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蜘蛛の塔  作者: シュリ
Truth

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第四十一話 夜明け

 暗い石床に金の羽根が舞い散っている。固く目を閉じた鴉の死骸を眺めながら、リリーは蜘蛛をそっと膝の上に置き、手を伸ばした。柔らかい羽毛に覆われた体は氷のように固く冷たかった。

 この鴉がメアリなのか、「母」なのか、それとも顔を見知った使用人なのか、判別がつかない。

 これを、食べさせようというのか。

 蛇の細い瞳孔を思い出す。彼は鴉を嫌っていた。立場の叶わなかった存在を捕食させることで、最後に恨みを晴らそうというのだろうか。

 冷たい死体に触れたまま、目を閉じた。

 幼い頃、『塔』の底で孤独の暗闇に閉じ込められていたとき、たびたび訪れてくれる乳母メアリの言葉だけが光を見せてくれていた。彼女がやってきた日は安心して眠ることができた。母や父という存在への叶わぬ憧れを忘れられた。

 メアリと再会したとき、これは夢なのではないかと思った。二度とその顔を見ることができないと諦めていた存在が目の前にいて、一緒に屋敷へ帰ろうと言ってくれる。それがどれほど嬉しかったことか。母と対峙するのは少しばかり勇気が必要だったが、蜘蛛とメアリがいれば何があっても平気だと思えた。

 どきどきしながら屋敷に入り、母に会ったとき――母の腕の中に迎え入れられたとき、ああ今が幸せの絶頂なのだと感じた。あれほど焦がれた存在が、自分を温かい腕で包み込んでくれている。ママ、ママ、と呼びながら屋敷を彷徨うことはもうないのだ。これからたくさんの思い出を作ろう、いろんな話をしよう、一緒に食事をしよう……次々に夢が膨らんだ。

 母が微笑む。メアリが笑いかけてくれる。つかの間の夢だったけれど、彼女のおかげで自分は幸せな時間を過ごすことができていた。偽りではあったけれど、あの頃の幸福に嘘はない。

 鴉から手を離し、静かに頭を垂れた。

 膝の上で横たわっていた蜘蛛の脚がぴくりと動いた。リリーは慌てて彼の背を撫でる。

「目が覚めたのね」

 蜘蛛の目が周囲を見回している。『塔』と、リリーの膝を確認して、彼は飛び起きた。飛び起きかけて、つんのめるようにがくりと倒れる。まだ起き上がる力はないようだ。

「無理はしないで。あなた、いっぱい怪我しているから」

 そうはいっても、このまま放置していれば彼はいずれ力尽きてしまうかもしれない。

 迷うリリーの視界に、金の鴉の死骸が飛び込んできた。

 蛇の顔が浮かぶ。

『蜘蛛が目覚めたらそいつを食わせな。おそらくだが、その蜘蛛はちょっと特別だから、俺の考えが正しけりゃ良いことが起こるかもしれねえ』

 良いことってなんだろう。何が起こるというのだろう。少し怖くもあったし、何より、メアリや「母」、使用人たちの姿を思い浮かべると抵抗もあった。

 しかし、このままではいられない。

 リリーの手には小さなガラス片が握られていた。目の閉じた鴉の首に鋭い切っ先を押し当てる。ぷつり。糸のように細く湧き出た血を指先ですくい取り、蜘蛛の口へ持っていった。

 ぽとり、ぽとりと血の雫が口の中へ吸い込まれていく。

「呑み込んで」

 そう促すと、蜘蛛の小さな口元がわずかに動いた気がした。リリーは次々に血の栄養を彼に与え続けた。

「足りないなら、わたしのもあげるから」

 その必要があったのか、なかったのか、蜘蛛の身体からがくりと力が抜け、再び動かなくなった。一瞬死んでしまったのかと焦り、蜘蛛の身体を撫でさする。ゆっくりと慎重に指先を這わすと、腹部の辺りに微かな脈動を感じた気がした。

「生きて……る?」

 泣きそうな声で問う。

 蜘蛛を撫で、何度も何度も呼びかけているうちに、リリーの意識も途切れてしまった。

 夢は見なかった。


 はっと目が覚める。辺りは薄明るい。『塔』の入り口から細々とした陽の光が頼りなく差している。懐かしい空気だった。

 眠っていたリリーの目の前で蜘蛛がじっとたたずんでいた。八本の脚でしっかりと地を踏みしめている。

「回復したのね」

 リリーの言葉に、彼は鋏角を動かした。

「良かった……血を呑んだあと、すぐに倒れちゃったから、とても心配だったの」

 言いながら身を乗り出して、固く硬直している鴉の死骸をこちらへ寄せた。

「これを……。蛇たちが持ってきてくれたの」

 目の前の鴉の死骸に、蜘蛛は戸惑っているようだった。ぎこちなく近づき、脚でつんつんと突いている。

 リリーは昨夜起こった事を全て話した。蛇や獣たちがやってきたこと、蛇の告白、そして、この死骸のことも。

「彼が言うには、あなたがこの死体を食べれば、何か良いことがあるかもって……。それが何か教えてもらえなかったけど」

 蜘蛛がこちらを見上げる。確かめるような、訝しげな目だった。心配しているようにも見える。

「だいじょうぶ」

 リリーは微笑みながらうなずいて見せた。

「だいじょうぶだから」

 この鴉が誰かはついぞわからない。もしかすると屋敷の者ではなくて、森にいた知らない鴉かもしれない。誰だったにせよ、今は蜘蛛の空腹を満たしてあげたいと思った。彼らのことを思えば、なんて残酷な考えなのだろうと思いもするが。

 蜘蛛はじりじりと鴉に近づき、躊躇いがちにその身体に脚をかけた。よじ登って、それから、一気に牙を突き立てた。

 蜘蛛が捕食している光景は初めて目にするものだった。その対象を思えば正直目を逸らしたくもなったが、敢えてしっかりと観察した。金の鴉の身体が徐々に萎み、彼が牙を突き立てている部分が少し溶けている。消化液を吐き出しているのだ。野にいる普通の蜘蛛ではまずありえないが、彼はあっという間に鴉の中身を啜りきってしまった。

 ぺたんと骨ばった鴉の身体をそっと拾いあげ、リリーは塔の入り口の真下へ運んだ。石床にぼんやりと差す明るい陽の輪の真ん中で、金色の羽毛の塊は煙を上げだし、やがてこんもりとした灰になった。上空に開いた穴から風が吹き、灰の山を巻き上げて連れ去ってしまう。

 リリーは鴉の消え去った塔の出口をしばらく見つめていた。

 蜘蛛が鴉を捕食してからしばらくの間、二人は塔の隅に座り込み、身体を休めていた。リリーは蜘蛛の様子が気になり、居ても立っても居られなくなって、目の前の彼の方へ身を乗り出した。

「どうかしら、何か、変わった……?」

 蜘蛛は反応を見せない。リリーの目にも特に変化はなさそうに見える。

「ううん……もっと時間が必要なのかしら。もう少し待ってみれば、きっと何かあるかもしれないわ」

 リリーは一旦言葉を切った。迷うように宙を見、口を開いては閉じ、何事か逡巡する。そして意を決したように改めて口を開いた。

「あの。……助けてくれて、ありがとう」

 屋敷の地下での攻防。いや、それ以前から、彼は自分を守ろうとしてくれていた。リリーにとってあまりに酷な事実を隠そうと懸命に動いてくれていた。そして、いざ自分がすべてを暴こうと決意したときは、傍にいて付き従ってくれた。

「何もかも、あなたがいなければ、なし得なかったわ」

 眠れない夜は傍にいて、悪夢から守ってくれた。過去のトラウマを呼び起こした時も、落ち着くまでじっと見守ってくれていた。

「蛇に言われて気がついたの。わたしは、完全な魔女ではなかったみたい。それは、そうよね。最初にわたしを襲った蛇も、あなたのお仲間も、わたしの眼をみたけれどわたしが嫌いみたいだった。……鴉や、あなたの偉い蜘蛛には気の毒な勘違いをさせてしまったわ」

 ぴるぴると小鳥の脳天気な歌声が聞こえてくる。『塔』の外は穏やかで平和な光景が広がっているのだろう。魔女の死を引き金に、たくさんの悲劇があったことも忘れたように。

 目を閉じ、蛇の言葉を思い出す。


『最も、そいつは別の理由でおまえを好いたようだが』


「聞いてもいいかしら」

 リリーの白い唇は少しだけ震えていた。

「わたしの眼には魔女のような力はないわ。それでもあなたは、わたしを守ってくれる……なぜなの?」


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