第二十話 手記
この世に生を受け産声を上げた時から、彼女は人ではなかった。それ故に孤独だった。
刃でその身を貫かれようと、猛毒を飲まされようと、激しい電撃に撃たれようと、命が潰えることはなかった。
背格好も二十年余りで止まってしまった。
自分が誰かの腹から産まれたことや、どうやって少女時代を生きてきたかなどとうに忘れるほど、長く生きてきた。生きざるを得なかったのだ。
誰が名付けたのか、気がつけば魔女と呼ばれていた。世界がどれほど広いか知らないが、真っ白に染まったその身体を晒せば、どこへ行っても魔女だと恐れられ迫害された。
別に誰かを傷つけたいわけではない。何かを虐げたり、支配したいとは思わない。ただ静かに暮らせる場所が欲しかった。彼女は彷徨っていた。何年、何十年、何百年経ったのか、もう数えることも忘れた頃、彼女はその場所を見つけた。
のどかで穏やかな町。気候も安定し、人々の心が平和に満ちていることがその暮らしぶりから感じ取れた。ここでなら静かで落ち着いた生活ができるかもしれないと考えた。
しかし、自分の存在は人々を恐怖に陥れてしまう。長すぎる人生の中で味わった、幾つもの苦い経験が頭をよぎる。
町の真ん中に、分厚い森が広がっていた。陽の光を浴びた町の様相とは打って変わって、森は暗く、陰鬱で、魔物が出るとさえ噂されている。人々は恐れて近寄らない。
彼女は森に足を踏み入れた。森は、人々が恐れるような暗黒ではなく、温かで柔らかな薄闇が支配していた。その森を抜けた先に、大きな屋敷が建っていた。
森に囲われるように丘が広がっている。その真ん中にぽつんと屋敷はあった。近くで見るとぼろぼろで、壁や屋根に穴まで開いている。中には蜘蛛の巣があちこちに張られ、何かの糞や食べかすが無数に転がっている始末だった。
彼女は真っ先に掃除を始めた。
どこからか鴉が飛んできて、バケツを咥えて川辺に向かった。兎がやってきて雑巾を持ち、屋敷中の窓を拭き始めた。蛇はモップに巻き付き台所の床を磨いた。屋敷を取り囲む獣たちの力を借りて、彼女は屋敷を見違えるように生まれ変わらせた。
森が堅固な城壁となって、人間の悪意から彼女を守っていた。人々はいつしか、魔の森、魔女の屋敷と呼ぶようになった。
彼女は時折町へ下りて、食べ物や布きれを買っていた。お金が無かったので、いつも油を手渡していた。彼女は森に入って植物を採取し、いつでも上質な油を手に入れることができたからだ。
こうして持ち帰った食べ物は調理され、布で衣服ができあがった。作るのはいつも獣たちだった。彼女は獣や虫たちと心を通わせ、助けを求めることができた。彼女の中にある特別な魂の力を借りて、彼らはどんな事でもこなしてくれるのだ。
それが彼女を魔女たらしめる所以であった。
***
ふっと、辺りが暗くなった。
突然視界が奪われ、リリーは動揺のあまり手当たり次第に手を伸ばした。燭台の蝋燭が燃え尽きたのだ。本を読み始めて一体どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
不思議だった。『塔』に居た頃は暗闇が当たり前だったのに、いつから自分は闇を恐れるようになったのだろう。闇の中でも物を見ることができた目は、いつの間にか何も映さなくなっていたのだ。
もがくのをやめ、椅子の上で静かに膝を抱えた。静まり返った闇の中で耳をそばだてる。かつて自分がそうしてきたように、身体ごと闇に溶け込むように。
すると、暗闇の奥で微かに物音がした。壁に何か細いものが擦れるような音。それが少しずつこちらに近づいてくる。
音は地に降り立った。目に見えたわけではないが、気配を察したのだ。それはやがてすぐ傍まで近づき、ぴたりと動きを止めた。
耳に痛いほどの静寂が降りる。目の前の何かが放つ、低い息遣いだけが肌に伝わってくる。
突如、眼前で真っ赤な炎が燃え上がった。
「きゃっ――」
あまりに突然のことで、反射的に目を閉じ本を盾にして身構える。
炎はすぐに小さく柔らかくなった。おそるおそる瞼を開け、光源の方へ目をこらす。
巨大な真っ黒い影がこちらを見下ろしていた。六つ並んだ黒い瞳に光が反射して煌めいている。
「あ……」
あなただったの、と言う前に全身から力が抜けてしまった。
黒蜘蛛は身を乗り出し、足先の灯火を燭台に近づける。溶けて縮んでしまった蝋燭の芯に再び火が点された。
部屋が明るく照らされる。リリーは改めて目の前の蜘蛛を見つめた。彼の姿を目にするのはずいぶんと久しい気がした。
「やっと、会えたわ」
椅子の背にもたれて、ぽつりと言った。
「ずっと……ずっと、会いたかった」
蜘蛛は答えない。ただそこに立っていて、じっとこちらを見つめている。
リリーはもの言いたげに口を開いた。しかし言葉は出てこない。
――屋敷に越してきてから綺麗なドレスを着せられるの。毎日お風呂に入って気持ちがいいの。ベッドはふかふかで、何よりお屋敷はとても温かいわ。
いろんな事を伝えたかった。母やメアリや、使用人たちにどんなに褒めそやかされても、蜘蛛の反応が一番知りたいと思っていたのだ。
「本当に……会いたかったのよ」
声が震える。蜘蛛の毛むくじゃらの触肢が伸びて、白磁の頬に触れた。そっと拭われて、頬が濡れていることに気がつく。
椅子に座っていた身体がふわりと宙に浮いた。蜘蛛に持ち上げられたのだ。リリーは咄嗟に手を伸ばし、慌てて燭台と本を掴んだ。
蜘蛛に抱きかかえられたまま暗い廊下を移動する。揺られながら足下に注意して目をこらすと、床に細い糸が張られていて、その上を伝っているのが見えた。なるほど、何かを抱えながら移動するときはこうするのかと、独り納得する。糸は彼の腹部から出て、通り過ぎると自然に掻き消えていた。便利なものだ。
二階の突き当たりが母の部屋で、リリーはその手前にある部屋を与えられていた。蜘蛛に抱きかかえられたまま身を乗り出し、真鍮の取っ手を捻った。
扉が開く。冷え切った部屋の中をするすると進み、ふかふかのベッドの上に降ろされる。
「待って」
慌てて手を伸ばした。
「ここにいて……」
せめて、眠りにつくまで傍にいてほしい。
これは、我が儘だろうか。
ふさふさした感触に手を包まれる。蜘蛛の触肢だ。手を握ってくれた、そう思った瞬間、リリーの意識は睡魔に引っ張られていた。もともと夜更かしできない体質であるが、今夜は遅くまで本に没頭していたおかげで、彼女の脳は限界を迎えていたのだ。
待って、もう少しだけ起きていたいのに。目を開けたら彼はいないかもしれないのに。
視界が霞み、やがて完全に闇に閉ざされた。
待って、ここにいて。そう懇願する声に、彼は胸を詰まらせながら必死で訴えていた。
――ここにいる。いつも傍にいて、あなたを見ている。
実は、屋敷の中にいて密かに彼女を見守っていた。小さな蜘蛛の姿をとりながら、姿を紛れさせながら、新しいドレスに感動する姿や目を輝かせて食事にありつく様を、見守り続けていたのだ。
蜘蛛は最長老に志願した。神と崇められる魔女を護衛する役目を、永久に継続させてほしいと。彼が元々仲間内から差別され、嫌われている現状を鑑みた最長老は、彼の意思を汲み取り、屋敷へと派遣した。
こうして彼は名実共にリリーの護衛となった。
しかし、かつての捕食者だった自分の姿を目にすれば、彼女は餌にならなければならないといつまでも思い詰めるかもしれない。だからなるべく姿を消していたのだ。
毎夜、彼女が寝静まる頃にそっと部屋を訪れ、その寝顔を確認していた。夢の映像を目にしている彼女の顔が険しくなると、触肢で額を優しく撫でた。
鴉や蜘蛛たちが森の出入り口を固めてはいるが、ずる賢い蛇のこと、出し抜いて屋敷までやって来ることがあるかもしれない。それら外敵から無防備な彼女を守る目的もある。
だから今晩は肝を冷やした。いつも通り寝室を覗くとリリーの姿がどこにもない。燭台と靴が見当たらないことから、どこかへ出て行ったのだと推測し、蜘蛛は屋敷中を探し回った。
三階の奥の書斎で彼女を見つけたときは、心の底から安堵した。小さな身体を椅子に埋めて、書物を広げて一心不乱に読み耽っている。もう字を読めるようになったのかと、しみじみ感心した。
――あなたにはこのまま幸せになってほしい。
リリーの無防備な寝顔を見つめながら、蜘蛛は心中で呟いた。
自分のことなど忘れて、この屋敷での生活を楽しんでいてほしい。そうでなければ、あの夜決行した作戦に意味などないのだから。





