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蜘蛛の塔  作者: シュリ
Truth

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第十九話 黒の本

「リリー様、こちらのお召し物はいかがですか」

「こちらの靴をお試しください、リリー様」

 少女、いやリリーは綺麗なドレスを着せられて、踵のついた慣れない靴を履かされた。

 お屋敷では毎日のように豪華な食事を食べられたので、もう以前のようにやせ細った惨めな姿ではなくなった。綺麗な洋服に身を包み、毎日お風呂に入り、たくさんの使用人たちに囲まれて、何不自由ない生活を送っていた。

「お母さま」

 一階のバルコニーで、母が刺繍をしている。手元の布地に目を落としたまま「なあに」と返す。

「お父さまは、いつ帰ってくるの」

「何を言っているの。お父さまはいないわよ」

 リリーの白い目が瞬かれる。

「いない……?」

「あなたを、あんな所へ閉じ込めた怖いお父さまは、もういないわ。だから安心なさい」

 終始穏やかな顔をして、背を撫でるような優しい口調で母は言った。

 リリーはくるりと踵を返した。

 どんな反応をして良いものかわからない。父を最後に見たのは、幼い頃に樽に詰め込まれた時だ。狭く暗い樽の中に押し込まれたとき、恐怖のあまり失禁したのを覚えている。出してと必死になって懇願したが、渾身の訴えも空しく、父によって樽は『塔』の底に降ろされていた。

 父のことを思うと、むごい仕打ちと強い恐怖が思い起こされる。思い出と言えばそれだけだ。だから、もういないと聞いて、正直言えばほっとしていた。

 しかし素直に喜ぼうとは思えなかった。メアリによれば、父親と母親というものは、愛し合って子供を授かるという。その愛し合うというのはよくわからないが、互いを好んでいるということは理解できる。そんな相手をいないと言った母の前で、あからさまにほっとしてみせるのは、いけないことだと感じたのだ。

 突き当たりの階段を上がっていく。屋敷の全てはリリー様のもの、そう使用人からは言われているので、暇な時間を使って探索している。屋敷は思いのほか広く、部屋が無数にあるため、まだ全てを把握できていない。

 ふと目を上げる。リリーは思わず足を止めた。瞳孔のない白い目が、ある一点に釘付けになる。

 クリーム色の壁を、手のひらほどの黒い蜘蛛がちょろちょろと這っていた。

「待って」

 慌てて追いかける。蜘蛛の動きは素早く、あっという間に廊下の曲がり角に姿を消した。

 角を曲がった先に部屋があった。蜘蛛は扉の隙間から身体を滑り込ませて入っていってしまったようだ。

 目の前の扉にはくすんだ銀色の取っ手がついていた。手をかけ、遠慮がちに扉を開く。少し埃っぽい匂いが鼻をつき、思わずくしゃみを飛ばしてしまう。

 黒い蜘蛛は部屋の壁を這っていた。よくよく目をこらすと、それはよくいる普通の蜘蛛だった。自分の知る黒い蜘蛛ではない。

「……なんだ」

 白い唇から深いため息が漏れる。

 屋敷に帰った日から、あの蜘蛛は姿を見せていない。使用人たちに囲まれ、母親に抱きしめられ、メアリに本を読んでもらっても――いつも心のどこかで蜘蛛の姿を求めていた。ついて行くと直接言われたわけではないが、来てくれると思っていた。あの夜、自分の問いに無言で答えてくれたのだから。

 どこにいるの。一緒に暮らしてくれるって信じていたのに。

 小さな蜘蛛はいつの間にか姿を消していた。

 改めて辺りを見回す。部屋には物がたくさんあった。どこを見ても本、本、望遠鏡、ひしゃげた箱。それらが乱雑に積まれていて、部屋の奥の机が半ば埋もれて見えるほどだった。

 積まれた物を避けながら、部屋の奥へとたどり着く。重厚な木製の机と、柔らかそうな椅子がある。羽根ペンとインク壺、本、黄ばんだ用紙が散らばっている。

「お父、さま……?」

 知らない匂いで充満しているこの部屋は、母のものでも、もちろんメアリのものでもなさそうだった。

 リリーの手が、導かれるようにして机の引き出しに伸びる。縦に四段重ねられたうちの一番下に、吸い寄せられるように手をかける。重い木の擦れあう鈍い音と共に引き出しが開かれた。

 中には一冊の本が入れられていた。それ以外には何もなく、不自然なほどすっきりとしている。取り出してみると、とても古いものだとわかった。黒い革表紙の端が朽ちていて、紙も他の物とは比べものにならないほど酷く汚れている。

 何気なく表紙をめくってみる。赤いインクで、手書きの文字がびっしりと連なっていた。蜘蛛の糸のように繊細な文字だ。リリーはまだ文字が読めないので、そっと閉じようとした。

『あの人』

 突然、言葉が頭に飛び込んできた。一瞬何が起こったのかわからなかった。誰かに話しかけられたのかと思い反射的に振り返るが誰もいない。

 改めて本に視線を落とす。

『パンと林檎』

 今度こそ、間違いではなかった。信じられないことだが、文字が言葉として、リリーの脳内に伝わってくるのだ。読めるはずのない文字が断片的に飛び込んでくる。それらは、読めば読むほど繋がっていく。

『パンと林檎を買いに丘を降りる。きっかけはそれだけだった。その日は少し強く雨が降っていて、私は分厚いフードを被っていた。私の足は弱く、ただでさえ歩き慣れていないから、恥ずかしいことに街中で転んでしまった。私は人間に嫌われている。だから自力で立つしかなかった。せっかく買ったパンと林檎が袋から飛び出ていた。惨めで、泣きそうな私に手をさしのべたのが、あの人だった』

 これは何の物語なのだろう。メアリがこれまで読んでくれた童話や、短い物語たちにはない、どこか奇妙な雰囲気を纏っている。

 本を横に置き、試しに別の本や用紙を手に取ってみる。しかし、それらの文字はどれだけ頑張って凝視してみても、一つも読めなかった。なぜかこの不思議な本だけが文字の意味を理解できるのである。

 とんでもない大発見に胸が高鳴った。誰かに伝えたい――メアリの顔が浮かぶ。わたしは文字が読めるのだと、今すぐ報告したくてたまらない。焦ったように部屋を飛び出した。

 温かな日差しの中、メアリは他の使用人たちと洗濯物を干していた。息を荒げて駆けてきた、埃まみれのリリーの姿を見てくすくすと笑う。

「まあお嬢様、一体どうなさったのですか、そんなに慌てて」

「メアリ、聞いて! ああ、早く見せたいわ、わたし、文字がわかったのよ」

「文字が?」

 メアリの金の目が見開かれる。

「いつの間にお勉強なさったのですか」

「いいから、はやく来て、ちょっと不思議なことが起きているから、直接見てもらいたいの」

 ぐいぐい引っ張られながらメアリはついて行く。階段を上がり、三階の突き当たりへ向かう。

 リリーは扉を開き、メアリを中へ通した。

「埃っぽい部屋ですね」

 眉を寄せるメアリを置いて、リリーは奥で手招きする。

「こっちよ」

「今参ります」

 足下に散乱する書籍たちを器用に避けながらリリーの元へ急ぐ。

 リリーは机に散らばった用紙を適当に手にして、広げて見せた。

「これ、わたし、読めないの」

「はい」

「でもね、ここにある本は読めたのよ」

 そう言って勢いよく引き出しを開けた。

 沈黙が走る。

「……何もありませんが」

 空っぽの引き出しを見つめたまま、リリーは固まっていた。

「どうして――」

 引き出しに手を突っ込み、何かを探るようにあちこち動かす。

「何か、見間違えられたのではありませんか?」

「そんなはずは……確かに、ここに置いたのに」

「最近、屋敷にねずみが出ますから、持って行ってしまったのかもしれませんよ」

 軽やかに笑うメアリに、リリーは歯がみする。

「悔しいわ。わたしにも読める文字があったってこと、教えたかったのに」

「では、また見つけられたら教えてくださいな。今度一緒にお勉強いたしましょうね」

 




 夜、リリーはベッドの上で丸くなりながら、シーツの上で手のひらを滑らせていた。どこを触ってもさらさら、ふかふかしていて、揺り椅子の上で縮こまっていた頃のことが遠い昔のような気がしてしまう。

 眠ろう、と瞼を閉じているのだが、昼間に見つけた本のことが頭に浮かんで離れない。

 この手で確かに手に取り、表紙を開いた。とても古くて今にも崩れそうな薄いページをめくった感触が今でも指先に残っている。どうして無くなってしまったのだろう。それとも、不思議な魔法が見せた幻だったのだろうか。

 魔女というものが確かに存在していて、メアリや蜘蛛のように、魔力を持った生き物がいる。何者かが見せた幻影だとしても不思議はない。

 上体を起こす。床にそっと足を下ろし、靴を履いた。音を立てぬようそろそろと扉を開ける。廊下は真っ暗だった。先が見えぬほど濃い闇に包まれている。これほどの暗闇は久しぶりだった。

 部屋に戻り、テーブルの上の小箱を開ける。窓から差し込む月明かりを頼りに目をこらして、マッチを一本取り出した。メアリに教わったとおりに燭台に火をつける。

 そういえば、黒蜘蛛は何も使わずに火をつけることができたなと、ふと思い出した。『塔』の中で食事を与えてくれていた頃のことを思い起こして、胸の奥がきゅっと摘ままれる。

 ぶんぶんと首を振って、燭台を掴んだ。

 蜘蛛はきっと忙しいのだ。彼にも仲間がいて、そこでの役割があるのだろう。

 扉を開け、暗闇の中に再び踏み出した。手にした燭台の灯火は手元を映し出してはいるが、奥の濃い闇に吸い込まれてしまう。

 それでも強い好奇心が闇への恐怖に打ち勝ち、足を前に動かしていた。

 三階にたどり着くと闇はますます濃くなっているように思えた。燭台を近づける。銀色の取っ手が闇の中にぼんやりと浮かび上がった。リリーは迷わず手をかける。

 扉が開かれると同時に、濃いにおいがむわりと鼻をついた。埃と古いもののにおいだ。燭台を持つ手を前に突き出して、足元にも気を配りながらそろそろと移動する。

 机は、変わらずそこにあった。ごくりと唾を呑み、ゆっくりと息を吐きだす。そして、勢いよく引き出しを引いた。

 黒い表紙の古びた本が姿を現した。

「あった……」

 口から安堵のため息が漏れ出た。燭台を机に置き、本をそっと手に取る。

 固い表紙をめくると、昼間見たのと同じ、赤く線の細い字がびっしりと並んでいた。初めはわけのわからない模様にしか見えないが、じっと見つめていると次第に言葉が浮かび上がってくる。

『彼はしゃがんで、転がった物を拾い集めてくれた。投げ出された袋を拾い上げて残さず詰めて、立てますか? と言ったのだ』

 息をするのも忘れてページをめくる。


『私は、初めて人間の手の温かさを知った』 


 心臓が大きく脈打った気がした。

 この文章の書き手が誰なのか、頭の中で一つの仮説が生まれていた。そして、それは確信に近づいていた。

 言葉が重なるにつれ、手書きの文字は走ったように荒くなったり、急に静かに落ち着きを取り戻したりと、様々な様子を見せるようになった。文字から片時も目を離さないまま、そろそろと椅子に腰掛ける。

 白い蝋が一筋、垂れる。燭台の炎が小さく揺らめいた。

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