決意
アビスガーデンの空は、いつもどこか重たく澱んでいる。雲は低く垂れ込め、光は鈍く、風には微かに鉄と血の匂いが混じっていた。その空を裂くように、巨大な影がゆっくりと旋回する。
『飛竜』
この地において、空を支配する存在。
岩肌の上に立つエルナは、思わず息を呑んだ。視界の端から端まで覆うような翼、鱗に覆われた体躯、そして大気を震わせるほどの圧。地上で相対する魔物とは明らかに格が違う。
「……あれを、倒す?」
かすかに震える声で問いかけると、隣に立つアルベルトは短く答えた。
「そうだ。従えるには、それしかない」
エルナは唇を噛みしめる。
アビスガーデンから外へ出るためには、飛竜が必要だ。だがアルベルトが従えている飛竜は、彼にしか従わない。
つまり、自分の飛竜は自分で手に入れるしかない。
「でもあれ、どう見ても今の私より強いですよね?」
「当たり前だ」
あっさりとした返答に、エルナは思わず顔をしかめる。
「だから勝てるようになるまで鍛える。簡単な話だ」
アルベルトは空を見上げたまま、淡々と続けた。
「飛竜は強い者に従う。ただし、ただ勝てばいいわけじゃない」
「え?」
「中途半端な勝ち方じゃ意味がない。相手が認めるほど叩きのめさないと従うことはない」
エルナは再び空を見上げる。
飛竜は悠然と旋回し、まるでこちらなど意にも介していない。
あれに、認められるほどの勝ち方。
想像するだけで背筋が冷たくなる。
「……アルベルトさんは、どうやって従えたんですか?」
ふと気になって尋ねると、彼はわずかに目を細めた。
「昔の話だ」
短くそう言ってから、珍しく少しだけ間を置く。
「初めて飛竜を倒した時か。あの時は……今よりずっと弱かった」
「それで、倒したあとに?」
「ああ。しばらくしてから、その飛竜が近寄ってきた」
エルナは目を見開く。
「え、それって……」
「理由は分からん。また襲いかかってくるのかと思ったが、敵意はなかった」
アルベルトの視線は遠い過去を見ているようだった。
「そのまましばらく睨み合ってな。逃げるでも襲うでもなく、ただそこにいた。……気がつけば、そいつは俺の後ろをついてくるようになっていた」
「そんなこと……あるんだ」
「それ以来、何度もより巨大な飛竜を倒してきたが、同じことは一度も起きていない」
淡々と語られるその事実に、エルナは言葉を失う。
偶然なのか、特別な条件があったのか。それとも
「つまり、再現性はないってことですか?」
「そういうことだ。だからお前は普通にやれ」
「普通って……」
「正面から叩き潰して、従わせる。それだけだ」
あまりにも単純で、あまりにも無茶な答えだった。
エルナは苦笑する。
「簡単に言いますけど……」
「簡単な話だからな」
アルベルトは言い切る。
「勝てるかどうか、単純だろ?」
しばらく沈黙が流れる。
風が強くなり、遠くで飛竜が低く唸るような声を上げた。
エルナはゆっくりと拳を握る。
「……じゃあ、まずは」
「勝てる実力をつける」
言葉を引き取るように、アルベルトが答えた。その声音には一切の迷いがない。
「飛竜は以前のお前には無理だった。だが、今はその剣と俺が教えた剣術がある。それでも、まだ難しいがな」
「どれくらいで?」
「知らん。だが、やるしかないだろう」
エルナはふっと息を吐き、そして小さく笑った。
「そうですね」
逃げ道はないが、それでいい。
ここまで来たのだ。今さら引き返す道もない。
「まずは、地上の魔物からだな」
アルベルトが踵を返す。
「飛竜と戦うには、最低でも空中戦に対応できる動きが必要だ。跳躍、踏み込み、体幹、全部底上げする」
「また地獄の特訓ってわけですね……」
「嫌ならやらなくていいぞ」
「嫌じゃないです!」
その声にアルベルトはわずかに口元を緩める。
「なら来い。時間は無駄にするな」
二人は崖を降り、荒れた大地へと足を踏み出す。
背後では、飛竜が再び大きく翼を広げた。その影が一瞬、地上を覆い尽くす。
エルナは振り返り、その姿をしっかりと目に焼き付けた。
(あれを倒す)
恐怖はあるが、それ以上に胸の奥で何かが燃えていた。
「待ってなさいよ。絶対、従わせてやるんだから」
小さく呟いたその言葉は、風に乗って空へと消えていく。
その先にいる遥か高みを舞う存在へ。




