異常な日常
迷いはなかった。恐怖もなかった。
ただ、静かな決意だけがあった。
それなのに、
「うっ…!」
エルナは息を詰まらせ、冷たい空気で目を覚ます。見慣れない岩の天井。
『アビスガーデン』
信じ難い現実がそこにあった。
体を起こそうとしても、全身が鉛のように重く力が入らない。夢の余韻ではない。
この場所そのものが体力を削ってくる。
「生きてる?」
かすれた声が漏れる。どうして自分は生きているのか。死ぬはずだったのに。
死にたかったのに。何もできず一人逃げ出した自分に生きる資格などない。
その時、視界の端に動くものが映った。
アルベルトだった。
乾いた音が一定の間隔で響く。
ビュンと風を切る音。
同じ動き。同じ速度。同じ軌道で。
エルナは岩陰に座り込みながら、その光景をぼんやりと眺めていた。
アルベルトが剣を振っている。
敵がいるわけでもない。何かを狩っているわけでもない。ただひたすらに彼は同じ動作を繰り返している。
何百回も。何千回も。その一振り一振りが大気を震わせ、素振りとは思えないほどの轟音を響かせている。
時間の感覚がこの場所では曖昧だった。
だが、それでも彼がずっと剣を振り続けていることは分かる。
アルベルトが粗雑な木刀のようなものを振るたびに離れたエルナの場所まで風圧が届く。
「……何をされているのです?」
思わず問いかけていた。
アルベルトは手を止めずに答える。
「見れば分かるだろ。素振りだ」
「それは分かりますけど、なぜそんなに素振りばかり? 何のために?」
「理由などない」
短い返答。それ以上の説明はない。
エルナはしばらく黙り込む。
こんな場所で延々と素振りだけを繰り返す。
この人は何をしているのだろうか。
ただ、その動きには一切の乱れがなかった。
無駄がなく隙もない。
ただの素振りのはずなのに、それには万物を一刀両断するのではないかと思えるほどの圧倒的な威圧感があった。
(きれい……)
ふと、そんな言葉が浮かんだことに自分でも驚く。ここは地獄のはずなのに。
目の前の光景はなぜかあまりにも神々しく見えた。
「なぜ…」
あの巨大な魔獣を一撃で屠る姿はまだ鮮明に覚えている。それ以上、何を求めるのか。
すると、アルベルトはようやく剣を止めた。
「関係ない」
「え?」
「食うか食われるか。ここはそういう場所だ」
そう言って、またアルベルトは剣を振る。
空気を切り裂く音がまた辺りを支配する。
「相手が何であれ、負けることは許されない」
エルナは言葉を失う。
だが、どこかで分かる気もした。
意味があるからやるのではない。
何かしていなければ不安なのだ。それはかつての自分にもあったものだった。
「あなたは……」
言いかけて止まる。
何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。
どこから来たのか。
なぜここにいるのか。
ここで何をしているのか。
どれも聞いたところで意味のない問いのような気がした。
アルベルトは剣を地面に突き立て、座り込む。
「食うか」
差し出されたのは焼かれた肉だった。
魔獣の肉。匂いは悪くない。
だが、躊躇いがある。
「ホントに大丈夫ですか? それ?」
「俺は平気だ」
「あなたは、ですよね?」
当然の疑問だった。
アルベルトは少しだけ考えたあと、肉を一口かじる。何事もない。
それはアルベルトがこの地に来て間もない頃、唯一口にできた肉だった。
「死にはしない。運が悪くても数日寝込む程度だ」
「それが怖いんです……」
思わず本音を漏らすエルナにアルベルトは気にした様子もなく肉を置いた。
「嫌なら食うな」
突き放すような言い方だが、無理に食べさせようとはしない。
エルナはしばらくそれを見つめる。
空腹は限界に近い。体が食べろと訴えかける。
ゆっくりと手を伸ばし、少しだけ口に運ぶ。
「……美味しい」
「そうか」
微かな表情の変化もなく、興味を示す素振りすらない。
異常の中にある日常。ただ、それはなぜか落ち着く空間だった。エルナは肉を少しずつ口に入れながら、再びアルベルトを見つめる。
彼はまた剣を手に取り、何事もなかったかのように振り始めた。
同じ音。同じ動き。終わりのない繰り返し。
(……不思議な人)
戦いが好きなわけでもない。
ただ静かに、ここにいる。
この地獄のようなアビスガーデンに。
常に死と隣合せのこの場所に。
分からないことばかりだった。
それでも、視線が離せなかった。
気づけば、さっきまで胸を締め付けていた絶望が少しだけ薄れていた。
何も解決していないし、何も変わっていない。
それでも、目の前の男は今日を生きている。
理由もなく、意味も語らず、ただ当たり前のように剣を振り続けている。
その光景がエルナには、なぜかほんの少しだけ救いのように見えた。




