9 悪女
御曹司様は食事を続けながら爽やかに微笑んだ。
「君には、ぜひ仕事を引き受けてほしいんだ」
「……仕事というのは、昨日言っていた、ダメ男が何とかという話ですか? お断りしたはずですが」
「そこをなんとか考え直してほしい。君にはメリットも大きいと思うよ」
「お断りします。私は地道に生きていきたいので」
きっぱりと言って、絶対に引き受けるつもりがないことを主張する。
……その間も、パンをちぎる手が止まらない。
軽く焼いた外側はパリッとしていて、中はふんわり。とても美味しい。小麦本来の甘みも口に広がっていく。
デザートを兼ねた甘いパンも美味しいけれど、小麦と塩と水だけで作ったシンプルなこのパンも美味しい。何もつけずにずっと食べていたいくらいだ。
堪能していると、御曹司様が真面目な顔になった。
「君が堅実な生活を好んでいることは理解している。でも、現状のままでいいと思っているのかな?」
「現状のままとは?」
「……悪く思わないでほしい。でも、そのまま言わせてもらうよ。――君の評判はすでに最悪だ。いわれのない噂だけが広まっている」
口元に運ぼうとしていたパンが、ぽとりと落ちた。
落ちた場所がお皿の上だったから、私はそのまま口に入れる。
鶏肉料理のソースが少し染み込んで、これはこれでとても美味しいはずなのに、口に入れたパンを飲み込むのに苦労した。
私は、「悪女」ということになっている。
でもそれは、私が母ロザリアとそっくりの顔を持っているからだ。
母はいつも華やかな場の中心にいて、いつもたくさんの男性が周囲にいた。
エルバンス伯爵だった父が内乱罪で捕えられた時、いつの間にか離婚が成立していて、母は「エルバンス伯爵夫人」ではなくなっていた。
ただの「ロザリア・ロレーダン」だったから、連座で捕えられることはなく、父より取り巻きの男性たちと過ごす時間が長かったから、陰謀に関わっていない証明代わりになったそうだ。
娘として、いろいろ思うことはある。
でも離婚成立と同時に私たちも母の戸籍に移されていたおかげで、宰相様の命を狙った大規模な陰謀に父が巻き込まれていたのに、私たちには何のお咎めもなかった。
伯爵位と領地が別の親戚に移って、財産がほぼ全てなくなったのは大変だったけれど、それだけで済んだ。
全てが母ロザリアが望むままの状況で、当時十三歳だった私はあまりの都合よさに恐ろしく感じたものだ。
美貌と野心と我儘と知性を併せ持った奔放な女。それが私の母ロザリアで、母のような人間が本当の悪女なのだと思う。
私は顔が母に似ているだけ。性格は地味だし、金銭的な理由から王立学園の特待生になるために必死で勉強した。
生活費を稼ぐにしても、テレンスが肩身の狭い思いをしないように、リリアナが寂しい思いをしないように、堅実で家で作業ができる翻訳の仕事をしている。
だから「特待生になれたのは色目を使ったから」という話を聞いた時は、本当に意味がわからなかった。ペンを落としたのを拾って渡した翌日、婚約者がいるその男子学生を誘惑したという噂になっていて頭を抱えた。
――—でも、私は悪女じゃない。
外見が「本物の悪女」である母に似ているだけだ。
ぐっとお腹に力を入れ、私は残っていた鶏肉を大きく切り取って口に入れた。嫌なことを思い出してしまったけれど、お肉はお肉。美味しいものは最後まで美味しくいただかねば!
「……ごめん。ヴィオラ嬢に嫌な思いをさせたくはなかったんだが」
「平気です。この顔とは生まれた時からの付き合いですから」
「俺は、君のことを悪女とは思っていないよ」
「そうでしょうね。本物の悪女なら、あなたを振るなんてもったいないことはしませんよ。引き受けたふりをしておいて、あなたを騙して確実に次期公爵夫人の地位を手に入れます」
「うーん、それは怖いなぁ」
「そのくらいのリスクも予測していなかったんですか?」
呆れてそう言ってしまったのに、御曹司様は整った顔に柔らかな笑みを浮かべただけだった。
「君はそういう女性ではないからね。とても真面目で、家族のために一生懸命で、色恋には目を向けない。そういう君だから仕事として依頼したいんだ」
「お断りします」
「君を高位の貴族たちに紹介しよう」
「社交界には興味ありません」
「レディ・ロザリアを直接知っている人たちなら、君の性格が全く違うことに気付いてもらえるんじゃないかな? 君の悪女説も薄れると思うよ」
「……それでも、面倒なことには関わりたくないんです」
私の頑なな反応にも御曹司様は怒った様子はない。ただ面白そうに眉を動かして身を乗り出した。
「昨日も言ったけど、報酬は日給金貨一枚だよ。イベント毎に経費は全て実費で渡そう。俺が貢いだ物品は全部君のもので、返却の必要はなし。手元に置くなり売るなり、好きにしていい。契約書が必要なら用意してもいい。著しい危険を伴った場合は特別危険手当も出すよ!」
「き、金貨……いいえ、私はお金にも騙されません! でも、著しい危険って何ですか?」
「女性は同性に厳しいからね。まあ、すでに特別危険手当は確定したかもしれない」
「…………は?」
意味が分からなくてポカンとする。御曹司様はそんな私を見て、ふっと笑った。
「顔についている」
「あ、ソースですか?」
慌てて口元を拭ったけれど、布巾に汚れはつかない。見当違いの場所を拭いたのかもしれない。ガラスを鏡替わりにしようと思いついた時、御曹司様が腰を浮かせて手を伸ばした。
「ここだよ」
指先が、頬骨のあたりに触れた。
すぐに離れた指はパン屑をつまんでいた。顔にパン屑をつけていたなんて、子供みたいで恥ずかしい。
思わず目を逸らしかけた時、御曹司様はにっこりと笑った。
「君は忘れているようだけど、ここは一般席からよく見えるんだよね」
「そう言ってましたね」
「そして、俺は女性に人気がある」
「自分で言っちゃうんですね」
「事実だからね。そして、昨日は花束を抱えて歩き回った。大通りの花屋からずっとだから、目撃者は多かったんじゃないかな」
御曹司様はつまんでいたパン屑をくしゃりと潰した。
からりと焼けたパン屑は、粉々になってお皿の上に落ちる。指先に残った欠片はさらに擦り合わせて落としていく。
「――—俺が君に『夢中』になっていることは、十分に周知されたと思うよ?」
私はゆっくりと瞬きをした。
御曹司様の言葉をじわじわと理解していく。整いすぎた顔が爽やかな笑みを浮かべると、なぜこんなに胡散臭さが発生するのだろう。
なるほど。これが詐欺師の顔か。
ぐっと歯を食いしばって周囲を見た。予想通り、周囲の視線がこちらに集まっている。正確には、オディーランス公爵家の御曹司様と二人きりで食事をしている「私」に。
勝手にでき上がっている「悪女」の評判。
特別室での二人きりの食事。
もちろん、この御曹司様は外聞を全く気にしていない。「女にうつつを抜かすダメ男」になって公爵位の継承から外れたいから。
……やられた。逃げ道はどこにもない!
私は御曹司様を睨みつけた。
「断るという選択肢はないようですね。その本性を出せば立派な悪人ですよ!」
「ごめんね。俺もダメ男になりたくて必死なんだ」
「そこがまず意味がわからない!」
「ヴィオラ嬢は、怒るとレディ・ロザリア以上に派手に見えるなぁ。最高の美女だよ!」
「全然うれしくないですっ!」
「やはり、俺が全て投げ打つほどの『恋の相手』として周囲が納得するのは、君しかいない。俺にたくさん貢がせて、冷たくあしらって、適当な時期に派手に振ってほしい。君は俺に恋をしないし狙うこともない。俺が『夢中』になる相手として最適だろう?」
……その信頼はどこからくるのだろう。
私はため息をつく。本当は頭を抱えてしまいたいけれど、周囲の目がありすぎるからそれもできない。
というか、何をしても誤解される予感しかない!
「さっきも言ったけど、俺は君の本当の性格を知っているんだ。だから君を信頼している!」
「……もうやだ、この人!」
自棄気味に背筋を伸ばした私は、食事を再開する。お肉を全部食べ尽くし、スープも飲み尽くす。優雅な食事のマナー? そんなものは忘れたことにする!
仕上げとばかりに水を一気飲みしていると、御曹司が立ち上がった。ついでに、テーブルの下から魔法のように花束を取り出した。
……ここまでくると、何があっても驚かない。
予約の段階で花束の手配までしていたのか、先に食堂に来て預けていたのか、なんて悩むこともしない。
ほんのりといい香りがしていたのはこれだったのか、と納得はしたけれど、ガラスの壁越しとはいえ、公衆の面前で片膝をついて花を差し出すのはやめてほしいだけだ!
憤慨しながら、ふと花束に目が止まる。
昨日の巨大さに比べると小さめの束だけど、美しくて高価そうなバラだ。色は柔らかなピンク色。つい見惚れてしまうほどかわいい。
(リリアナに似合いそうな色ね)
つい花束を見ていると、御曹司様はニヤッと笑った。
「これを俺に投げ返してほしい。そこでも君を追いかけてしまう俺は、ダメ度が上がると思うんだよね」
「はは……意味がわかりませんね」
これ以上ここにいると、さらに謎の悪女らしさを要求されそうだ。できるだけ速やかに、この場から撤退したい。
……でも、どんな風に?
「この花束を受け取ったら、俺と付き合っているふりをして弄ぶコースかな。投げ返したら、派手に振られたのに俺がしつこく追いかけるコースになる。俺のオススメは後者だけど、君はどっちがいい?」
「……どっちも最悪です」
でも花に罪はない。
リリアナによく似合うだろうし、きっと喜んでくれるだろう。
「…………その花束、リリアナにあげたいです」
「では、後で家に届けるよ。今日の分の危険手当と一緒にね」
かわいいバラの花束はリリアナへのプレゼント。
お金はただの正当な報酬。
――—よし、それなら悪女になってやる!
覚悟を決めた私は、思い切りよく立ち上がった。
目の前で膝をついているバカ御曹司様を無視して、特別室の扉を開ける。ガラスの壁で隔てられていた食堂の一般席は、開けた瞬間はまだざわめきがあった。でも私がぐるりと見回すと静まり返ってしまう。
私が何か言えば、隅々まで聞こえてしまうだろう。
でも、私はためらわない。
母の姿を思い出し、男たちの前でどんな表情をしていたかを思い浮かべる。頭の中を整理するために目を伏せ、息を吐く。目を開けたら、私は母を演じるのだ。
振り返ると、御曹司様はまだ片膝をついていた。
「お食事、ごちそうさまでした。でも、こんなことは迷惑ですから」
できるだけ冷静に、眼差しだけは冷たくしたつもりだったけれど、「迷惑」という言葉に実感がこもりすぎたかもしれない。
ただ、周囲には私が乗り気ではないことは伝わったはず。そして御曹司様は……目がキラキラしていた。
「ヴィオラ嬢」
「もう私に関わらないでください。ごきげんよう」
そう言い捨てて、食堂の出口へと向かう。
途中でちらりと目を向けると、追いかけるように特別室の外に出ていた御曹司様は、体の陰で親指を立てて口を小さく動かした。
『完璧だ!』
はっきり読み取れてしまった。自分の目の良さが嫌になる。
自己嫌悪を振り払いたくて、私は足を早めて食堂から脱出する。外の少しひんやりした空気を吸って、やっとほっとして――—ついでに気付いてしまった。
「……デザート、食べそびれた」
特別にお腹が空いているわけではない。でもこんなことなら、パンだけでもおかわりすればよかったと後悔する。
「元王宮料理人のデザート、食べてみたかったなぁ……」
未練がため息となってこぼれてしまう。
でも、もう一度あの食堂に戻る気分にはならないから、私は午後の授業の準備をするために教室へと向かった。




