天神人形
三月三日は雛祭り。
桃の節句とも言われているこの日は、女の子の健やかな成長を願う日だ。
雛飾りを家の中に飾るようになったのは、江戸時代になってから。それ以前は、作った紙人形に穢れを移し、川に流す流し雛が主流だった。
この家にとって、両親の代では初めての女の子である陽菜にも、とても豪華で立派な七段飾りの雛人形が買われていた。
全てを引き立たせる緋色の毛氈。設えられた台座に鎮座するお内裏様とお雛様は、平安時代の雅な雰囲気を表現している屏風の前に微笑を浮かべて座っている。
次の段には、中央に一人が座り、左右に一人ずつ立っている三人官女。三段目には五人囃子。四段目には菱餅と、弓矢を携えた右大臣と左大臣。五段目には立傘、靴台、台傘をそれぞれ手にする仕丁。六段目には嫁入り道具である箪笥や鏡や茶道具が並び、七段目には牛車や駕籠が並んでいる。
(素敵……)
陽菜は仏間に飾られた七段飾りの前に座り、下から上まで雛飾りを眺めていた。
母や祖母と一緒に飾りつけをしたから、達成感もある。
お雛様の顔は陽菜ちゃんに似ているね、と祖母が言ってくれるものだから、嬉しいのなんの。美人なお雛様と似ていると言われ、陽菜はホクホクの笑顔だ。
雛飾りの前には小さな折り畳みテーブルが置いてあり、その上には口が広いガラスの花瓶に菜の花と桃の花が生けてある。花瓶の横には緑色の瓶に入っている甘酒と、お内裏様とお雛様の可愛らしいイラストが描かれているパッケージの雛あられ。
陽菜の家では三月ではなく、月遅れの四月に雛祭りの祝いをする。だから、ここに供えられている甘酒と雛あられを食べられるのは、四月になってからだった。
それにお店では、一般的な三月に、雛祭り関連の商品が発売される。雛祭りのケーキも然り。
そして四月には、もうケーキ屋さんで、雛祭りのケーキは販売していない。
月遅れでお祝いをすると、普通より長めに雛飾りは楽しめるけれど、祝いの当日に雛祭りのケーキが食べられないことが少し不満だった。
雛祭りのケーキだけではない。桃の節句の頃に作られる和菓子の引千切。草餅をベースに白餡が乗り、ピンクのきんとんがフワッと添えられている。
この引千切も、月遅れの四月には販売がされていないから、四月の雛祭りで食べることができないのだ。
だから陽菜の家では、三月三日に雛祭りのケーキと引千切とチラシ寿司を食べ、四月三日の本番には、生クリームたっぷりのホールケーキとチラシ寿司を食べるということになっていた。
二度も美味しい思いができるのだから、不満もあるけれど、得られる満足感のほうが大きかったりもする。
そしてさらに、陽菜には、もうひとつ不満に思っていることがあった。
七段飾りの隣に飾られている、立派な天神人形。
この地域では、男の子が生まれると、学問の神である天神様ーー菅原道真公の人形を飾る風習があった。
(お兄ちゃんだけ、雛祭りで天神さんが飾られて、端午の節句で鯉のぼりや兜飾りがあるって……なんかズルい)
どうして男の子だけ、二度も祝いがあるのか。なんで桃の節句の天神人形みたいに、端午の節句に女の子の飾りが無いのか……。陽菜は、とても不満を抱いていた。
兄の天神人形は、台座を含めると、立ち上がった陽菜の身長くらい高さがある。細面にキリリとした眉と切れ長の目。鼻の下と顎には、立派な黒い髭。腰に携えている大刀は、ちゃんと鞘から抜けるのだ。
陽菜は大刀の柄を握り、ズッと引き抜く。刀身はアルミホイルみたいな、鈍い輝きを反射させている。刀身を覗き込めば、鏡のように鮮明ではないけれど、陽菜の目元をいびつに映し出していた。
大刀を手にしたまま、コロンと仰向けに寝転がる。大刀から手を離し、畳の上に置いていた画用紙を手繰り寄せると、平仮名を練習していたページを開いた。
黒のクレヨンで書いた文字は、大きさがバラバラで、形もいびつ。お世辞にも上手とは言い難い。
もうすぐで卒園式。四月には入学式が待っている。
いよいよ、国語や算数といった勉強が始まるのだ。
「勉強……ついていけるかな?」
数字は百まで数えられるし、文字も平仮名と片仮名は全部書けるように練習している。
宿題に苦戦している三年生の兄の姿を見ているから、勉強について楽観視できないでいた。
指の力が抜け、バササッと、顔の上に掲げていた画用紙が落ちる。
「うわっ!」
反射的に目をつむり、衝撃から逃れるべく、顔を横に背けた。
「あ〜、ビックリしたぁ〜」
顔の上から、落ちてきた画用紙を退ける。
すると、誰も居ないはずなのに、人の気配を感じた。
まだ兄は小学校から帰ってきていないし、父と母は仕事だ。パートが休みの祖母も、庭の草むしりをすると言っていたから、家の中には誰も居ない。
(誰……?)
視界の端に、烏皮靴と白い袴、紺色の朝服の襴が見える。畳の上に置いたままにしていた大刀に、朝服の袖が伸びた。
心臓が、ドキドキとうるさく暴れ出す。体全部が心臓になってしまったみたいだ。
怖いけれど、確認したい。どこかへ行けと念じながら、目をつむることはできなかった。
ゆっくりと、視線を横にずらす。
仰々しく座っていた天神人形が抜き身の大刀を手にし、冷たい眼差しで陽菜を見下ろしていた。




