飛行訓練
高台に吹き抜ける風が、エルナの髪を揺らす。視線の先には、翼をたたんで地面に伏せる小さな青いドラゴン『ローゼリア』
「……本当に、乗るのかぁ」
エルナは小さく呟いた。目の前の存在が頼もしい仲間であることは理解している。だが、空を飛ぶという行為は、剣を握るのとはまるで別の恐怖を孕んでいた。
「当たり前だ」
背後からアルベルトの低い声が飛ぶ。
「飛ばなきゃ意味がない。あの壁を越えるにはそれしかないんだからな」
ぶっきらぼうな言い方に、エルナは眉をひそめる。
(もう少し、優しく言ってくれてもいいのに)
軽くため息をひとつついて、エルナはローゼリアに近づく。ドラゴンはくりっとした金色の瞳で彼女を見上げ、小さく鳴いた。
「大丈夫よ、ローゼリア。私も初めてだけど、一緒にやりましょう」
そう言って首筋を撫でると、ローゼリアは嬉しそうに喉を鳴らす。
「乗り方は昨日教えた通りだ」
アルベルトの声が飛ぶ。
「……はい」
エルナはローゼリアの背に足をかけ、慎重にまたがった。思ったよりも体は温かく、しなやかな筋肉が動いているのが伝わってくる。
「手綱は使わない。意識で伝えろ」
「意識って……」
「怖がるな。落ちるぞ」
エルナは思わず肩を震わせた。
「脅さないでください」
「事実だ」
まったく表情を変えないアルベルトに少し口を尖らせるが、それ以上言い返す余裕はなかった。心臓の鼓動が早くなる。
「……ローゼリア、ゆっくりでいいから」
そう囁くと、ドラゴンはゆっくりと立ち上がった。翼が大きく広がる。まだ幼いとはいえ、その広がりは人の身を軽く包み込めるほどだ。
「お願い」
次の瞬間、ローゼリアが地面を蹴った。
「わっ!」
視界が一気に持ち上がる。風が顔にぶつかり、思わず目を細めた。地面が離れていく。いや、落ちていくような感覚。
「高度はまだ低い!慌てるな!」
下からアルベルトの声が届く。
「そんなこと言われても!」
エルナは必死にローゼリアの首元にしがみつく。
「しがみつくな!バランスを取れ!」
「そんなこと言われても…」
だが、言われた通りにしなければ本当に落ちるかもしれない。エルナは歯を食いしばり、体を起こした。
風は強いが、ほんの少しだけ安定した。
「……そうだ」
アルベルトの声が、ほんのわずかに柔らいだ気がした。
「体を預けるな。合わせろ」
エルナは深く息を吸った。ローゼリアの動きを感じる。翼が上下するリズム、空気を掴む力。
「ローゼリア、もう少し上に行ける?」
ドラゴンが応えるように鳴くと、ぐっと高度が上がった。
「きゃっ!」
思わず声が漏れる。だが、今度は落ちる恐怖よりも、広がる景色に息を呑んだ。
森が小さく見える。川が銀の線のように光り、アルベルトの姿が見えないほど小さくなっていく。
「すごい」
思わず呟いた。
その瞬間、体の力が抜けかける。
「気を抜くな!」
アルベルトの鋭い声。
「はい!」
慌てて姿勢を立て直す。
「最初はそれでいい。高く飛ぶな。旋回の練習に入る」
「旋回?」
「左だ。意識を向けろ」
エルナはローゼリアの首元にそっと手を添え、左へ意識を向けた。
ドラゴンがゆっくりと傾く。
「……できた」
驚きと喜びが混じる。
「次は右」
短い指示にエルナは頷き、今度は右へ。
風が変わり、体が揺れる。
「バランス!」
「わかってます!」
叫びながらも、エルナの口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
怖い。けれど、それ以上に…楽しい。
「アルベルトさん!」
「なんだ」
「飛べてる!」
下からの返事は、相変わらず淡白だった。
「見ればわかる」
だが、その声にはほんの少しだけ、認める響きがあった。
エルナは空を見上げた。
「ローゼリア、もう一周いこう!」
元気よく言うと、ドラゴンは嬉しそうに鳴き、翼を大きくはばたかせた。
青い小さな体が、広い空を切り裂くように進んでいく。
初めての飛行は、まだぎこちない。それでも確かに、エルナは空を手に入れ始めていた。




