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全てを諦めた元殺し屋と全てを失った小国の王女はともに空を目指す  作者: シマリス


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脱出

断崖の近くへ移動すると、エルナは思わず足を止めた。


風が違う。


今までいた場所とはまるで別物だった。頭上から吹きつける風は鋭く、体が押しつぶされそうなほど強い。見上げても霞がかった雲で終わりが見えない。白い雲が広がるばかりで、その上に何がいても確認することはできなかった。


「……すごい高さですね」


小さく呟くと、背後から声が返る。


「数千メートルある。落ちれば終わりだ」


アルベルトはいつも通りの口調で言った。

エルナは振り返り、軽く肩をすくめる。


「脅してます?」

「事実を言ってるだけだ」


相変わらずだった。けれど、その無駄のない言葉が、かえって落ち着かせてくれる。

エルナは一度だけ深く息を吸い、横に立つローゼリアに視線を落とした。青い小さなドラゴンは、緊張した様子で翼をわずかに震わせている。


「大丈夫。あたしたちなら行ける」


そっと首元を撫でると、ローゼリアは小さく鳴いた。

空を見上げると、遠くに影がいくつも動いている。大きなドラゴン、鋭く飛ぶワイバーン。この空が安全じゃないことは、一目でわかった。


「途中までは俺も行く」


アルベルトが言うと、エルナが目を細める。


「護衛ってこと?」

「そうだ。ここはやつらの縄張りだ。お前一人じゃ危ない」


少しだけ間を置いて、エルナは頷いた。


「それなら安心」


そして、ほんの少しだけ姿勢を正す。


「ありがとうございます、アルベルトさん」


アルベルトは何も言わず、ただ空を見ていた。

その横顔を見て、エルナはふっと笑う。


「ほんと、最後までその調子」

「何か問題あるか」

「別に。それでいいと思います」


軽く言ってから、ふっと表情を引き締めた。


「でも」


一歩近づく。


「短い間だったけど、いろいろ教えてもらった。剣も、飛び方も……あと、無茶の仕方も」


アルベルトは黙ったまま聞いている。


「まだ全然足りないけど、ちゃんと強くなります」


エルナはまっすぐ見た。


「だから、また戻ってくるよ」


ほんの一瞬、風の音だけが間を埋める。

やがてアルベルトが口を開いた。


「……元気でな」


「もちろん、そのつもりです」


ローゼリアの背に手をかけ、エルナがそのまま軽くまたがる。


「最初は?」


アルベルトの問い。


「低く飛ぶ。風を見て、無理しない」

「そうだ。崖の気流は荒い。飲まれるな」

「了解」


エルナは前を向く。


「行こう、ローゼリア」


ドラゴンが翼を広げる。

一拍した次の瞬間、地面を蹴った。

ふわりと体が浮き、そのまま上空へと飛び立つ。


一気に世界が変わり、下から叩きつけるような風が吹き上げ、体が揺れる。


「慌てるな。流れに合わせろ」


すぐ後ろからアルベルトの声が響いた。

振り向かなくても、並んで飛んでいるのがわかる。


「わかってます!」


エルナは体の力を抜き、ローゼリアの動きに意識を合わせる。翼の上下、風を掴む感覚、それをなぞるように、自分の体も動かす。

少しずつ、揺れが収まる。


「……いける」


その時


「上だ!」


見上げると、ワイバーンが一体、鋭く降下してきていた。


「ローゼリア、右に逸れて!」


即座に指示を出すと、青い体がすっと軌道を変え、攻撃をかわした。すれ違いざま、風圧が強く体を叩いた。


「判断は悪くない。だが周りを見ろ、もう一体いる」


視線を走らせると、確かにもう一つ影が動いていた。


「下に潜る!」


ローゼリアが急降下し、影を振り切る。

しばらくして、気配が遠ざかった。


「……はぁ」


思わず息が漏れる。


「気を抜くな。だが、今のは上出来だ」


アルベルトの声が落ち着いていた。

エルナは少しだけ口元を緩める。


「でしょ」


風は次第に穏やかになっていく。雲の外側へ出た証だった。視界が大きく開ける。


「……抜けた」


エルナがそう呟くと、アルベルトは急に速度を落とした。


「俺が行けるのはここまでだ。この先は一人で行け」


エルナも減速し、空中で向き合う。

しばらく言葉が出なかった。


「……ありがとう」


エルナは短く礼を言う。

そして、少しだけ間を置いて、


「ありがとうございました、アルベルトさん」


きちんと、言い直した。

アルベルトはわずかに頷く。


「教えたことを忘れるな」

「忘れない」


エルナは笑う。


「次に会うときは、もっと上手く飛んでみせる」

「期待はしない」

「してください」


軽く返してから、前を向く。


「行こう、ローゼリア」


青い翼が大きく広がり、力強く空を打つ。

エルナはもう振り返らなかった。

数千メートルの崖を越え、その先へ――

胸に刻んだ教えと、もう一度戻るという約束を抱いて、まっすぐに空の彼方へと飛んでいった。


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