クリスタル
食料調達へと向かう途中、アルベルトはふと足を止め、背後を振り返った。
薄暗いアビスガーデンの空は相変わらず濁った灰色に覆われ、時間の感覚すら曖昧にさせる。だが、その中で彼の瞳だけは確かな意思を宿していた。
「見せたいものがある」
短くそう告げると、彼は口笛を鳴らす。
直後、上空の闇を裂くように一匹の飛竜が舞い降りた。巨大な翼が巻き起こす風が砂塵を巻き上げ、周囲の魔物の気配を一瞬で遠ざけた。
「こいつで行くぞ、歩きじゃ少し遠い」
「飛竜!? アルベルトさんのペット?」
「まぁ、そんなとこだ」
エルナは驚愕しながらも、その威容に思わず息を呑む。
飛竜は静かに頭を垂れ、アルベルトに従順な様子を見せていた。彼が軽く首筋を撫でると、低く喉を鳴らす。
「乗れ」
差し出された手を取り、エルナは飛竜の背へと跨った。すぐにアルベルトも後ろへ乗り、軽く脚で合図を送る。
次の瞬間、視界が一気に開けた。
凄まじい加速と共に、飛竜は空へと駆け上がる。地面が瞬く間に遠ざかり、アビスガーデンの全貌が広がった。黒ずんだ大地、ところどころに蠢く魔物の群れ、そして渦巻くように流れる魔素の気配。
「すごい……」
エルナは思わず呟く。
しかし、その感嘆はやがて別の感覚へと変わる。
何かがおかしい。
進めば進むほど、空気が重くなる。
いや、空気ではない。魔素だ。濃すぎる魔素が、まるで粘つく霧のように体にまとわりついてくる。
「アルベルトさん、ここ…」
「もうすぐだ」
彼の声はいつも通り落ち着いている。だがエルナの心臓は早鐘を打っていた。
やがて飛竜が高度を落とすと、その先にあったものを見た瞬間、エルナは言葉を失った。
大地の中心に、それは存在していた。
巨大な結晶。いや、塊と呼ぶべきだった。
山のようにそびえ立つ深紅のクリスタルが、脈打つように淡く光を放っている。その周囲では、目に見えるほど濃密な魔素が渦を巻き、まるで生き物のように流れ込んでいた。
「これは?」
「この地の中心だ」
飛竜が地面に降り立つと、エルナは思わず一歩後ずさった。
息が詰まる。
肺に空気が入らないような感覚。全身を押し潰されるような圧迫感。肌に触れる魔素が、まるで刃のように鋭く感じられる。
「無理です。近づけない」
膝が震え、これ以上一歩でも踏み出せば体が壊れると本能が告げていた。
だがアルベルトは違った。
「そうか。一番心地いい場所なんだがな」
ただ一言、それだけを言うと、彼は何事もないかのように歩き出す。
「待って! 危険…」
エルナの制止も意に介さず、アルベルトは山のように鎮座する巨大な深紅の結晶へと向かっていった。その背中はあまりにも自然で、この異常な空間がまるで影響していないかのようであった。
一歩、また一歩。
魔素の奔流の中心へ。
普通なら立っていることすら不可能な領域へ、彼は平然と踏み込んでいく。
やがてクリスタルの目前に立つと、軽く拳を握った。
「ちょうどいいな」
そう呟いた直後、ドンッと大地を揺るがす鈍い衝撃音が響いた。
アルベルトの拳が巨大なクリスタルに叩き込まれる。次の瞬間、信じられないことが起きた。
山のような結晶の一部が、砕けたのだ。
欠片が宙を舞い、地面へと転がる。その一つをアルベルトは拾い上げると、何事もなかったかのように踵を返し、エルナの元へと戻ってきた。
「ほら」
差し出されたのは、拳大ほどの結晶の欠片だった。近くにあるだけで、肌が焼けるように熱い強烈な魔素を放っている。
「こんなの、持てるわけない…」
恐る恐る手を伸ばす。
触れると、全身に電流が走ったような感覚が走った。しかし、次の瞬間にはそれが不思議と落ち着いていく。
「あれ?」
さっきまで近づくことすらできなかったはずなのに、その欠片は確かに手の中にあった。重みがあり、そして脈打つように魔素を放っている。
「これは……魔素の塊?」
「ああ。ここに流れ込んでるやつが固まったものだ」
アルベルトは淡々と答える。
「そんな…こんな量…ありえない…」
エルナは震える声で呟いた。王族として、そして魔術を学んできた者として理解できる。この結晶がどれほどの価値があるかを。
国一つを動かせるほどの魔素の塊。
「これを、私に?」
「ああ。持っとけ」
あまりにも軽い口調だった。
その言葉の重みは計り知れない。
エルナはしばらく黙って結晶を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「本当に、あなたは一体…」
それ以上言葉が続かなかった。
アルベルトは何も言わず、ただ飛竜の方へと歩き出す。
「戻るぞ」
「……はい」
エルナは結晶をしっかりと抱え、彼の後を追った。その背中を見つめながら、ひとつだけ確信する。
この男は世界の常識の外にいる。
そして自分は今、その異常へと足を踏み入れているのだと。




