1 学園の日常
最悪の事態というものは、更新されていくものらしい。
王立学園内にある掲示板の前で立ち尽くしながら、私はぼんやりと考えた。
視線の先にあるのは、性格な悪そうな派手な女の絵。どうやらこの女は、複数の男たちを従えて遊び歩いているようだ。
でもその絵には「今度のターゲットは侯爵?」とも書いてある。周囲に花のようなものが描かれているから、花祭りを意味しているのは間違いない。
つまり……これは私だ。
「あの悪女、有力貴族の桟敷席に無理やりに乗り込んだんですって!」
「自分の父親くらいの年齢の男の愛人をしているって本当かしら」
「不満があるから、若い騎士たちを引っ掛けているののでしょうね。見境のない悪女だこと」
背後で、くすくすと笑いながら囁く声が聞こえる。
貴族の令嬢たちが、こんな落書きを鵜呑みにするわけがない。すでに噂を聞いているから状況を「正確に」把握しているのだ。
私の印象にふさわしい「悪女らしいもの」だから。
そこまでは覚悟した範囲。では、なぜ王立学園の掲示板にこんなものがあるのか。
理由は悩むまでもない。私への嫌がらせだ。
この掲示板は生徒会からの連絡に使われるもので、隣に張られているのは二年の園芸委員宛――つまり私宛の連絡書だった。ジョウロの後に追加で注文した園芸用品が入荷したらしい。
そろそろかなと朝から見にきたらこれだ。
「……予想通りとはいえ、ここまでする?」
ため息しか出ない。噂やこの落書きに断片的に真実が混じっているせいで、微妙に説得力があるのも脱力感を増幅する。
うっかり目に入ってしまって、唖然とするばかりだ。
何と言うか……「またか」と思う。
派手すぎる顔立ちのせいで、私は誤解ばかりされている。私とそっくりな顔の母は「本物の悪女」で、噂や落書きのようなことを本当にしていたのは事実だ。周囲にいた男性たちのレベルも、桁違いに高かった。
でも、私は違うのに。
(……仕方がない。何も見なかったことにしよう)
生徒会からのお知らせ用紙へと目を戻す。
受け取り場所は生徒会室とのこと。必要な情報はこれだけで、他は何も見ていない!
密かに決意していると、周囲が急に静かになった。振り返ると、ミルクティーそっくりの色の髪の背の高い男子学生が見えた。
優雅に歩く姿は「国の宝」と称されるにふさわしい。私を見ながらくすくすと笑っていた女子学生たちも、頬を赤く染めながら道を開けていく。
周囲の視線を平然と受けるその人は、私の前で足を止めてにっこりと笑った。
「おはよう、ヴィオラ嬢! 俺も『それ』を見ていいかな?」
オディーランス公爵家の御曹司様は爽やかに笑っていた。なのに……なんだか雰囲気がいつもと違う。少なくとも私が知っている御曹司様ではない。
なんとなく気圧された私は、急いで横に逃げる。
御曹司様は私が空けたばかりの場所に立って、掲示板を見つめた。正確には、微妙に下手な絵と短文の落書きを。
「――生徒会の許可印がない。これは不正掲示物だね」
そう言うと無造作に落書きを剥ぎ取った。再確認のために裏返してから、笑みを残したまま二つに折る。
「あの……」
「ここは学園や生徒会の許可のない掲示は禁止されている。だから、生徒会の一員として排除しただけだよ?」
淡々と言っているけれど、掲示物だったものはさらに二度折り畳まれたし、最後はぐしゃりと握りつぶされた。
もちろん、御曹司様は相変わらずの美しい笑顔だ。なのに目が少しも笑っていないなと気がついた。
……こ、これは怖い。
そう思ったのは私だけではないようだ。あっという間に人がいなくなり、御曹司様は笑顔のまま舌打ちをした。
「実に嘆かわしいものだね。花祭りの桟敷席には俺もいたのに、無視してこんな落書きを描く時点であり得ない。俺が嫉妬に苦しんだと書いてくれれば、ダメ男ぶりが際立ったのに」
「……そういう不機嫌さもあるんですね」
そうだった。この御曹司様は「ダメ男」と評判になりたいのだった。
それでもさっきより表情が穏やかになったから、私は少しだけ落ち着くことができた。
「私も一時間目の授業の準備があるので、失礼しますね!」
「その前に、これを渡しておくよ」
そそくさと背を向けようとすると、御曹司が立ち塞がって何かを差し出した。
封筒だ。何となく既視感がある。
「……これは?」
「学食の予約券だよ。明日の昼だけど、予定は大丈夫かな?」
やっぱり。
つまり「学食ランチ」という名の、派手な見せつけイベントへの招待状らしい。中身を確認している私に、パチリと片目をつぶった。
「派手に見せつけて、パフデール侯爵との低脳な噂を、俺との噂で上書きしよう!」
「不本意ですが、異論はありません」
渋々頷いた私は、ついでにため息をついた。
でも異論がないのは本当だ。花祭りの時にこういう手段を取ると予告されていたから、覚悟もできている。
「侯爵様に迷惑をおかけしたくはありませんから、気合を入れて臨みます!」
「いい気合だね。君のその前向きなところは好きだよ」
御曹司は声をあげて笑う。
今度は本当に楽しそうな笑顔になっていて、私は何となくほっとした。
私の名前はヴィオラ・エルバンス。
両親の離婚によっていつの間にか母の籍に入っていたせいで、戸籍上の名前は「ヴィオラ・ロレーダン」となっている。
亡き父はエルバンス伯爵だった人で、王宮を揺るがす陰謀に巻き込まれて失脚した。
今の私は没落して庶民同然の生活をしている。上位で卒業して、エルバンス家の名誉を回復させることが目標で、そのために真面目に学問に勤みつつ、外国語の翻訳の仕事で弟妹たちとの生活費を稼いでいる。
母そっくりのせいで外見は派手だけれど、実態は地味で堅実な勤労学生――だった。レイノルド・オディーランス卿と出会うまでは。
この公爵家の御曹司との出会いは、一ヶ月半ほど前のこと。
新学期が始まって二週間が過ぎたある日、嫌みなほど顔のいい御曹司様が私の前で片膝をつき、巨大なバラの花束を捧げてこう言った。
「俺をダメ男にしてくれ!」
……意味不明である。
よくよく話を聞いてみると、オディーランス公爵家の後継者問題が関わっていて、御曹司は姉エリザベス様に譲りたいと考えているらしい。
生まれよし、顔よし、頭脳明晰、人望有りな完璧な貴公子であるために、後継者から外れるためには「ダメ男」になるしかないのだとか。
この意味不明すぎる企みを実現するために、御曹司を「恋するダメ男」にするための「絶世の悪女」として選ばれたのが私だった。顔だけなら、本物の絶世の悪女である母ロザリアにそっくりだから。
常識的に考えれば、こんな無茶苦茶な依頼を受けるわけがない。
でもうっかり逃げ道を断たれ、惜しげのない高待遇と高額報酬に目がくらみ、リリアナとテレンスを喜ばせたい一心でいろいろ引き受けてしまった。
そこからいろいろ起こっていった結果が、今朝の落書きだ。
花祭りの日にパフデール侯爵様の桟敷席にお邪魔したけれど、それは弟妹と一緒だったし、御曹司もその場にいた。王国軍の騎士の皆さんは私たちの護衛をしてくれただけだし、パフデール侯爵様は私の父オリバー・エルバンスの幼馴染。パフデール侯爵夫人に至っては、私が憧れている素敵な女性でしかない。
なのに、あらゆることが悪意で捻じ曲げられた上に飛躍的な解釈をされて、悪意満載の噂が誕生し続けている。
教室に向かいながら、私はふと首を傾げた。
「……そういえば、あの落書きは『あれ』に全く触れていなかったわね」
パレード観覧中に目撃されてパフデール侯爵様との噂になってしまったけれど、花祭りの日の「最も悪女らしい事案」が無視されている。
流行や俗習に疎かったせいで、私は御曹司に自分が身につけていた花飾りを渡してしまったのだ。それが恋人たちの愛を告げる行為だと知ったのは後になってから。結果として「気のある素振りで、金蔓である公爵家の御曹司を繋ぎ止めている悪女」と言われても否定できないはずだ。
なのに、花飾りについては全く噂になっていない。
ということは、あの落書きを描いた人はオディーランス公爵主催の夜会には出入りできず、出席していた人にも情報をもらえなかったのだ。
少なくとも、あの御曹司が「ダメ男ぶり」を広めたくて噂を流したわけではないはず。
(まあ、疑うまでもないわよね。あの御曹司ならもっと派手に、もっと効果的に噂を広めるはずだもの)
……それより、もうすぐ授業が始まる。気分を変えなければ!
私は深呼吸をしてから、教室の扉を開けた。
途端に、教室の中がしんと静まり返った。ごく小さな声で囁き合っている人もいるけれど、ほとんどの学生は私をじっと見ている。
新しい噂を聞いたり、今朝の落書きを見たりしたのだろう。
できるだけ気にしないようにしながら、空いている席を探そうとする。いつものように前に座るつもりで教室の前の方へと向かい、そこで思わず目を丸くした。
「ミリルさん、どうしたの?」
黒板の前にミリルさんがいた。……なぜか黒板に背中を張り付けるようにして。
まるで背中で何かを隠そうとしているようだ。慌てたようなミリルさんの表情から推測すると、黒板にも何かがあるのだろう。
「……そこにも、授業の邪魔になるものがあるようですね」
剥がさなければ。
黒板へ向かおうとすると、ぐっと唇を噛み締めたミリルさんは、勢いよく振り返って黒板に貼られていた紙を剥ぎ取った。
「こんなもの、ヴィオラ様のお手を煩わせるまでもありません!」
すぐにくしゃくしゃに丸められてしまったけれど、掲示板にあった絵と似ていた。
どうやら私を庇ってくれたようだ。
なんて優しい。
「ありがとう、ミリルさん」
「このくらい当然です。お二人は花祭りの時にラブラブ……じゃなくて、とても仲良しだったそうじゃないですか。こんな『ポイ捨て前提のお付き合い』なんて書き方はすっごく失礼ですっ!」
「え、ラ……?」
頬を膨らませて憤慨するミリルさんは、とても可愛らしいけれど。
……ポイ捨て前提はともかく、ラブラブって何だろう。
ここで貼られていたのは掲示板のものとは違って御曹司に関することだったらしい。御曹司がいたら喜びそうだな……心当たりがあるから冷や汗が出るっ!
思わず息を呑んでいると、ミリルさんは誇らしげに胸を張った。
「ご安心ください。私はちゃんと正しい話を聞いていますよ。商人の情報網は正確なんです。レイノルド様と一緒に花祭りを楽しんでいたそうですね! ひったくりを捕まえた大活躍も、そのせいで靴が壊れたヴィオラ様をレイノルド様がお姫様抱っこで運んだことも、商人たちの間では話題になっていますから! 次のお祭りではそっち方面を盛り上げてみようか、なんて案も出ているんですよ!」
……ちょっと詳し過ぎませんか。
いやそれより、そっち方面ってどんな方面なの……?
動揺してミリルさんが憤ったポイントもだんだんよくわからなくなってきた。
頭は完全に混乱してしまったけれど、ちょうど先生が入ってきたから、いろいろ考えることを放棄して席につくことにした。




