第二十三話 懐疑
昼間は清々しく晴れ渡っていたのに。頭上にのしかかるような低く分厚い雲をリリーは不安げに見上げていた。
いつも美しく輝いている月が完全に覆い隠されてしまっている。まるで今の自分の心の中を透かして見ているようだ。
頭の中は黒い本のことでいっぱいだった。魔女の――自分の先祖とも言える女の生き様が、ことごとく残酷で、悲しくて、読んでいるこちらまで悲痛に胸が苦しくなる。そして、自分もいずれこの屋敷の主として町へ下りた時、人々にどのような反応をされるのか――考えただけで胃が窄まる思いだった。
ベッドに潜り込んだが、眠るどころか目が冴えてしまう。不安で全身が冷え切ってしまっているのだ。何も考えまいと言い聞かせたが、耐えきれずにベッドから這い出てしまった。
部屋を右に出て、まっすぐ進むと突き当りに母の部屋がある。扉の真ん中に細長く嵌められた磨りガラスから煌々と光が照りだしているのを見て、まだ起きているのだと胸を撫でおろした。
扉の前に立ち、深く息を吸い込む。戸を叩こうと手のひらを軽く丸める。
「リリー」
突如名を呼ばれ、思わず肩をびくつかせた。振り返るとすぐ後ろに母が立っている。
「お、お母さま」
ほっと安堵の息を吐く。母は長い睫に縁取られた目を細めて首を傾げた。
「どうしたの? もう眠る時間でしょう」
「あの、お母さま。今夜は、一緒に眠りたいの……」
顔を真っ赤にして、おずおずと消え入りそうな声でそう訴える。
母はきょとんとした顔をして、すぐに控えめな笑い声を上げた。
「ふふ……あらあら。甘えたさんね。……でも、だめよ」
「えっ」
母と子が共に眠ることは、自然なことではないのだろうか。それとも、メアリが読み聞かせてくれる物語が間違っているのだろうか。
混乱気味に見上げるリリーに母は続ける。
「私は、どうしても独りでなければ眠れない体質なのよ。わかってもらえるかしら、我が子よ」
母の細い腕に抱きしめられ、リリーは足下に目を落とした。
「そう、なのね。ごめんなさい」
「いいえ。私もできることならそうしてあげたいのだけど、ごめんなさいね……」
母は頬に軽くキスを落とし、お休みなさいと部屋へ入っていった。
とぼとぼと薄暗い廊下を歩く。一階に下りる階段の踊り場でメアリの姿を見つけた。壁に取り付けた洋燈の灯を消して回っている。
「おや、お嬢様。まだ起きていらしたのですね」
「ねえ、メアリ、今日は、一緒に眠ってもいい……?」
先ほどよりも小さく、蚊の鳴くような声でそう尋ねると、メアリは「おやおや」と首を傾げた。
「お嬢様もまだまだ甘えたいお年頃なのですね」
「……お母さまにも似たようなことを言われたわ」
「奥様のところにも行かれたのですね」
「ええ、でも……」
目を伏せてうつむく。
「だめだったわ。独りでなければ、眠れないんですって」
「そうですねえ」
メアリは一瞬思案した。
「私でよろしければ、喜んでお供いたしますわ。ただし、眠る際は鴉の姿に戻ってしまいますけれど」
「そんなの、気にしないわ」
リリーはぱっと顔を上げてメアリに飛びついた。
「ありがとう……良かった、断られたらどうしようかと……」
「まさか」
ぎゅうと抱き着かれながらメアリは細い指先で真っ白な髪を梳く。
「お嬢様のお望みなら、どのようなことでもお従いします」
リリーの部屋のベッドは天蓋がついていて、大人が四人は寝転がれそうなほどの広さがある。初めて見た時はこれが眠る場所だとは思えなかったほどだ。リリーは嬉しそうに転がり込み、大げさに片側を空けた。
「それにしても、今夜は一体どうなさったのですか?」
隣に入りながら、メアリが訊ねる。
「いつもお独りで眠っていらしたのに」
「……ちょっと、寂しくなってしまったの」
あの黒い本に書かれていた悲しい体験を思い出し、機嫌の悪い空模様と相まって、心の底から寒々しさがこみ上げていた。しかし今は幾分か気持ちが軽く感じられる。傍に誰かがいるというのはこんなにも心強いものなのかと、改めて思い知らされる。
「そういう日もございますわ。それに、お嬢様は今まで孤独の中で生きていらしたんですもの」
これからは私どもをどうぞ頼ってくださいね。
微かな労りを持った声が耳元で囁く。
「お休みなさいませ、お嬢様」
優しく頬を撫でられる。こわばった肩から力が抜け、リリーはゆっくりと瞼を閉じた。
次に目を開けた時、辺りはまだ暗闇に閉ざされていた。途中で目が覚めてしまったようだ。
寝返りを打ち、再び目を閉じようとした。しかし、ふと違和感を覚えて目が冴える。
おそるおそる、空間を確かめるように手を伸ばす。隣にいるはずのメアリがいない。代わりに、ふさふさとした感触が指先に触れた。
目をぎゅっと閉じ、五感を暗闇に集中する。意識を闇の中に溶け込ませれば、また夜目が利くようになる。
そっと目を開けると、薄らと辺りの景色が見え始めた。目の前に黒い塊が鎮座している。嘴を身体に潜り込ませるようにして丸まる鴉の姿だった。
『眠る際は鴉の姿に戻ってしまいます』というメアリの言葉が脳裏に甦る。
リリーはしげしげと目の前の鴉を観察した。
暗闇のせいでわかりにくいが、確かに金色の羽毛をしている。そういえばメアリの瞳も金色だった――そこまで考えて、はたと思い当たる。
かつて森の入り口で目にした、あの猫の瞳も、金色だった。
どこかで見たことがある、と強烈に感じたのを覚えている。その既視感の正体はメアリの瞳だったのだ。蜘蛛が金の糸を吐き炎を出せるように、鴉も他の生き物に擬態する能力を持っている。あの猫は鴉だったのではないか。
だとしたら何故、メアリは猫と呼んだのだろう。
頭の中で回想を進めていく。
確かにメアリはそれを猫と言った。鴉の擬態であれば彼女が気づかぬはずがあろうか。もし気がついていて敢えて猫と言ったのなら、故意に隠したということになる。
まさか。リリーは内心で首を振る。無邪気に喜ぶ自分を悲しませないために優しい嘘をついたのだ。きっとそうに違いない。
言い聞かせる彼女の頭の中で、小さな疑惑がいつまでもぐるぐると回り続けていた。
朝になると鴉はメアリの姿になっていて、いつも通り起こしてくれた。
「ねえ、メアリ」
後ろのリボンを結んでもらいながらリリーは尋ねた。
「なんでしょう」
「前に、森の入り口で猫を見たでしょう。あれは、メアリみたいな鴉が猫の姿になっているの?」
メアリの手が一瞬止まった。しかしすぐに何でもないように気を取り直す。
「さすが、ご聡明でいらっしゃいますね。あれらは、森の悪意ある獣がこちらへ逃げ出すことのないよう、見張っている鴉ですわ」
「どうしてわざわざ、猫の姿を取っているの」
「前にも申しました通り、魔力を持った生き物は皆、太陽に弱いのです。当たればすぐに灰となって消えてしまいます。しかし、我々鴉は何かに擬態している間だけ守られるのです」
メアリは冷静に淡々と口にする。リリーは首を傾げた。
「その擬態は、解けてしまうこともあるのね」
「……ええ。その通りですわ。持って一日といったところでしょうか。通常は眠りにつく間に擬態を解き、翌朝に備えますけれど」
終始淡々としているが、なぜ急にそんな事を、という戸惑いが透けて見えるようだった。
一度疑問をぶつけてしまえば、もう止められない。リリーは軽く息を吸い込んだ。
「もう一つだけ訊いてもいい?」
メアリはワードローブを開け、選ばれなかったドレスたちを仕舞い込んでいた。
「はい」
「その、お母さまにはあんまりきちんと訊けなくて……お父さまはどこに行ったの」
ばたん、と蓋が閉じられる。メアリはこちらを振り返らずに言った。
「奥様は、なんとおっしゃられたのです」
「もういない、とだけ」
「そうですか」
短いやりとりの中で、リリーは一つ確信していた。知らないのなら、そう言うだろう。彼女は明らかに何かを隠している気がする。
「メアリは何か知っているの。どうしてみんな言いにくそうにするの。お父さまは確かに、怖いけれど……そんなに気遣われなくても平気だわ」
「お嬢様」
メアリは正面に回り、少し屈んでリリーの目を覗き込んだ。
「あの方は、奥様自ら、追放なさいました」
「――え」
耳を疑い、数回目を瞬かせる。
「どういうことなの。追放……お父さまはこの辺りを治める方なのでしょう。それに、お仕事とか……」
「いずれはお嬢様に継いでいただく形となりますが、今は奥様が全てなさっておられます。あの方は、崇高なるお嬢様に手ひどい仕打ちを行い、殺めようとしました。奥様はお嬢様と一緒に住まわれる決心をされた時、あの方を追放なさったのですわ」
『我々が綺麗に取りはからいます』というメアリの言葉を思い出す。
かつて、母も父と同じように自分を追い出した。メアリもそれを認め、そんな者の肩を持つのかと心底驚いていたはずだ。
あの夜、メアリが母を説得してくれたのだとしても、実の娘を飢え死にさせようとした人間がたった一夜で心変わりをし、愛情を持って迎えてくれるものだろうか。
考えれば考えるほど疑問が湧き出てくる。頭の中がぱんぱんだ。
――蜘蛛に、話したい。
彼は物を言えないが、きっと話を聞いてくれる。気の済むまで思考を巡らせ、思いを口にするのをずっと見守ってくれる。そんな気がした。蜘蛛の傍にいることで、単に心を落ち着かせたいだけなのかもしれないが。
一緒に部屋を出る間際、リリーはメアリを見上げた。
「蜘蛛がどこにいるか、知らない……?」
メアリは宙に目をやりながら答えた。
「どこに行ったのでしょうかねえ……。蜘蛛の長によると、彼はお嬢様の正式な護衛になりたいと自ら志願したらしいのですが」
「そうなの?」
初耳だった。
「ええ。ですから、今でも屋敷の中や外を常に巡回しながら、目を光らせていることでしょう。彼には太陽の光も関係ありませんし……。お嬢様の元に危険が及ばぬように昼夜問わず見張っているはずです」
そうなんだ。そう口にしながら、胸の内がじわじわと深い安堵に覆われていくのを感じていた。
やはり彼は、自分の傍にいようとしてくれているのだ。
期待のこもった視線をあちこちに向ける。廊下の天井や壁の彫刻の隙間、窓の桟――きっとどこかにいるのだという情報が、心に少しだけ晴れ間を見せていた。
朝食が終わったら蜘蛛を探そう。そう決意して階段を下りていく。





