勝利
アビスガーデンの薄暗い空の下、アルベルトとエルナはいつものように食料調達へと足を運んでいた。
腐葉と瘴気の混じる湿った空気。遠くから聞こえる魔獣の唸り声。それらすべてが、この地が生き延びるための場所であることを否応なく突きつけてくる。
「今日は少し奥まで行く」
前を歩くアルベルトが短く告げる。
「はい」
エルナは頷きながらも、わずかに緊張した面持ちだった。以前より確実に強くなった自覚はある。それでも、この地は油断すれば命を奪われる世界だという事実は変わらない。
しばらく進んだその時だった。
ガサリと茂みが揺れ、低く重たい気配が空気を震わせる。
エルナの背筋に冷たいものが走った。
ゆっくりと姿を現したのは、一体の巨大な狼型の魔獣。灰色の毛並みはところどころ黒く濁り、黄金の瞳が鋭く二人を射抜く。
「エンシェントウルフ」
エルナの喉がわずかに震えた。
忘れるはずがない。かつて対峙し、何もできずに打ちのめされた相手。あの時の無力感が、鮮明に蘇る。
「前より小さいな」
アルベルトが無感情に呟く。
「ですが……」
「格上だな、お前にとっては」
言葉を遮られ、エルナは息を呑む。
エンシェントウルフは低く唸りながら、地を蹴った。
速い。
「行け」
アルベルトは一歩も動かず、そう言った。
「はい!」
エルナの目が変わる。恐怖はある。だが、それ以上に逃げないと決めた自分がいる。
腰の剣――アビスソードを抜き放つ。
迫る牙。振り下ろされる爪。
エルナはそれを受け流した。
金属音が響き、衝撃が腕を駆け抜ける。
だが、以前のように弾き飛ばされることはない。
「いける」
体が覚えているのは、もちろんローゼリアの守りの剣。相手の力を真正面から受け止めず、流し、逸らし、利用する技。
エンシェントウルフはすぐさま体勢を立て直し、連続で攻撃を繰り出す。
速さも、重さも桁違い。だがエルナは一歩も退かない。受け流し、捌き、いなす。
呼吸を合わせるように、攻撃の流れを読む。
「いいぞ」
背後からアルベルトの声が飛ぶ。
「だがそれだけじゃ殺せない」
「はい」
今度は自ら踏み込んだ。
剣の軌道が変わる。流れるような動きから一転、鋭く、重く。
「はああっ!」
振り下ろした一撃。それは剛の剣。
アルベルトから教わった破壊のための剣。
エンシェントウルフは咄嗟に避けたが、地面が抉れ、土と石が弾け飛ぶ。
「まだ浅い!」
アルベルトの声が響く中、エンシェントウルフが反撃に転じる。
横薙ぎの爪を受け流しながら、エルナは回転するように身を翻した。
守りから攻めへ。流れの中で、剣を叩き込む。
毛皮に阻まれガキンと硬質な音が鳴るが、確かな手応えもあった。
「通る」
以前とは違う。自分の剣が確実に通用している。
エンシェントウルフが吠えた。
怒りと警戒が混じった咆哮の後、これまで以上の速度で突進してくる。
視界が揺れるほどの圧が押し寄せる。
しかし、エルナは冷静だった。
「来い!」
真正面からではなく、わずかに軸をずらし踏み込む。すれ違いざまに受け流しで軌道を逸らしてから懐へ。
「これで!」
全身の力を込める。アルベルトに何度も叩き潰されながら身につけた渾身の一撃。
「終わり!!」
アビスソードが閃いた。
重く、鋭く、破壊の意思を乗せた剣は、ズンッと鈍い音を上げる。
静寂の中、砂埃だけが舞う。
エンシェントウルフの巨体はゆっくりと崩れ落ちた。
地面に倒れ伏すその姿を見下ろし、エルナは息を切らす。
「……はぁ……はぁ……」
手が震えている。だが、それは恐怖ではない。
戦いきったという実感。
「勝った…」
振り返ると、アルベルトが立っていた。
「まあ、合格だな」
いつもの無愛想な声。
だがその目は、ほんのわずかに満足げだった。
「前は手も足も出なかった相手だ」
「はい」
「それを一人で仕留めた。十分だ」
エルナはゆっくりと頷いた。胸の奥に、静かな達成感が広がる。
「でも、まだ危なげないな」
「はい」
「次はもっと強くなる」
さらりと言うアルベルトに、エルナは思わず苦笑した。
「容赦ないですね」
「当たり前だ。ここはそういう場所だ」
アルベルトは背を向け、歩き出す。
「さっさと解体するぞ。食料だ」
「はい」
エルナは剣を握り直し、倒れた魔獣へと向き直る。かつては恐怖の象徴だった存在。
今は、乗り越えた証。
アビスガーデンの闇の中で、少女は確実に強くなっていた。




