狩り
「来るか?」
唐突な一言にエルナは顔を上げる。
「え?」
「食いもんが尽きた。探しに行くぞ」
アルベルトはそれだけ言って歩き出す。
そして、数歩進むとわずかに振り返った。
「剣、使えるんだろ?」
その言葉が少し嬉しかった。剣士として、ローゼリアの剣術が認められた気がしたからだ。
エルナは剣を手に取り、立ち上がる。
「……行きます」
迷いはあったが、足は止まらなかった。
しばらく進むと、空気が変わった。
肌が粟立つような感覚にエルナは身震いする。
そして、視線の先に『それ』はいた。
巨大な狼、というよりも狼の姿をした何か。
五メートルはあろうかという巨体に鋭い牙、濁った赤い瞳。
ただ立っているだけで絶望感が込み上げてくるような化物が目の前にいる。
(これは!)
知識が警鐘を鳴らす。
外の世界なら国を挙げて討伐隊が組織されるレベルの危機的存在。
「小振りだが、今日はあれでいいか」
アルベルトが平然と呟く。
「こんなの二人では無理です。勝てる訳ありません!」
声は震え、理屈ではなく本能が拒絶している。そんなエルナにアルベルトは信じられないことを言い放った。
「二人ではない。やってみろ」
「え?」
「剣、振れるんだろ?」
(まさか……私だけで戦えっていうの?)
突き放すようでいて、それも違う。
アルベルトは試すような目でエルナを見ている。
逃げる理由はいくらでもある。
勝てるわけがない。無理だ、確実に死ぬ。
それでも、エルナは歯を食いしばる。
「……はい」
一歩踏み出すも足が重い。それでも止まるわけにはいかない。どうせ一度失った命。
また剣を持つと覚悟を決めたのだ。
巨大な狼と目が合った瞬間、全身が凍りつく。
(怖い)
呼吸が苦しい、手が震える。しかし、エルナは剣を構えた。
守るための剣。染み付いた動き。
(迷うことはない。自分を信じて。私ならできる)
「はああああっ!!」
力も速度も何もかも、対峙するこの化物を倒すには全く足りない。
それでも、エルナは全力で剣を振る。
狼の体に剣が触れる前に、巨大な前脚が振るわれる。動きは速すぎて見えなかったが、体は自然と反応した。今までさんざん繰り返してきた動き。
「くっ!」
衝撃で体が弾き飛ばされ、地面を転がる。
肺の空気が全部抜けたように息ができない。
視界が揺れる。
それですぐに理解した。今ので終わりだと。
狼がこちらに向かってくる。
あとは食われるか、踏み潰されるか。
(これで終わり…)
そう思った瞬間、影が割り込んだ。
アルベルトだった。
「悪くない」
彼が木刀を軽く構えると、狼が跳ぶ。
空気を裂き、牙が迫る。
アルベルトが一歩踏み込んだその瞬間、間合いが消えた。
粗雑な木刀が振られ、音すら遅れる。
狼の巨体が静止し、崩れ落ちた。
たった一撃ですべてが終わっていた。
風の音だけが残る空間で、エルナは地面に倒れたままそれを見ていた。
何も考えられない。
(この人は……本当に人間なの?)
この違いは何なのか。経験、才能、努力、それらすべて。それでも説明がつかない比類なき力。今は何も分からない。
アルベルトが振り返る。
「立てるか?」
淡々とした声にエルナはゆっくりと体を起こす。全身が痛むが、動けなくはない。
「……はい」
かすれた声で答える。
アルベルトはそれ以上何も言わず、仕留めた獲物へと歩を進め担ぎ上げる。
いつも通りの日常。彼にとってはこれが普通なんだ。エルナはその背中を見ていた。
そして、ゆっくりと自分の剣を見る。
さっきまでの自信はもうない。
ただ、分かったことがある。
今の自分ではまったく届かない、そんな世界があるのだと。すべてが足りない。でも、手も身体もまだ動く。
エルナは剣を握り直した。
(やるしかない)
逃げないと決めた。それは、変わらない。
アルベルトの背中はあまりにも遠い。
しかし、目を逸らしてはいけない。
ここからがきっと始まりなのだから。




