九話 戻ってきた青年②
「あの……嬢ちゃん? こんな事言うのも野暮ってのは分かってんだが……まだ心配してんのか」
ベッドで横になっているロイド。その隣には、林檎の皮を一度もしくじることなく剥いているエレナがいた。
その表情はどこか曇りがあり、明らかに心配います、と言わんばかり。今剥いている林檎も、既に五個目だ。ここまできてしまえば、流石に指摘せざるを得ないだろう。
「ええと、その……はい」
「まぁ、心配するなという方が無理があるか。何しろ、あの強烈な一言聞いた後じゃなぁ」
事前に話を聞いていたロイドでさえ驚いたのだ。言われたジグルやエレナに、驚愕するな、という方が無理な話である。
「とはいっても、何も本気で殺し合おうってわけじゃないんだ。ただのリハビリ……ってのとは違うかもしれねぇが、それでもジグル青年のためってのは本当なんだし」
それは、嘘ではない。
ヘルは何も、己の鬱憤を晴らしたいからあんなことを言ったわけではない。でなければ、流石にロイドが全力で止めている。彼女の目的はジグルのためであり、そして何よりエレナのためでもある。
ただ……そこに少々手荒なことが混じっているのも事実ではあるが。
「そう、なんですよね……すみません。ヘルさんの事を信用してないってわけじゃないんです。でも、ジグルさんは病み上がりと同じで、その状態で手合わせっていうのは……」
「けど、そうでもしないと、奴さんの身体も万全にならないのも事実だろう? なら、任せるしかねぇ。姉さんを信じて待つとしようや」
「……そうですねよね」
などと言いつつ、その表情はやはり暗いものであった。
(こりゃ相当だな……)
などと思いつつも、一方でロイドは無理もない、とも考えていた。
ジグルは、エレナがずっと助けたいと思っていた男。そんな彼がどんな形であれ、無茶をすることは彼女にとって辛いことであり、心配するなというのは不可能だろう。そして、その結果、彼が死んでしまうようなことになれば、きっと彼女は立ち直れない。だからこそ、本音のところでは、ダインテイルとは戦って欲しくないはずだ。いいや、もっと言うのなら、もう彼女はジグルには戦って欲しくないのかもしれない。
だが、それを口にすることはできないし、したくないのだろう。
彼がヘルに頼まれたのは、エレナのことを見ていること。だが、彼女の気持ちに踏み入ることはしたくないし、とやかく言うつもりはロイドにはない。何故なら、何も言わないと決めたのはエレナなのだから。
だからこそ、ロイドはジグルが無事に帰ってくることを願うだけなのだが……。
(本当に、大丈夫なんだろうな、姉さん……)
何だかんだといって、ロイドもまた、そんな言葉を心の内で吐露していたのだった。
*
殴り合おう、といったヘルの一言は、無論比喩である。
正確に表現するのなら、手合わせしよう、というのが正しい。
ジグルは普通に動けるようにはなっているが、未だ完全に身体を使いこなせていない。それはヘルも理解している。
だからこそ。
『もしもあの魔剣と戦うのでしたら、もう少し、身体を本調子にさせておいた方がよいでしょう?』
などと言って誘ったのだ。
これは言ってしまえばリハビリのようなもの。使う武器もジグルが使う武器も真剣ではなく、木剣。しかし、それはジグルが手を抜いている、というわけではなかった。そもそも、木剣とて凶器には違いないのだから。
そして、無論ヘルも手加減をするつもりはさらさら無かった。というより、彼女には他の目論見があったのだ。
あった……という言葉から分かるように、それは既に過去のこと。
今、彼女は、当初の目論見を遂行する余裕がない程の、想像以上の現実に襲われていたのだった。
「―――ふんっ!!」
木剣が振り下ろされる。
力強いその一擊は、しかしヘルには当たらず、空を斬るのみであった。だが、そこでジグルは焦らない。少しでも気が乱れれば、そこを突かれてしまうことを彼はよく理解している。
故にジグルは当たらずとも、攻撃を続け、冷静に一擊を放っていく。
(これは、想像以上どころの話ではありませんわね……っ)
一見、悠々とジグルの攻撃に対処していくヘルだったが、内心は余裕など一切なかった。
一つひとつ的確に避け、捌き、防御していく。そこまではいい。だが、その先ができない。
ヘルの体術は云わば、反撃を主体としている。相手の攻撃をそのまま相手に返す、といった具合に。それは素手だろうが、刀剣だろうが関係ない。どんな攻撃だろうが、返し技を繰り出せる自信が彼女にはあった。
だが、ジグル相手にはそれができない。
通常、木剣が武器ならば、それを掴んで木剣ごと相手を放り投げたり、木剣そのものを折り、戦う術を無くす、というのがヘルの常道の対処法。しかし、ジグルは通常の剣士など比べ物にならない程、速く、鋭く、そして重い。下手に手を出そうものなら、腕が折れてしまうだろう。加えて変幻自在であり、読みづらく、掴むことができない。
故に反撃の機会を待ちつつ、わざと隙を見せているのだが、それすら読んでいるのか、ジグルはヘルの思うようには動かない。事実、既に十数回以上掠っている。これが真剣ならば、確実に血が流れていただろう。
「くっ……」
正直な話、ヘルはジグルを徹底的に叩くつもりだった。
魔剣・ダインテイル。あの男と戦うことは自殺以外の何者でもない。無論、立ち向かおうとする意思は尊重するものの、それで死んでしまっては元も子もない。それではエレナが悲しむし、ゲオルもまた浮かばれない。それを認識してもらうために、ヘルはジグルと戦うことを決めた。
それがもう一つの目的、というより本当の目的。
だというのに、現実がこれとは。
(情けない、有様ですわね……)
無謀な戦いはやめろと言いたかったというのに、逆に自分が追い詰められている。滑稽にも程があるというもの。これでは、何を言ったところで説得力はない。
むしろ、彼ならばあるいは……と心のどこかで思い始めている節がある。
斬撃の重さは当然のこと、ひと振りの速さ、力の入れ方、動きの読み、柔軟な思考、身軽な動き……どれをとってもジグルのそれは常人を遥かに超えている。しかし、それは天性だけのものではない。弛まぬ努力、血が滲むような鍛練、積み重ねてきた実戦。そういう諸々があっての代物だ。でなければ、ここまでの域には達することなどできはしない。
だが。
それでも、とヘルは思うのだ。
「―――見事、ですわね」
距離を取り、ヘルは言葉を口にする。
「ええ。確かに。ジグルさんの剣はわたくしの予想を遥かに超えていました。ゲオルさんが、身体に選んだのも頷けるというものですわ」
喋りながら、ヘルはジグルを中心として円を描くかのようにゆっくりと動く。一方のジグルはというと、ヘルの動きに合わせ、剣先を向けていた。
互いに間合いをせめぎ合う中、ヘルは言葉を続ける。
「正直、今の状況でわたくしがジグルさんに何をどう言おうと無駄なのでしょう。傍から見ても、押されているのはわたくしなのですから」
けれど。
「それを承知の上で言わせてもらいます。それでは足りません。その程度で、あの魔剣と戦えると……いいえ。勝てると、本気で思っておいでですの?」
それは挑発とも、叱責とも取れる言葉だった。
ジグルは今、木剣を使っている。これは殺し合いではない。だが、だからと言って手を抜いているというわけではない。そもそも、木剣であろうと、打ちどころが悪ければ人は死ぬ。それはジグルも理解しているし、その覚悟も無論ある。その上で彼は本気で戦っていた。そして、それはヘルの上をいく剣術である。
しかし、足りない。それだけでは、あの魔剣には勝てない。
ヘルは心のどこかで、ジグルならばダインテイルに勝てるのでは? と確かに思っている。だが、それは可能性の話であり、一方でその可能性に賭けてはいけない、という想いもあった。
それは、技術や力量の話ではない。
もっと別の、根本とした問題である。
「……どういう、ことですか?」
「これはわたくしの見解ですが……ジグルさんは勝つとか敗けるとか、それ以前に、戦わなければならないから戦っている、という風にしか見えません。それがいい悪いはこの際置いておくとしましょう。問題なのは、しなければいけないという、一種の使命感で動いているということ。ゲオルさんを助けたい、というより、助けなければならない、という風にも取れる。その意思自体は強いですが、貴方の考えというものが見えないのですわ」
誰かと助けたいという想いと誰かを助けなければならないという想い。
似ているようではあるが、これらは決定的に違うことであり、何より後者の場合、自分の意思というものを感じられない。まるで、誰かから「そうするべきだと教わった」から実行しているようなものだ。
しかし、それだけではダメだ。
いくら意思が強かろうと、それがどこからくるものなのかをはっきりとしていなければ、いざという時にあっさりと折れてしまう。それが戦いとなれば尚更だ。
そして、それはジグルも自覚はあるようだった。
「……、」
指摘されたと同時、ジグルは己の木剣を見つめていた。やはり、何か思うところがあるようだった。その『思うところ』をはっきりさせておかなければ、きっと彼はダインテイルに勝つことはできない。少なくとも、ヘルはそう確信していた。
「故に問います。ジグルさん。貴方は、どうしてそこまでして戦いたいのですか?」
言われ、ジグルは自らが持つ木剣を見つめたまま、ゆっくりと答える。
「僕が……戦いたい理由は――――――」