第6話「変えられない何かと変えられる何か」
マティアスは、変えられないことのリストを作った。
砲撃は来る。これは変えられない。
ベースキャンプは壊滅する。これも変えられない。
ゴッグ二号機は沈む。これも変えられない——少なくとも今のところは。
光は来る。これも変えられない。
目が覚める。これも変えられない。
次に、変えられることのリストを作った。
自分がどこにいるか。
何を言うか。
誰に声をかけるか。
一号機に乗るタイミング。
カイルに何を話すか。
ハルに何を言うか。
ミナに——。
マティアスは、ペンを止めた。
ミナに何を言ったことがあったか、思い返した。
ほとんど何も言っていなかった。
ミナ・カワシマ伍長。通信兵。ハルと同期の若い兵士。
彼女には、作戦前にほとんど声をかけていなかった。カイルに声をかけた。ハルに声をかけた。整備兵に声をかけた。でも、ミナには——。
なぜ声をかけなかったのか、考えた。
理由が、すぐには出てこなかった。
ただ、彼女を見た時に感じる何かが——引っかかっていた。懐かしい、とも違う。不思議な、ともちょっと違う。何かを思い出しそうになって、思い出せない、という感覚。
その感覚が、声をかけることを少しだけ躊躇させていた。
今日は、声をかけることにした。
「カワシマ伍長」
ミナが振り返った。
彼女は、湖畔に係留されたゴッグ二号機の整備を手伝っていた。エンジンオイルで手が汚れている。額に汗が光っている。
「……大佐」
その目が、少し驚いていた。上官から名前で呼ばれることに、慣れていない目だった。
「今日の作戦の確認を」
「はい。通信系統は確認済みです。聴音装置も正常。二号機の状態は——」
「整備の話ではない」
「……では?」
「お前自身の状態だ。怪我はないか。体調は」
ミナは、少し間を置いた。
「……異常ありません」
「そうか」
「大佐が、そういうことを聞くのは珍しいです」
「そうか」
「……はい。直接聞かれたのは、初めてだと思います」
マティアスは、ミナを見た。
初めて、彼女の顔をじっくりと見た。
黒い髪。静かな目。それでいて、何かを深く見ている目。観察している目。
どこかで見たことがある気がした。
誰かに似ている気がした。
誰だろうと思った。
「大佐?」
「……何でもない。気をつけろ」
「はい」
「ゴッグ二号機は、今日の作戦で無理をするな。ハルに伝えろ」
「了解します」
「ハルは怖がっているが、怖いままで行動できる人間だ。それは長所だ」
「……分かっています」
「それだけだ」
マティアスは、踵を返した。
後ろで、ミナが小さく言った言葉が聞こえた気がした。「ありがとうございます」と。
振り返らなかった。
その日の夜、手帳を開いた。
「ミナに話しかけた。彼女の顔を初めてじっくり見た。誰かに似ている気がした。誰だか分からない。懐かしいような不思議な感覚がある」。
それを書いてから、マティアスはしばらく止まった。
誰かに似ている。
その「誰か」を探そうとして、見つからなかった。
記憶の中に、その「誰か」がいる気がする。でも、輪郭がない。形がない。ただ、感覚だけがある。
あの目が、あの静かな目が、どこかで見た目に似ている。
マティアスは、それ以上書けなかった。
次の回。
また午前四時。カイルがコーヒーを持ってくる。
マティアスは、今日もミナに話しかけることにした。
でも、今日は少し違うことを試した。
「カワシマ伍長。お前はこの任務に、自分で志願したのか」
ミナは少し驚いた。
「……はい。水中任務の経験を積みたくて」
「理由は」
「聴音に関わる仕事をしたかったので。水中の音響は専門的な訓練が必要で、実戦で経験を積むことが一番早いと聞いたので」
「聴音が好きか」
「好きか嫌いかで言えば、好きです。音を聞くのが、昔から……」
ミナは少し言葉を止めた。
「昔から?」
「子供の頃から、好きでした。音を聞くことが」
「誰かに影響を受けたか」
「……母が、通信の仕事をしていたので」
マティアスは、その言葉を聞いた。
母が通信の仕事をしていた。
その一言が、何かに触れた気がした。
「母は今も仕事をしているのか」
「……連絡が途絶えています。戦争が始まる前から」
「そうか」
「大佐が、そういうことを聞くのは珍しいです」
「そうかもしれない」
「……なぜ聞くんですか」
マティアスは少し考えた。
「お前が、誰かに似ている気がしていた。その誰かが誰なのか、少し気になった」
「……誰に似ていると思いましたか」
「まだ分からない」
ミナは、少し首を傾けた。
「……大佐は、不思議なことを言いますね」
「そうかもしれない」
「でも、嫌いじゃないです。そういう話し方」
マティアスは、また踵を返した。
その日の手帳に書いた。
「ミナの母は通信の仕事をしていた。戦争前から連絡が途絶えている。ミナが誰かに似ているという感覚は続いている。その誰かが誰なのかは、まだ分からない」。
また次の回。
マティアスは手帳を読み返した。
ミナについての記録が増えていた。
彼女の話し方。目の動き。声のトーン。静かな所作。そして——母が通信の仕事をしていた、という事実。
通信。聴音。音を聞くことが好き。
何かが繋がりかけた。
でも、繋がる前に、光が来た。
また、目が覚めた。
手帳を確認した。全部残っていた。
繋がりかけた何かも、残っていた。
次の回で、もう少し近づけるかもしれない。
【次回 第7話「Lという名前」へ】




