10 特別危険手当相当
午後の授業を受けていた私は、異変に気付いた。
私に向けられる視線がいつもより多く、しかも冷たい。
勝手に誤解されて、冷たい視線を向けられるのは慣れているつもりだったけれど、今日は全く違う。
あからさまに見られている。
それでいて、あてこするような囁きは全く聞こえない。
……視線に、軽蔑を通り越して殺気のようなものが含まれているのは気のせいだろうか。
こんなことは初めてだ。
戸惑ったけれど、思いあたることはある。派手に演じた自覚はあるから。
誰にも話しかけらないのだけはいつも通りだったので、内心でドキドキしながら授業を受けていた。
事態が急変したのは授業が終わった後。いつものように、園芸委員として中庭で水やりを始めようとしたところで、私は囲まれてしまった。
周囲にいるのは全員女子学生で、一番多いのは四年生のようだ。
私の正面に立って睨みつけている金髪の女子学生も四年生。直接の面識はないけれど、私はこの女子学生のことを知っている。
生徒会役員の一人で、カーディル伯爵家のご令嬢だ。
誰もが憧れる美貌と金髪を持ち、でも私を見据える目は刃のように冷たく鋭い。
「あなた、許されると思っているの?」
貴族らしい美しい発音なのに、声にこもる感情は険悪だ。
ひくり、とストレスで胃が縮んだ気がする。
(これ、もちろん御曹司様の件よね?)
―——―引き受けたのはやっぱり間違いだったかもしれない。
こんなに激しい敵意を一方的に向けられるなんて、覚悟していても動揺してしまう。危険手当をもらっても、精神的には全然釣り合わない。
……でも、この扱いは不当だ。
相手がカーディル伯爵家のご令嬢であろうと、王立学園の中は平等が建前となっている。それに生家の爵位を言うのなら、私だって父はエルバンス伯爵だった。過去のこととはいえ、爵位なら同格だ。上級生と下級生という事実はあるけれど、ここまで不当な扱いは納得できない。
私は逃げたくなった気持ちを奮い立たせ、まっすぐに見つめ返した。
「申し訳ありませんが、私はレディ・カーディルに対して、何か失礼なことをした覚えはありません」
「わたくしに何かしたとは言っていないわ。わたくしたちは見たのよ」
昨日の巨大花束の件か、それとも今日の食堂でのことか。どちらを見たとしても、心象は最悪だろう。私としても異論はない。
そんな思いが顔に出てしまったようだ。レディ・カーディルは極めて上品に眉を動かした。
「レイノルド様に取り入ろうとしたことは認めるのね? あなたのような女は相応しくないの。あの方の生活を乱すようなことはやめてくださる?」
……同級生なのに「様」をつけるのか。
それがちょっと気になりつつ、私は弁明を試みた。
「私は何もしていません。レイノルド・オディーランスさんのことなら、あの人が勝手に……」
「あの方が、あなたなんかに目を向けるわけがないわ! 何かしたでしょう!」
「大学の教授の皆様にも、取り入っていることは知っているのよ!」
「レイノルド様は正しい道を進まなければいけない我が国の宝なのよ。あなたのような評判の人間にまとわりつかれるのは迷惑だわ!」
周囲の女子学生たちは「節操がなさすぎるわ!」とか「特待生の肩書きも色仕掛けで手に入れたんでしょう!」などと口々に言っている。
こんなに直接罵倒されるのは初めてで、心臓が嫌な動きをした。
でも、同時に頭がすぅーっと冷めていく。
この人たちは聞いてくれないけれど、私は何も悪いことはしていない。ちょっと派手に振る舞ってしまったけれど、それは御曹司様が望んだからだ。
破滅志望のバカ御曹司様はこうなることを予想していた。全てわかっていながら、一番人目につく手段をとって私の逃げ道を塞いだのだ。
(なるほどね。あの御曹司様が「特別危険手当」をつけるなんて言い出すはずだわ)
……だんだん腹が立ってきた。今後は絶対に「様」はつけないようにしよう。
そんなことを考えると、少し落ち着いた。
怒りを向けるべきはバカ御曹司だ。あのバカ男の思うように操られている女子学生たちに罪は……ない、こともないような。
まあ、バカ御曹司ほどの罪はない。
そして、これが特別危険手当相当の事態なら、真面目な勤労学生としてお給料分の働きをするべきだ。
すっかり落ち着いた私は、真っ直ぐにカーディル伯爵令嬢を見据えた。
「レディ・カーディル、いいえ、学園内ではそんな呼び方は不適当ですね。カーディルさんとお呼びします」
「まあ、あなた、アリシア様に対して失礼よ!」
「ここは王立学園です。学園内においては、庶民も貴族も平等に扱う。それが祖王陛下が定めたルールです。それとも、あなた方は祖王陛下のご意向を無視するおつもりですか?」
「……!」
女子学生たちが黙ってくれた。
よかった。そんなものは建前だと言われれば「はい、そうですね」としか言えない。今日集まっている令嬢たちが、ノブレス・オブリージュの精神を守る育ちの良い方々でよかった。
密かにホッとしていると、カーディル伯爵令嬢が小さく息を吐いて微笑んだ。
「あなた、さすがに場慣れしているようね」
……え?
あの、場慣れってなんでしょうか。
思考が止まりそうになって、私は「特別危険手当」と心の中で繰り返してなんとか乗り切った。
多分、表面上は揺るぎのない笑みを浮かべているはずだ。
母はこう言う時は微笑んでいたから、きっとこれで給料相当の働きになっている、はず。……あれ? 私の仕事は「悪女になる」でいいんだよね?
「それで? あなたはどんな弁解をするおつもりかしら?」
カーディル伯爵令嬢の声に、私はハッと我に返った。そうだ、今は悩んでいる場合ではない。これはお仕事なのだ。
私はこほんと咳払いをして、改めて囲んでいる令嬢たちを見やった。
「弁解かどうかはわかりませんが、これだけは言っておきます。私はあのバ……オディーランスさんに言い寄ったことはありません。むしろ、まとわりつかれて迷惑しているのです」
「まあ、なんて傲慢な!」
おっと、令嬢たちの反感がすごい。
どうやら、また感情がこもり過ぎてしまったらしい。でも迷惑をしているのは嘘ではないし、悪女ならこう言うはずだ。
「だいたい、なぜ私があの人に色目なんて使わなければいけないの? 私はこの学園に遊びにきたわけではないから、忙しいんですよ。国の宝だと言うのなら、あなた方が見張るなり、守って差し上げるなりしてはいかが?」
できるだけ冷静に、でも母を思い出して最後は少しだけ笑って見せる。
似ていたかどうかはわからない。ただ周囲の令嬢たちが息を呑んで目を釣り上げたから、喧嘩を売っているようには見えたはず。
……あれ?
ここで喧嘩を売るって正しかった?
ちょっと自信が揺らいだ時、ざくり、と土を踏む音がした。
「君たち、ずいぶん不穏なことをしているね」
突然聞こえた声に、女子学生たちは慌てて一斉に振り返った。
まず見えたのは、ベージュというには甘すぎる色だった。ミルクティーのような髪はどこか乱れていて、ジャケットの袖もたくしあげている。でもだらしなさは微塵も感じさせない。
バカ御曹司だ。
袖を戻して襟を整えながら微笑んだ顔は呆れるほど整っていて、女子学生たちが「国の宝」と騒ぐのも当然だと思わせてしまう。
周りの女子学生たちが真っ赤になっているのは、怒った顔を見られたと思ったからだろうか。もしかしたらもっと単純に、御曹司の顔が良すぎるからかもしれない。
どちらにしろ、私に突き刺さっていた怒りの感情はきれいに吹っ飛んだ。
「レイノルド様!」
————本人の前でも「様」をつけるのか。
そんなことを考えながら見ていると、バカ御曹司は髪をかきあげた。指が通ると、わずかに乱れていた髪がきれいに整っていく。走ってきたばかりのように小さく息を吐くと、令嬢たちも熱に浮かされるように盛大なため息をついた。
「君たち、この人を囲んでいるが、何か勘違いしているんじゃないかな?」
「か、勘違いなんてしていませんわ! ただこの女が、レイノルド様の学園生活を邪魔しているのではないかと……!」
「それが勘違いなんだ。ヴィオラ嬢は何もしていない。俺がこの人に恋をして、勝手に夢中になっているだけだから」
「こ、恋っ!?」
「夢中だなんて……!」
一斉に悲鳴が起きる。
御曹司は令嬢たちの青ざめた顔を見回して、照れたように笑った。
「俺は、ヴィオラ嬢のそばにいたいだけなんだよ。だがヴィオラ嬢は俺なんか目に入っていない。だから……」
御曹司が言葉を切って私を見た。
「こうして気持ちを伝えようとしているのに、冷たくあしらわれてしまう」
多分、切なげな表情、というやつなのだろう。
周囲の女子学生たちが一斉にうっとりとしてしまったし、遠くからこちらを気にしていた視線も熱を帯びてしまったから。
でも、私は顔の良さにごまかされないし、見逃さない。
……このバカ御曹司、今笑ったよね? この状況を面白がっているよねっ?
つい睨む寸前の目つきで見てしまう。
途端に、バカ御曹司の目が面白そうに輝いた。どうやら私は、また「ゴミを見るような目」になっているようだ。
でも、今回は勘違いではない。
正しく「ゴミを見る気分」になっている。
私はバカ御曹司が差し出してきた手を冷たく払いのけ、令嬢たちには精一杯の微笑みを向けて、堂々と立ち去ってやった。
後のことは、バカ御曹司が事態の収拾を図ればいい……と思ったけれど、ダメ男になりたい御曹司がまともに収めるはずがなかったのだ。
何かまた余計なことを言ったようで、背後から何度も黄色い悲鳴が上がった。混沌とした場所から離れたい一心で、私は振り返ることも足を止めることもしなかった。
そのことを私は後悔することになる。……だって事態はさらに悪化してしまったから。
もういい。今後このダメ男志望の御曹司のことは、バカと呼ぶことにするっ!




