た。
待て、まだ考えていない——。
でも、光は止まらなかった。
目が覚めた。
テントの天井。午前四時。
マティアスは、手帳を開いた。
全部残っていた。
「マリア・カワシマ」という名前も。
マティアスは、その名前をじっと見た。
次の回で、もう少し確かめる。
光が来る前に、もう少し考える。
コーヒーの匂いがした。
「マティアス、私だ」
カイルが入ってくる前に、マティアスは手帳に一行書いた。
「今日も確かめる」。
【次回 第8話「ミナの母親」へ】




