20 初めての夜会
「ごめん、少し待っていてくれるかな」
夜会の会場で、申し訳なさそうに御曹司が離れていった。
今夜の御曹司はオディーランス公爵の代理として来ているから、貴族たちへの挨拶は彼の仕事だ。
そして私は、そんな挨拶に同行する義理はない。そういう体でいなければ「お仕事」にならない。
こうして私は一人になった。
――その直後に、その女性は突進してきた。
正確には、少し手前で「あっ」と小さく声を上げてよろめいた。
床に凹凸はなく、若いから足の運びもしっかりしていてつまずく予兆は皆無。私と違ってドレスの裾捌きも完璧だったはずなのに、なぜか突然つまずいた。
女性が持っていたグラスが傾き、青いカクテルの飛沫が飛ぶ。
青い液体は、狙いすましたようにドレスの裾へと落ちていく。でもその前に、私は素早く身を引いて床に流れる裾もつまんで体に寄せた。
ドレスの裾が撤退したばかりの床に、青い液体がパシャリと広がる。
気のせいでなければ、よろめいた女性が小さく舌打ちをした。
睨まれた気もするけれど、殺気丸出しの顔は次の瞬間には申し訳なさそうな表情に変わっていた。
「……まあ、ごめんなさい。つまずいてしまいましたわ。汚れませんでした?」
「ええ、大丈夫です!」
笑顔で答えて、すぐにその場を離れる。
私の近くで誰かがつまずくのは、これで五度目だ。
つまずいた人が持つ飲み物は、必ず私のドレスを目指して降ってくる。そのうち、誰かが手を滑らせた酒杯そのものが飛んできそうな勢いだ。
人の密度が高い場所にいては、何かあった時にとっさに動けない。まずは人の密度の高い危険地帯から脱出しなければ。
私は運動は得意ではないけれど、気を張っていればそれなりに動くことができる。
それに、学園の必須科目である「剣術初級者コース」の成績は悪くなかった。あの剣術用の足運びが夜会で役に立つなんて、王立学園の教育科目は意外に無駄がない。
密かに満足していると、御曹司が足早に戻ってきた。床を拭いている給仕たちを見てすぐに悟ったようだ。困ったような苦笑いを浮かべた。
「お待たせ。……また何かあったようだね」
「想定内ですから問題はありません」
「君は本当に頼もしいなぁ。安定感があるよ!」
「そんなことで褒めるくらいなら、もっと見苦しく私に張り付くべきですよ。あなたが離れていると、ドレスが危機に陥りますから」
「君じゃなくて、ドレスが? よくわからないけど、俺がいないと寂しいという婉曲表現と期待していいのかな?」
「寝言はご自宅に帰ってからにしてください」
妙に楽しそうな御曹司を、私はジロリと睨んだ。
この男、意味不明なことを企んでいてもオディーランス公爵様のご子息。将来有望な王立学園の首席学生でもある。有名人すぎてあちらこちらから声をかけられるし、御曹司も愛想良く対応する。
そのこと自体はいいことだ。念願のダメ男として後継から外されたとしても、伝手というものは将来のために重要だから。
ただ、そのちょっとの隙にドレスの裾を踏まれそうになったり、飲み物が降ってきたりする。思っていた以上に特別危険手当に相応しい状況だ。
とはいえ、いつぞやの悪意たっぷりの「口撃」より対応しやすい。守る対象がはっきりしているのも、戦意をかき立てる。
この淡いピンク色のドレスは、リリアナがとても気に入ってくれた。
だから絶対に守り切ってみせる。
無傷で今夜の仕事を終え、あのお店で手直しをしてもらって、リリアナと一緒にお出かけをするのだ!
「特別危険手当、たっぷりお願いしますね」
「増額も検討しておこう。そうだ。先日候補になっていた首飾りなんてどうかな? とてもよく似合っていたから、追加で二つ三つ……」
「現金でお願いします」
ここぞとばかりに貢ごうとするから、はっきりとお断りした。
売りに行くという手間がかかる宝飾品より、現金が一番だ。
だから、この茶番をもう少し我慢して……あれ?
いつまで我慢すればいいの?
「……私はいつまでここにいるべきなんでしょう?」
「うーん、もう少し付き合ってもらいたいな。俺が必死に君のご機嫌取りをしている様子を、もっと見せて回りたいんだ」
「ご機嫌取り……」
「ついでに、君も少し顔を売りに行く? いい縁談が来るかもしれないよ」
「公爵家の御曹司を振り回す悪女に、どんな縁談が来ると?」
「えっと」
すぐには思いつかないようで、御曹司が困った顔になって目を逸らした。
でもその逸らした先に、声をかけようとそわそわしていた貴族がいた。
御曹司と目が合った途端に、ぐいぐいと話しかけてきた。
「レイノルド卿! お父君には以前よりお世話になっています! 次期公爵様となるレイノルド卿にも、ぜひお近づきになりたいと思っていましたが、なんとも目がくらむような美女をお連れで、実に羨ましい!」
うわー、絵に描いたようなゴマスリ貴族様だ。
でも残念ながら、御曹司は公爵様にはなりたくないとお考えだから、心に響かないと思う。
そんなことを考えていたら、ゴマスリ貴族様は笑顔のまま私に目を向け――途端に硬直した。
「……レ、レイノルド卿、もしや、そちらの美女は……!」
「こちらの令嬢は、俺が夢中になっている人です。散々口説き続けて、やっと夜会に誘うことができましたよ。彼女が何か?」
「い、いいえ、大変にお美しい女性ですが、その、お顔立ちに見覚えがあるようで……」
「おや、ヴィオラ嬢をご存じでしたか? それとも、母君であるレディ・ロザリアのお知り合いかな。上の世代の方々の中では有名な女性だったようですね」
「ええ、それはもう! 私のような凡人には高嶺の花でしたが。しかし驚きました。お若いレディ、あなたは本当にあの方に似ている。そっくりだ……実にお美しい……ああ、あの方と同じ目が私を見ている……この後、私とお話を……っ!」
私をじっと見ているうちに、ゴマスリ貴族様の目がだんだん血走ってきた。
……あ、これはまずい。
じわじわと距離が近くなって、手が伸びてくる。この場合、手を払いのけてもいいの?
母ならこんな時はどうしていたか……ああ、あの人の周囲はより上位の取り巻きがしっかり凄んでいたし、そもそもそんな隙は見せなかった……!
瞬間的に焦った私の視界は、突然上質の布で遮られた。




