第二十一話 日常
目が覚める。天蓋の裏をぼうっと眺めながら、昨夜の出来事をぼんやりと思い起こす。
少しだけ期待して横に目をやった。そこには誰もいなかった。静寂の漂うひんやりした空気と、縮んだ蝋のこびりついた燭台がぽつんとあるだけだった。
わかってはいたが、どうしようもない寂寥感が胸の内を覆う。
諦めたようにもう一度目を閉じ、ごそごそと寝返りを打つ。その憂鬱な空気を打ち破るように、コンコンと扉がノックされた。
「お嬢様」
メアリが入ってきた。いつも通りの、慈愛がこぼれ出るような微笑みを浮かべて、優雅に一礼する。
「おはようございます。朝食の準備ができましたよ」
リリーはのそりと起き上がった。何度か目を瞬き、ふわと欠伸をかみ殺す。
「おはよう……」
「お顔を洗って、お着替えをいたしましょうね」
ベッドからのろのろと起き上がって、部屋の洗面台で顔を洗う。昨晩泣いたせいだろうか、鏡に映る自分の顔はほんのり浮腫んでいる気がする。急いで冷たい水を浴びせて少しでも腫れを治めようとした。
メアリは見上げるほど大きなワードローブを開き、何着か選び抜いて腕に掛け始めた。
顔を拭き、メアリから渡された化粧水を塗り付けていると、色とりどりのドレスを見せられる。
「本日はどちらになさいますか」
「ええと」
いつも思うのだが、これがさっぱりわからない。その日の気分で適当に選んでもいいと言われるのだが、そもそも、その日に何を着ようかなど、『塔』にいた頃には考えたこともなかったのだ。
「メアリが選んで」
結局、いつも任せてしまう。
「そうですねえ……それでは」
暗い赤のドレスを手に取る。屋敷にあるワインの色だ、とリリーは思った。
着替えを手伝ってもらい、リリーは鏡の前に立った。メアリは嬉しそうに手を叩く。
「素敵ですわ。お嬢様の白いお肌に、よく映えますわね」
「そ、そうかしら」
頬が熱くなり、おろおろと足下に目を落とす。ここへ来てから何でもかんでも褒められてばかりだ。未だに慣れないのでどういう反応をしていいのかわからない。
「さあ、下へ参りましょう。奥様がお待ちですわ」
二人は部屋を出て階段を降りていった。
「ねえ、メアリ」
「なんでしょう」
「その……いろいろ、ありがとう」
屋敷奪還作戦の夜のことは、まだ鮮明に覚えている。あの日がなければ、自分はまだ『塔』にいて、温かい生活というものを知らずに生きていただろう。
屋敷に来た当初から、自分のための部屋や綺麗で清潔なドレスなど全てが用意されていた。あの一夜でこれだけの準備をするのはきっと大変だったに違いない。
「いえ。こちらこそ、一族の長年の夢が叶い、嬉しく思いますわ」
「そういえば、こういうお洋服って、どうしたの。お母さまが着ていたものでも無さそうだけど……」
「それは、秘密です」
メアリが悪戯っぽく笑う。
「我々の手にかかれば、造作もありませんわ」
「これも、魔法なの?」
「魔法。そうですわね。そう思っていてくださいな」
魔法と言えば。リリーの脳裏に黒い表紙の本が浮かぶ。
あの赤い文字の書き手は、おそらく魔女だ。生前の日記のようなものだろうか。読んだ箇所まででは、絵本などで見聞きするような魔法を使う記述は一切見られなかった。ただ動物たちと協力しながら生活していたとしか、わからない。
「メアリ、前の魔女は、どんな魔法を使っていたの」
リリーの問いに、メアリは指先を顎に当てて考え込んだ。
「私も、直接お会いしたわけではありませんけれども……。ただ、我々のような動物や獣たちの心を掴み、自らの力として使役なさっていたことは、先代の長から伝え聞いております。それは紛れもなく、神の力。魔力の成せる技でしょう」
「……そうなのね」
何でもないように返したが、ほんの少しだけ肩を落としてしまった。
蜘蛛が金の糸や炎を出すように、鴉が姿形を変えるように、魔女も何かしらの技を持っていると思っていた。ゆくゆくは自分もそんな風になれるのかと、淡い期待を抱いていたのだが、実際は少し違うのかもしれない。
大広間では、母親が既に着席していた。
「おはよう、私のかわいいリリー」
端正な口元に朗らかな笑みを浮かべる。
「お、おはようございます、お母さま」
新しい名は自分にはまだくすぐったいものだった。嬉しいのだが、いざ呼ばれるとどこに目をやっていいものか迷ってしまう。
「お座りなさいな。一緒にいただきましょう」
長いテーブルにずらりと並んだ白い皿。使用人の女たちが次々やってきて、温かいマフィンやパンケーキを乗せていく。ジャムやクリーム、蜂蜜、名前の知らない料理まで、リリーの視界からはみ出るほどに並ぶのだ。屋敷に来た当初はこれに戸惑い、何か良からぬ儀式でも始まるのかと怯えたほどだった。今ではもう慣れっこになっている。
「いただきます」
食事の前には挨拶を。そう教えてくれたのはメアリだった。リリーの強い希望により、メアリも同じ食卓についてくれていた。
「……お母さま」
母は銀のフォークを口元へ優雅に運びながら、首を傾げた。
「どうしたの」
「その」
――どうして、わたしと一緒に住むことを許してくれたの。
その問いは喉まで出かかって、呑み込んでしまった。
屋敷に住むようになってから目まぐるしい生活の変化について行くので精一杯であったが、そんな中でも常に心の隅にひっかかっていたことだった。しかしいざ口にしようとすると、今の穏やかな空気が壊れてしまう気がして言い出せなかった。
「なんでもないわ」
「まあ、何かしら」
くすくす笑う。その屈託のない笑みを見るとリリーの肩から少し力が抜けた。
もしかすると、自分が棄てられたのは強引な父の決断によるもので、母自身は心を痛めてくれていたのかもしれない。自分が思うほど事態はつらいものではなかったのかもしれない。
それからは、三人で天気の話や花の話を交えながら食卓を空にしていった。
朝食が終わると、母は仕事があるからと自室へ上がってしまったので、リリーは仕方なく部屋に戻った。ベッド脇に置いていた黒い本を手に取り、屋敷の外へ出る。
さわさわと風の流れる広い丘で読めばきっと気持ちが良いだろうと思ったのだ。実際その通りで、ふさふさした草地の上に座り込むと心地よく、読書もはかどる気がした。
黒い表紙を開き、ページをめくっていく。意味を成さない模様の羅列が言葉へと姿を変えていく。この変換に頭が慣れたのか、今では一瞬にして意味を解することができる。
『恋心というものがあって、それが生殖行為へと焚きつけるのだと理解している。しかし私という生き物にもそれは存在しうるのだろうか。私は生殖器を持たない。体つきは女に似ているが、雌のそれとは違うのだ。だから、仮に恋心が湧けばそれは全く意味を成さないものとなる。
それでも、私の中に今あるこの感情は、これまで生きて学んだ全てを顧みても、恋心という他なかった。あの人の手の温かさを思い出すたび、胸の奥が強くうずくのだ。熱くて苦しくて、耐えられない。こんなことは初めてだ。どうすれば鎮まるのか。
鴉に訊けど蛙に訊けど、答えは見つからない。彼らは胸に湧いた甘苦しい感情をすぐさま相手にぶつけるそうだ。そうして子を生していく。私には、それができない。
居ても立ってもいられず、町へ下りて行くことが増えた。店の前で、学び舎の前で。彼はこの地を治める者だから、あちこちを見て回っていた。彼の姿が見えるとすぐに隠れた。私はどうしようもなく臆病だった。彼の生きたであろう年月の何倍も長い人生を送ってきたというのに、おかしなことに、彼に顔を見せる勇気がかけらもない。
そのうち私は気がついた。彼の姿を見ているだけで良いのだと。私の生ある限り、あの人の無事を見守ろう。それが私に唯一できることなのだ。
私の独り言を聞いた鴉は言った。それが、愛というものです、と』





