犬猿の仲
清少納言と紫式部は、仲が悪い。
二人の間でほとばしる見えない火花を察知し、陽菜は刹那の瞬間に関係性を理解した。
「やれやれ、どちらも学問ができて頭がいいのに、真逆の考え方なんだから面倒臭い……」
うんざりした様子の天神人形は小声でぼやき、笏を額に当てて深い溜め息を吐く。
白熱して周囲が見えていないのか、清少納言と紫式部は、なにやら互いの主張を否定して言い合いを続けている。
口論する二人を横目に、陽菜は少しだけ天神人形に身を寄せると、小声で尋ねた。
「なにが原因で、仲が悪くなっちゃったの?」
火花が散っている最中。本人達に、直接は聞きにくい。
そして、熱くも静かな戦いを繰り広げている二人の間に割って入る勇気が、陽菜には無かった。
この中では一番苦手意識のある天神人形が、この時ばかりは、一番尋ねやすい相手に思われたのだ。
天神人形も陽菜に顔を寄せ、笏で口元を隠すと、二人に聞かれないように小声で話し始める。
「なにが原因というわけではないんだが……。言うなれば、紫式部の先入観かの」
「先入観? なんで?」
先入観ということは、思い込みだ。
悪意のある第三者か誰かが間に入り、よくない噂かなにかを吹き込んだのだろうか。
「清少納言と紫式部……この二人は、一緒に働いてはいないのだ。清少納言が仕えていた主人が亡くなって宮中を去ったのち、紫式部が入ってきた。だから互いに、面識は無い。だが……噂話は残るであろう?」
人の口に戸は立てられない。噂話は事実よりも誇大になり、尾ヒレがついていくものだ。
実際は違っていても、思い込みと偏見で、人の評価は捏造されていくことがある。
勝手な幻想、イメージを作り上げていくのだ。
天神人形は、視線を清少納言に向ける。
「清少納言は、ほら……性格的に強い部分がある。随筆にも書いているとおり、己の好きや嫌いをハッキリ主張することができる女性じゃ。それを快く思っていない女官も多くてな。主人である定子様のお気に入りであったから、誰も表立って悪く言う者は居なかったが、陰ではの……」
「それじゃあ……紫式部さんは、清少納言さん本人と接して嫌ってるんじゃなくて、人から聞いた話を鵜呑みにして一方的に嫌っちゃってるの?」
「そんな感じかのぉ……」
それは、なんて勿体ないことだろう。
一方的に嫌われては、清少納言もいい気はしない。
「紫式部も、バカじゃないんだ。清少納言と同じく、学問ができる。彼女の家も、常に学問が身近にあり、学ぶことが大好きだったと聞いている」
「似ている二人なのね」
そうじゃ、と天神人形は首肯する。
「二人とも歌人であるし、清少納言は随筆家、紫式部は小説家じゃ。互いに共通する部分が多いから、仲良くなれば語りが尽きぬ、いい友になれると思うのじゃが……」
「どうして仲良くなれないの?」
お互いに頭がよく、勉強もできて、コラムニストであり小説家ならば、通じるところがあるかもしれないのに。
「うむ。根本が違うのじゃ。清少納言は学問ができることを隠さず、紫式部は学問ができることを大っぴらにするのはよしとせず、ってところじゃな」
「だから、学問ができることをひけらかすのは下品……って、紫式部さんは言ってたのね」
価値観の相違は、離婚理由にも上げられる。それくらい紫式部にとっては、学問ができることを隠そうとしない清少納言の価値観が許せない、ということなのだろう。
「まぁ、時代のせいでもある。女性は学問ができなくてもよい、という風潮であったからな」
「今の時代まで、そういう風潮は続いてたみたいだよ」
祖母やその親の代は、勉強がしたくても上の学校に通わせてもらえない女の子が多く居たらしい。
金銭的な余裕の問題もあっただろうけれど、その時代に担う女性の役割が、家庭に重きを置かれていたからだろう。
天神人形は、フム……と頬杖を突く。
「私達が生きていた時代は、紫式部の考えが大多数で、清少納言のような振る舞いが異例であった。勉強ができる賢い女性は、男から煙たがられる。だから、学問ができないふりをする。あの時代の女性という立場からした処世術は、紫式部のほうに軍配が上がるであろう」
だが、と天神人形は悲しそうに目を伏せた。
「私からしてみれば……誰にでも、平等に学ぶ資格はある。できることを隠さねばならぬ風潮が息苦しいという、清少納言の気持ちも理解できる」
だから……と、天神人形は両手で耳を塞ぐ仕草をした。
「こうして口論が始まると、私は気配を消して、遺恨が残らぬよう存分に言い合ってもらうのじゃ。当事者同士で鬱憤を晴らしあえばよい」
触らぬ神に祟りなし。自ら好んで諍いに首を突っ込むことなかれ。
陽菜には、火花を散らす二人を遠巻きに傍観する天神人形の、心の声が聞こえてきたような気がした。
たしかに、あの二人の間には立ちたくない。
どちらも頭がいいから、同等かそれ以上の立ち回りができない人間であれば、言い負かされておしまいだ。
「紫式部さんに、清少納言さんの悪口を吹き込んだ人は、罪に問われるべきだと思う!」
我ながら、いいことを言った! と悦に入っていると、鼻で笑う気配がする。
天神人形を見遣れば、呆れたような眼差しを陽菜に向けていた。
「六歳のくせに、ずいぶん難しい言い回しをするのぅ」
「テレビで言ってたから、使ってみたかったの」
えへへ、と陽菜は頬を掻く。
天神人形の口角がわずかに上がり、そうか……と呟いた。
天神人形のまとう雰囲気からこわばりが取れる。
少しは、ここだけでも、場の空気を和らげることができただろうか。
そういえば……と、陽菜は天神人形に尋ねた。
「ねぇ、紫式部さんは、どんな小説を書いた人なの?」
「紫式部はね、およそ千二百年もの間、読み継がれている長編作品の著者。源氏物語の作者じゃ」
「あ、源氏物語……。お母さんの部屋に、漫画が置いてあるよ」
「漫画か。まぁ……絵で物語が進むだけで、解釈は違えど内容は同じだろう。それで、読んだことは?」
陽菜はフルフルと頭を横に振る。
「大人の内容だから、まだ陽菜には早いって、見せてもらえないの」
母の本棚に並んでいる漫画版の源氏物語は、少女漫画のように大きな瞳がキラキラした絵柄ではなく、大人向けの絵柄だった。
可愛いと思える絵じゃなかったから、読む気にもならなかったけれど、禁止されると気になってしまう。勝手にページを開いてみようとも思ったけれど、陽菜の手が届かない高い位置に置いてあるから、中を開いて読むことができないでいた。
天神人形は楽しそうに「ははは!」と息を吐いて声を殺して笑い、たしかに、と頷く。
「まだ陽菜には早い、大人の内容だ」
「もー! 天神さんまで、そんなこと言うんだ。何歳になったら読んでいいの? 小学校に行き始めたらいい?」
少し不貞腐れる陽菜に、天神人形は「高校生か、中学三年くらいかな」と、具体的に答えた。
「なんで、そんなにハッキリ断言できるの?」
「その頃であれば、人の好いた惚れたの気持ちが理解できるであろう。男女の駆け引きが分からぬお子様では、作品の面白さが分からぬというものじゃ」
「好きな人くらい、居るよ……!」
頭の中に、ツクヨミの顔が浮かぶ。
白銀の髪に、翡翠色の瞳を持つ神様は、きっと陽菜の初恋だ。
もう二度と会えない。また会いたいと切実に願っても、会うことができない初恋の相手なのだ。
また会いたくて、あのあと何度かススキの原に行ってみたけれど、セツ達の世界に入り込むことはできなかった。
夜に浮かぶ月を眺めているときに、想いを馳せることしかできない。
ツクヨミに会いたい。セツにも会いたい。だけど、アチラに続く扉は開いてくれない。
会えないのが苦しくてツラいと思えるくらいには、陽菜は幼いながらに恋をしているのだ。
「だぁれ? 陽菜ちゃんの好きな人って」
突然耳元で聞こえた声に、陽菜はバッと振り向く。
そこには、清少納言でもない、紫式部でもない、第三の平安美人ーーしかも、清少納言や紫式部とは比べ物にならないくらいの超絶美人が、興味津々な眼差しを陽菜に向けてきていた。




