第二十二話 手記 二
町の喧騒から少し外れた緑の大地の中を、木々に囲まれるようにして川が流れている。東西の町に共有されているこの川には、昼間は女たちが集まり、明るくおしゃべりをしながら水を汲み衣服を洗う。
女が集えば派閥が生まれる。男からすればつまらない軋轢のように思えるが、それだけでその日の仕事に影響が出てしまうのだから馬鹿にはできない。
そして、そこからはみ出され、一人窮屈そうに洗濯をする女の姿があった。流れるような金色の髪を束ね、周りの女と同じようなスカートにエプロン姿であるが、整った容貌が彼女の姿を一際目立たせている。
場所を奪われ、嫌味を浴びせられても、彼女は取り澄ました表情を決して崩さなかった。
日が傾き空に赤みが滲み出るまで辛抱強く待ち、彼女らが去った頃にようやく腰を落ち着ける。
「大変だな、女というものは」
低く、穏やかな声がして、女は弾かれたように振り向いた。川辺の木に背を預けるように立つ男の姿を認めると、嬉しそうに立ち上がる。
「まあ、領主様。このようなところまで」
「先日も来ているのだがな。それより、つらくはないか。何か嫌がらせを受けているなら、私ができることをしてやろう」
「いいえ。ご心配には及びません」
女は首を振りはにかんだ。
「皆さん、私のような者を、羨ましがってくださっているのです」
「ほう。なぜかな」
とぼけたような声に、もう、と女は目をそらす。それから、照れたように男を見上げた。
「貴方が、私のところへいらしてくださるから」
「そうか。それは、どうしようもできないな」
男は肩を竦める。
「私は貴女と、一時でも多く共に過ごしたいのだよ。早く、私の元へ来てもらいたいが」
「私だって、そうありたいわ。ですが……」
言い淀み、顔を曇らせる。男は怪訝そうに首を傾げた。
「一体どうしたと言うんだ」
女は眉を寄せ、ちらと周囲に目をやった。声にするのも躊躇いつつそっと口を開く。
「……森の中に、魔女が棲んでいるでしょう」
女の呟きに、男は思い出したように、ああ、と答える。
「そうだな。いつからあそこに棲みついているのかわからないが」
「とても怖ろしいのです。貴方の元へ嫁ぎ、いずれ子を生した時――貴方もその子も、この地を治める者。魔女に目をつけられやしないかと、心配で心配で」
最後まで聞かぬまま、男は女の肩を掻き抱いた。
「大丈夫だ」
強く抱きしめたまま、言い聞かせるように口にする。
「確かに貴女の心配は最もだ。私もこの間あれの姿を見かけたが、あの色味のない相貌はこの世のものとは思えぬほど不気味なものだった。しかし、私の持てる力をすべて注ぎ、必ず貴女と子を守ると誓おう」
「……本当に……?」
声を震わせる女に、男は力強くうなずく。
「心配は、要らないよ」
その声を聴き、木立の中を逃げるように走り去る白い影があった。
魔女は身を潜めながら男の後を追っていた。幾日もかけて彼が見回りの最後に必ず川辺へ向かうことを知り、どうやら彼に意中の女がいることも察した。それでも彼の行く末を見守ろうと思っていたのに。
――あんまりだ。
彼女の白い睫毛が震えていた。目頭が熱い。途方もないほど昔から、人間の様々な悪意を堪え忍んで生きてきたが、その中でもとりわけ酷く心を痛めつけられた気がした。
『この世のものとは思えぬほど不気味なものだった』――彼の言葉が脳裏をよぎるたび、身体が真っ二つに引き裂かれたかのような痛みが走る。
「あっ――」
足がもつれて派手に転んだ。顔から無様に倒れてしまい、起き上がろうともがく。
差し伸べられる手はなかった。遠く聞こえる町の喧騒を耳にしながら、彼女は独りぼっちだった。
西の領主が妻を娶った。
町の噂を拾い、鴉が朝一番に教えてくれる。
彼女は鴉を指へ止まらせ、「そう」とだけ呟いた。
町の人々は「めでたいなあ」と囁きあった。魔女は森へ引きこもって姿を見せなくなっていた。これも領主様のお力のお陰よと、妻となった夫人がにこやかに言うものだから、皆それを信じていた。
鴉は再び屋敷を離れ、人間の集う町の空へと溶け込んでゆく。その姿を見送り、魔女は深いため息をついた。
彼女のため息は、目の前で窓の桟を横切ろうとしていたコガネムシの動きを止めた。彼はこちらを見上げ、何か言いたげに触覚を動かしている。
魔女は指先をそっと彼の方へ近づけた。コガネムシはのそりのそりと脚を動かし、真っ白な爪の先に身体を乗せる。
爪先に止まったコガネムシを眺めながら、彼女は囁くように歌った。
音楽などという高尚な芸術は手習っていないが、彼女は物心ついたときから歌を知っていた。自分を産んだ者が教えてくれたのか、記憶の彼方に置き去りにしたどこかで聞き覚えたのか。
彼女の歌声は決して大きくなく、穏やかなさざ波のような調べだった。それでも、どこからともなく窓辺に獣たちが集いはじめていた。皆、彼女の声に耳を傾け、或いは感覚器官の全てを委ねて聴き入っていた。
歌う彼女の白い瞳が遠く彼方を見つめている。森を越え、町を越え、その向こうにそびえる領主館が思い浮かぶ。
「――っ」
歌声が大きくぶれ、旋律は突如断ち切れてしまった。彼女は下を向いて肩を震わせていた。
「ごめんなさい」
謝りながら小さく嗚咽を漏らす。
「なんでもないの。なんでも――」
両手で目を覆う。
獣たちが窓を超えて彼女の傍へとやって来る。膝に乗る者、両側から涙を拭おうとする者、真正面から覗き込もうとする者。彼らの痛心を肌で感じて一層涙が溢れてしまう。
恋心を抱き、愛を知り、その場で打ち破られてしまった。
不気味な姿と言われた。怖ろしいと言われた。もう何度も言われた言葉なのに、こんなに心に突き刺さるなんて。
誰かを傷つけたり、支配したいわけではない。ただ静かに暮らしたいだけだった。魔女と呼ばれてはいるがその力は決して恐ろしいものではなく、ただ、生き物たちと心を通わせられるだけ、槍で貫かれても絶命が叶わぬだけである。身体に流れる血は赤く、心臓は規則正しく鼓動し、人間のそれと何ら変わりない。
安寧の地を求めて彷徨う中で、火に炙られ、数えきれないほどの石で打たれ、鼻先で冷たく扉を閉められ――その度に、もう人間とは関わらないでおこうと固く誓った。それなのに、抗えない運命の力によって彼と引き合わされてしまった。たった一度、思いがけず触れた手は、これまで感じた何よりも温かかったのだ。
「こんな思いをするくらいなら、いっそ死んでしまいたい」
ぽつりと呟く。死という概念が甘やかに目の前を漂っている。
「何も食べないでおこうかしら、そうしたら、流石に、この身体も朽ち果てるでしょう」
何気なく口にした言葉を聞いた瞬間、獣たちは一斉に散り散りになっていった。窓や扉から蜘蛛の子を散らすように走り去っていく。
魔女は白い目を瞬かせ、呆然としてその姿を見送った。
夜の帳が降りる。彼女は本当に何も口にせず、ベッドにだらりと横たわっていた。薄闇の中に浮かぶ月明かりをぼうっと眺めている。
ふいに微かな物音がして、彼女は眼を動かした。
開いた窓や扉の隙間から、小さな影がそろりそろりと侵入してくる。ふさふさした尻尾やぬるりとした鱗など、暗闇で姿は見えなくとも気配でわかってしまう。
彼女は上体を起こし、燭台に素早く火を点した。
「だれだ」
小さな影はたちまち散らばり、物陰に姿を消す。彼女は腕を伸ばし、逃げきれなかった一匹の哀れな子リスを捕まえた。
「あら、こんな夜更けに、こんなところへ。一体何をしに来たのかしら」
尻尾を摘ままれ、キイキイ喚きながら手足をばたつかせる。ぱらぱらと豆粒のような木の実が転がり落ちた。
「……これは」
子リスは観念したようにおとなしくなった。
ソファやベッドの下、テーブルの脚の影からそろそろと獣たちの顔が覗く。彼女はため息をついた。
「みんな、出ておいでなさい」
彼らはおずおずと足元に集まり、各々贈り物をそっと置き並べた。木の実や、生け捕りにした動物の身体、蜂の巣などという物騒なものまで、あらゆるものがそこに並べられていく。
「どうしてこんなことを」
手前にいたトカゲに尋ねる。彼はかぱりと口を開け、何かを訴えかけるようにしゅるしゅると舌を震わせた。
「……飢え死にを心配してくれたの?」
彼らは一斉にこくりとうなずいた。
魔女の白い瞳が真ん丸に見開かれる。ついにこらえきれなくなって、思いきり吹き出した。
「ふふふっ……そうだったの。心配しなくても、私は死んだりしないわ」
嘘だった。先ほどは本当にそのつもりでじっと横たわっていたのだ。
「大丈夫よ。ありがとう」
彼らはあからさまにほっとしたように顔を見合わせた。そんな顔を見てしまえば、嘘を本当にするしかなくなってしまう。
彼女はしゃがみ込み、足下に並べられた食料たちをかき集めて木箱に入れた。
「せっかく持ってきてくれたものね。残さず調理してしまいましょう」
***
「お嬢様」
突然声をかけられ、リリーはびくりと背筋を正した。
「め、メアリ」
「申し訳ありません。驚かすつもりはなかったのです。ただスコーンが焼き上がりましたので」
メアリは手に銀の盆を携えていた。後ろに控えた使用人の女たちも丸めたマットを手に立っている。
甘く香ばしい香りが鼻をつき、リリーは思わず息を吸い込んだ。
「美味しそうな匂いがするわ」
「そうでしょう。奥様ももうじきいらっしゃいますから」
メアリはリリーの足元をちらりと覗き見た。
「何をなさっていたのです?」
「ああ、あのね……」
言いかけて、あれっ、と声を上げそうになった。
膝に載せて広げていた黒い本は忽然と姿を消していた。
呆然としている少女を目にして、メアリの顔に薄い苦笑がのぼる。
「風を浴びていらっしゃったのですか? 今にお風邪をひきますよ」
「だ、大丈夫よ」
口にしながら、ただ困惑していた。
逃げるように姿を消してしまった黒い本と、そこに書かれていた悲しい物語。あれは一体、なんなのだろう。読み進めたその先で何が待ち受けているというのだろう。





