動く人形
動いている天神人形と、陽菜の視線が交わったまま、数秒が経過した。
「うっ、わ、ぁ、ぁぁあああっ!」
腹の底から、大きな声で悲鳴を上げる。両手と両足を使って勢いよく後退り、天神人形から距離を取った。
「なっ、なんで? え? っえ?」
頭の中はパニックだ。
天神人形が座っていた台座に目を向ければ、やはりそこにはなにも無い。
陽菜を見下ろしている天神人形は、間違いなく、台座に座っていた天神人形だ。
「なんで……人形が、動いてるの?」
そういえば、人形には魂が宿ると聞いたことがある。
(まさか、そんな……マジで?)
天神人形は無言のまま、拾い上げた大刀を鞘に収めた。
パチンッと、納刀した小さな音がする。
天神人形は陽菜に向き直り、薄い唇を上下に開いた。
「これは、玩具ではない。遊びで構うな」
少し高めの声に、滑らかに動く唇。
腹話術に使われる人形のようなカクカクした動きではなく、生きている人間そのものの動きだ。
陽菜が言葉も無く見詰めていると、天神人形は眉根を寄せ、眉間に縦のシワを刻む。
「聞こえておるだろう。返事をせぬか」
「あ、はい……」
呆けたまま返事をする陽菜に、天神人形の眉間のシワは深くなる。
バチバチと、静電気のような放電が起きた。
「そなたは、いくつになる? 何歳だ?」
「年齢? えっとね、六歳だよ」
陽菜が答えると、天神人形は笏を顎に添え、わずかに首を捻る。
「私が六つの頃は、もう少し行儀もよく賢かったものだが……」
今度は陽菜がムッとして、眉間にシワを作った。
「賢いよ! おばあちゃんもお母さんも先生も、陽菜ちゃんは賢いねって褒めてくれるもん」
天神人形は笏でポンポンと顎を軽く叩き、反論する陽菜を見下ろしたままフンと鼻で笑う。
「大人の言う賢いねは、犬や猫を見て可愛いねと言うのと同じ。当てにはならぬ」
言い方と表情から、バカにされているのが分かる。さらにムッとして、陽菜の中にあった恐怖心は影をひそめた。
「もう、なんなの! 人形なら、大人しく黙って座ってればいいじゃない」
口をへの字に曲げた天神人形は、笏を顎に添え、腕を組んだまま陽菜の元へやって来た。
陽菜は立ち上がれず、さらに後退りすることしかできない。背中に障子が当たる。もう、これ以上後ろには下がれない。
天神人形の脇を抜ければ、この空間から逃げることができるだろうか。
頭上に影が差す。陽菜の前に来た天神人形はスッとしゃがみ、筆で描かれた瞳に陽菜を映した。
陽菜はグゥッと首をすくめ、息を詰める。手の平にジワジワと汗が滲んできた。
ポコン、と笏が陽菜の頭に置かれる。
ポコン、ポコンと何度も続けば、叩かれているのと同じだ。
「ちょっと、なんなの? やめてよ!」
全然痛くないが、不快だ。
手で払い除けようとするも、上手に避けられ、天神人形の手は止まらない。
いいか? と、天神人形の冷たい声が降ってくる。つまらない、めんどくさい、という感情が声からにじみ出ていた。
天神人形は叩くのをやめ、笏で陽菜の顎をクイッと持ち上げる。
「私はな、そなたが悩んでおるから、わざわざこうして来てやったのではないか」
わざわざ来てやった、という恩着せがましい言い方に、陽菜のイライラが加速する。
「頼んでないよ! 勝手に出てきたのに、私のせいにしないで」
「フンッ、そうか? 不安でたまらぬようであったがなぁ。よくも、そのような見栄が張れるものよ」
天神人形が言うとおり、陽菜は不安を口にしていた。ぐうの音も出ない。それでも、このまま引き下がるのは釈然としなかった。
「だからって、なんで動いたり喋ったりできるのよ」
「おや? 知らぬのか」
天神人形はニヤリと笑うも、わざとらしく笏で口元を隠す。
「私は、学問の神。学問についての不安なら、少しは払拭してやれよう」
陽菜は目をパチクリとさせた。意外にもお人好しな理由に拍子抜けだ。
「……わざわざ、そのために?」
「優しかろう?」
天神人形は「敬うがよい」と、不敵な笑みを浮かべて陽菜を見下す。
天神人形の優しさを素直に受け入れたくなくて、陽菜はツンとした態度をとった。
「自分で言うヤツじゃないね」
「おや? 自分が言わねば、誰が言ってくれる? 己の気持ちは、己で高める。それは学問を修めるにあたり、共通する部分だ」
天神人形の言葉の意味が理解できず、頭の中をフル回転させる。なんとかして、陽菜なりの答えを絞り出した。
「それは……モチベーションが大事、ってことかな?」
「モチベーション? 最近の言葉を使うでない。横文字には疎いのだ」
眉をひそめた天神人形に、残念ながら……と、陽菜は肩をすくめる。
「私はモチベーションを日本語でなんて言うのか分からないもん」
「なんじゃ、辞書くらい引かぬか」
「モチベーションとは、やる気、意欲、動機のことですわ」
天神人形の背後から、凛とした女性の声がした。
第三者の出現に、陽菜の心臓は跳ね上がる。
今度は誰? と、恐るおそる天神人形の背後を伺った。
後ろを振り向き、声の主を確認した天神人形は、然して興味も無さそうに「おやぁ……」と口中で呟く。
「清少納言。お主も来れたのか」
天神人形が清少納言と呼んだ女性のほうに体を向ければ、陽菜にも、その姿が見えてくる。
長い緋袴。五つ衣の上に、有識模様が刺繍されている赤色の小袿。流れるような豊かな黒髪。白く塗られた顔。ちょこんとワンポイントに唇を彩る赤い紅。
清少納言は檜扇を広げて顔の前に持ってくると、ええ、と答えて切れ長な目を細めた。
「清少納言……?」
登場した人物にピンときていない陽菜に、天神人形が溜め息混じりに答える。
「三人官女の一人だ」
「三人官女の?」
まさかと思い、雛飾りを確認する。
「うわぁ……」
並んでいたはずの三人官女が、一人居なくなっている。
向かって左側に立っていた一人の姿が、無くなっていた。




