ローゼリア
意識のない時間がどれほど続いたのか、エルナ自身にはわからなかった。ただ、暗い深淵の中を漂うような感覚が延々と続いていた。
その間、現実の身体は限界をとうに超えていた。
三日三晩。
エルナは一度も目を覚まさなかった。
「手のかかるやつだ…」
アルベルトは、寝かせたエルナの様子を静かに見下ろしていた。
全身に巻かれた包帯はすでに何度も交換され、顔や腕、脚、露出している部分だけでも、無数の生傷が刻まれていた。さらに内部にはいくつもの骨折。普通の人間なら、とっくに命を落としていてもおかしくない状態だった。
「……あの鎧か」
視線が、部屋の隅に置かれた煌びやかな鎧へと向けられる。この地に来た当初からエルナが身につけていたもの。
ただの装飾品ではない。強力な加護がかかっているのか、致命的な損傷をいくつも受け止めていた。だがその加護も、死闘の影響で随分弱々しくなっている。
「命拾いしたな」
だが、それだけでは足りない。
アルベルトは静かに立ち上がり、火にかけた鍋の様子を確認する。
彼は魔法を使えない。つい最近まで存在すら知らなかったのだから無理もない。
だからこそ、やれることは限られている。
前世と大昔の記憶を頼りに、採取してきた薬草を刻み、煎じ、軟膏にして、布に染み込ませる。
それを傷口に丁寧に当てていく。
荒事には慣れているが、こうして誰かを看病することは慣れていなかった。
「……ったく」
小さく舌打ちしながらも、その手つきは驚くほど丁寧だった。
何度も体を拭き、熱を確かめ、水を含ませる。
眠り続けるエルナは、時折苦しそうに眉を寄せるが、目を覚ますことはなかった。
◇
そして、三日目の夜。
「……ん……」
かすかな声が漏れた。
アルベルトの手が止まる。
「起きたか?」
ゆっくりと、エルナのまぶたが震えた。
重たげに開かれる瞳。ぼやけた視界の中で、最初に映ったのは
「……アル……ベルト……さん?」
「ああ」
「三日ほど寝てたぞ」
「……三日……?」
状況が飲み込めず、エルナはしばらく呆然としていた。
だが次の瞬間
「……え?」
自分の体に違和感を覚える。
視線を落とし、そして固まった。
ほとんど何も身につけていない状態に。
「な、な、な、なにこれぇぇぇぇぇっ!!?」
顔を真っ赤にして、慌てて布をかき集める。
「落ち着け、死にかけてたんだぞ。鎧も服もそのままにしておけるか」
アルベルトがため息混じりに言う。
「で、でも……!」
「応急処置だ。見られて困るもんは、だいたい見た」
「やめてぇぇぇぇ!!」
エルナは布にくるまりながら涙目で叫んだ。
その反応に、アルベルトは肩をすくめる。
「元気そうで何よりだ」
「よ、よくないですっ!」
顔を覆いながらも、確かに声には力が戻っていた。
◇
それから数日。
エルナはゆっくりと回復していった。
骨折は完全ではないが、日常生活には支障がない程度まで治る。傷跡はまだ残っているものの、命に関わる状態ではなくなった。
「……風が気持ちいい」
久しぶりに外へ出たエルナは、頬を撫でる風に目を細めた。生きている実感がじわりと広がる。
「呼ぶんだろ?」
アルベルトが後ろから声をかけると、エルナは小さく頷いた。
「あの子…」
胸の奥が締め付けられる。
本当に来てくれるのだろうかと。
「指笛だ。やり方は覚えてるな」
「はい」
唇に指を当てる。
少し震える指先で息を吸い、そして澄んだ音が空へと響いた。
風の音だけが流れる。
(お願い……来て……)
祈るような気持ちで、空を見上げる。
その時、遠くから羽ばたきの音が聞こえた。
エルナの瞳が大きく見開かれる。
青い影が一直線にこちらへ向かってくる。
「……!」
やがて、その姿がはっきりと見えた。
あの時の青く小さなドラゴンだ。
「来てくれた!」
着地と同時にエルナは駆け出していた。
足の痛みなど気にせず、そのまま勢いよく抱きつく。
温かい。
確かに生きている。
「よかった……本当によかった……」
涙が溢れ、止めようとしても止まらない。
ドラゴンは驚いたように一瞬身を引いたが、すぐに大人しくなり、エルナの肩に頭を寄せた。
「……ごめんね……いっぱい傷つけて……」
震える声にドラゴンは静かに目を細める。
敵意も拒絶もなく、ただ寄り添う。
「……名前、つけてもいい?」
エルナはそっと顔を上げた。
「……ローゼリア」
小さく、しかし、はっきりと告げた。
「私の大事な名前」
滅んだ祖国。失われたすべて。
それでも忘れたくないもの。
「あなたは、ローゼリア」
ドラゴンはその名を理解したかのように、低く鳴いた。
「よろしくね!」
エルナはもう一度、強く抱きしめた。
青い鱗に頬を寄せながら、涙をこぼす。
失ったものは戻らない。
だが、新しく得たものが確かにここにあった。
アルベルトは少し離れた場所から、その光景を静かに見ていた。
「お似合いだな」
青い空の下。
少女とドラゴンは、確かに絆を結んでいた。




