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蜘蛛の塔  作者: シュリ
Truth

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第四十二話 告白

 初めは食糧だった。

 本当に神がこの世にいるのなら、きっと自分へのささやかな褒美なのだろうと思った。

 突然変異だか何だか知らないが、生まれ持ったこの黒く不吉な姿は不幸しかもたらさなかった。最長老は気の毒そうに庇ってくれていたし、太陽を浴びても燃えぬ身体は自分自身も幸運だと思えたが、利点と言えばそれだけで、不吉がられて隊からつまはじきにされ、雌たちからは常に病原菌のような扱いを受けた。

 それだけならまだ精神的な問題で済むのだが、自分への扱いは季節を巡るごとに度を過ぎていった。その日獲ってきた食料を横取りする、配分もわざとちょろまかされる、蛇どもと争いになった際は何の打ち合わせもなく囮にされる。同期の蜘蛛たちが雌を意識しだす頃は隊長から外出禁止を言い渡された。理由は、おまえは雌を乱暴して殺しかねないからだという。滅茶苦茶だ。馬鹿馬鹿しい。自分がいつそんなことをした。この牙も、糸も、爪も、同胞を傷つけたことなど一度もない。むしろ彼らこそこの身体を蹴り、虐げたではないか。

 その食糧に出遭ったのは、何もかもが嫌になった時だった。太陽の出ている間は自分にとってひとときの休息に等しい時間である。敵の蛇を追ううちに森の結界のほころびを見つけ、そして、この塔に導かれたのだ。

 塔にいたのは人間だった。薄暗い石壁にもたれて膝を抱える様はまるで打ち棄てられた屍のようだったが、初めて目にするこの生き物は大きく、柔らかそうで、食べ応えのある食糧に見えた。これを他の誰にも――隊の連中や雌たちには欠片も奪われたくないと思った。隊の務めなど意識の彼方へ置き去りにしていた。

 食糧は人間の雌で、蜘蛛である自分を恐れていた。姿を見るたびに気の毒なほど怯え、太らすためにやった餌もろくに食べなかったので、気がつけば目の前のこの人間の心を開かせようと、そればかりに心を砕くようになっていた。腐りかけの残飯から人間の食事方法を見抜き、その通りとまではいかないができるだけ再現してやった。

 彼女は喜んだ。

 彼女はいつしか、蜘蛛である自分に何か短く語りかけるようになった。その意味に興味が湧いて、魔力の糸を張り読み取ろうとした。

 彼女はただ、「ありがとう」と言っていた。

 生まれて初めて自分に感謝したのは人間だった。

 その後も毎日餌を与え続けたが、もはや太らせて食べたいのか、食べさせて「ありがとう」が聞きたいのか、わからなくなった。そう長く生きたわけではないが、生きている間に聞きたかった言葉は全て彼女の口から与えられた。

 そう、思い返せばこの時から、食糧にするという考えは頭から抜け落ちていたのかもしれない。ただ、蜘蛛としての妙な意地に引っかかって、それを自覚するのはもっと後になってしまったが。

 彼女の心は恐ろしいほど透明で、冬の冷気に薄く凍りつく水面よりも脆く危うげだった。姿の違う同胞を病原菌扱いするような雌たちとは違う、儚くも美しい心を持っているように思えた。自分は彼女に救われていたのだ。生きても死んでも同じだったこの生は、生まれ変わったように色づき、意味を持つようになった。彼女を守るという強い意志と共に自分の生きる意味が生まれたのだ。

 彼女が魔女だと聞かされたとき、「おまえも魔女の瞳の虜になったのだな」という最長老の言葉に、はっきりと違和感を抱いた。彼女を守ると決意したのは自分の心の意志だ。何かの力にねじ曲げられたのではなく、ただそうあることが自然であるように、凹みあるところに凸があるように、自分の心は彼女に寄り添っているのだ。彼女が神であろうが魔女であろうがただの人間であろうが、まったく関係ない。

『それでもあなたは、わたしを守ってくれる……なぜなの?』

 この身体に一つ不満があるとすれば、己の意思を彼女に伝えられない点だ。自分にもあの金の糸が使えたら――魔女の手記のあの蜘蛛のように、彼女の身体に幾重にも巻き付けて、嫌というほどこの気持ちを伝えられるのに。

 これまで自分の想いが伝わらずどれほど歯痒かったことだろう。彼女が「愛されたい」と心の中で叫ぶ度に、何度でも伝えたい言葉があったのに。

 この世に神が本当にいるのなら、この世のつまはじきにされた蜘蛛と少女に少しばかり慈悲をくれてもいいじゃないか。

 ふと見上げると、こちらを見下ろすリリーの眼が大きく見開かれていた。作り物のように白い指先で、震えながらこちらを指す。 

「あ、あなた……その、すがたは」

 そのすがた?

 自分のこの身体がなんだというんだ。

 彼女の指につられて己の身体を見下ろした。忌々しい黒い毛に覆われた脚が薄らと光をまとっている。それは徐々に強くなり、目もくらむほど強くなっていった。脚だけではない、身体全体がまばゆく輝いている。

 この光景は何度か見たことがある。だが、この身体ではありえない現象だ。かつて金の鴉が擬態の力を使い姿を変えるとき、こんな風に輝いていた。それが、この蜘蛛の身体に起こっているというのか。

 そこまで考えたとき、頭の中に金の羽毛の舞い散らかった屍の姿が浮かんだ。蛇は、あの体を食らえば「良いこと」があると言った。まさか……


 光はやがて暴発するように激しく輝き、リリーは思わず目を閉じた。強烈な光は瞼を通りぬけてリリーの閉じた視界を明るく照らしだす。

 光が徐々に収まりを見せ、リリーはおそるおそる目を開けた。そして、はっと息を呑んだ。

 目を凝らし、何度も何度も瞬きする。それでも消えないとわかると、リリーは震える唇を開いた。

「蜘蛛……なの?」

 蜘蛛もぱちぱちと《《瞬き》》した。

 巨大化した時のように高くなった目線に戸惑い、己の手足を眺めた。肌色だ。全身が人間の肌の色をしている。視界にはらりと黒いものが垂れた。触れると頭部に生えた黒い毛であることがわかった。音の聞こえ方がおかしい。聴毛で感じていたものが、頭の両脇についた一対の器官から聞こえてくる。匂いもそうだ。蜘蛛の身体より少々鈍いが、その分、人間の感覚はとても穏やかだった。

「……ア゙」

 喉元に手をやりながら音を絞り出す。喉に大きく飛び出た柔らかい骨の感触がある。これが震えて音を立てているのだ。リリーの美しい声はこんな風にして生まれているのだ。

「ア゙……ア、ア」

 一つ一つの音を確かめ、何度も何度も絞り出す。言葉にも文字にも満たない未熟な音が、少しずつ形を成していく。

 リリーは固唾を呑んで見守っていた。これから発されるであろう、初めて耳にする彼の言葉を、一つも聞き漏らすまいとしながら。

「ア……ア、イ、……」

 魔女の手記に繰り返し書かれていた言葉。

 リリーの心が幾度も叫んだ言葉。

 その言葉が持つ響きを思い出して、少しでも近づけようと繰り返す。当たらずとも遠からぬ、その発音は、怪しい濁点を取り除かれ、徐々に明瞭な、一つの言葉となっていく。

「ア……アイ……シ……テ、ル」


 アイシテル。


 愛してる。


 リリーのいっぱいに見開かれた白い目から大粒の雫がこぼれ出て、頬を流れ落ちていった。

「もう……一度、言って」

 心臓が痛いほど高鳴っている。思わずリリーは両手で胸を押さえた。

「もう一度……」

「ア、イ、シ、テル」

 言いながら、リリーの小さな両手を掴み、壁に押し当てた。色の抜け落ちたような白い唇からはっと息を呑む音がする。凍りついた水面のような白い瞳に、黒い男の影がぼやりと映し出されていた。

「アイシテル……」

 リリーの絹糸のような髪に顔をうずめながら、耳元で何度も何度も囁いた。己自身にも、リリーにも、一生消えないよう刻みつけるかのごとく。

 塔の外で森がざわめいた。どこかから柔らかな風に乗った花びらがくるくると塔の底へ舞い落ちてくる。白い花弁が次々と二人の周りに降りそそぎ、ちらちらと祝福の舞いを踊っていた。

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