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「……暗示をかけろというなら、拘束を解いてくれるんでしょうね?」
しばらくの間、思案するように黙り込んでいた累が、ぼそりと言った。
少し離れたところで話を聞いていた涼子が警戒するように身構える。
累のことだ。恐らくこの状態に持ち込むまでには、かなりの苦戦を強いられただろう。
玲の満身創痍ぶりも、それを物語っている。
腕だけでも自由にさせたら、どんな反撃を仕掛けてくるか知れたものではない。
「その必要はないはずです」
間髪入れずに、穏やかな口調ながら有無を言わせぬ力強さを込めて、玲が答える。
「累ちゃん、あなたなら今の状態でも、暗示をかける方法はいくらでもあるでしょう?」
「…………」
累の唇が忌々しげに歪む。
どうやら玲の言葉は図星のようだった。
「学校中に散らばっていたはずの生徒や教師に対して、全て手を使った方式で暗示をかけて回ったとは考えられません。もっと広範囲に効果を発揮するような手段があるはずです。……多分、音……声によるものですね?」
「……想像以上に厄介ね、貴女という人は」
拘束を解除させる目論見が失敗に終わった累は、目を閉じて深い息を吐く。
玲を欺こうとしたということは、隙を見て形勢を逆転させる狙いがあったと考えるのが自然だろう。
「他にも、振り子の動きを見せるだけなら、髪や眼球を使うこともできるでしょう?申し訳ないですけど、両手はこのままにさせて下さい」
「…………」
沈黙。
普段の累からは考えられないほど長い時間、彼女は現状に対する対処を考えあぐねていた。
よく見れば、その頬には冷や汗さえ浮かんでいる。
「どうしたんですか?累ちゃん。正和くんは眼の前にいます。彼から直接、偽りのない望みを聞き出して下さい。……もうそれ以外に、あなた自身も納得できる道はないはずです」
軽く累の両肩を押して、促すように言う玲。
しかし累は、従おうとはしなかった。
「……分からないわ……」
歯切れ悪い口調で、累が切り出す。
「正くん自身が認識している幸せが……それを叶えてあげることが、本当に正解なのかしら……」
その心の奥を見透かそうとするように、正和を見つめる累。
視線は、不規則に揺らいでいる。
それは、累が初めて見せた、不安の気配だった。
「この数年間、私の目についたのは、置かれた環境の中で本当の欲求を捻じ曲げて自縄自縛に陥っている人達ばかりだった……。どうしてこの世の中に生きる人達は、そんな呪いに囚われていなければならないのか……。あなた以上の頭脳と洞察をもってしても、到底理解は出来なかった……」
「……」
「果たして、正くんは……本当に彼が心から望む欲求を私に聞かせてくれるのかしら……。誰かに押し付けられた理想やあるべき姿を、自覚しないままに本心とすげ替えられていないと、言い切れるのかしら……」
ずっと抱え続けてきた懊悩を吐露するように、累は弱々しく言葉を紡ぐ。
「……私は、間違えるわけにはいかない……。命を賭してこの力を手に入れたのよ……。その場限りの幸せを与えてそれでお終いなんて……その後の人生で彼が後悔を抱えて過ごすなんて……認めるわけにはいかない……」
「……累ちゃん……」
思い詰めた言葉は、聞きようによっては弱音とも取れるような告白だった。
玲が眉根を寄せて、切なそうに目を細める。
「……そればかりは、私にも、あなたにも……どんな知識や先見の明を持った人であっても、断言することはできません……」
「……ならば、私はどうすればいいの……。この先、正くんが絶望するような苦難に直面するかもしれないなら、彼を満ち足りた夢の中に閉じ込めてしまったほうが、幸福にしてあげられたと思える……。私は、確かな答えに辿り着いたと言えるのに……」
「どうしてそこまで思いつめるんですか?まだ、正和くんと過ごして半年も経っていないんでしょう?これから、ゆっくり答えを探していけばいいじゃないですか……」
「…………」
「…………累ちゃん……あなた……」
累の沈黙に、玲は何かを察したように目を見開く。
二人の会話の真意が読み取れない正和と涼子は、戸惑うように顔を見合わせた。
「……無駄にするわけには行かない。不確かな未来になんか、彼を委ねてたまるものですか……。歪んでいたとしても、私が与えるのは間違いなく一つの幸せの形なんだから……」
「……累ちゃん……」
「私はもう、無駄な逡巡などしない……。自分が辿り着いた答えを信じる。……だって、この世界は狂っているもの」
「……っ!」
正和の体が強張る。
いつの間にか、累の瞳から目が離せなくなっていた。
「誰も、貴方だけの為に生きてくれはしない……。自分の身を投げ出してまで他人に尽くす人間なんて、存在しない……。でも、私だけは……。だから、私の答えを……受け入れて」
「る……累……」
「さぁ、正くん……どんな夢がいいかしら……。そうね……。この世のものとは思えないような美しい国を、貴方一人のものにするわ……。貴方は地位と名誉と権力全てを手に入れて、終わりのない快楽の日々を過ごすのよ……。誰も貴方を傷つけない。裏切らない。もう、思い悩んだり苦しんだりなんか、しなくていいんだから……」
「……玲さん!止めて!」
異変に気づいた涼子が、悲鳴のように声を上げる。
累の瞳が小刻みに左右に揺れる。
正和は蛇に睨まれた蛙のように、身動ぎ一つできずに魅入られていた。
「玲さん!!」
悲痛な叫びが響き渡る。
正和の意識が、累の瞳の中に吸い込まれそうになったその時。
「…………辛かったんですね……累ちゃん」
玲は、震える声で呟いた。
そして、累の両肩に腕を回して、ゆっくりとその体を抱きしめた。
累自身との衝突でできた傷だらけの腕で、その痛みと出血の原因たる相手を受け止め、慈しむように包み込んで見せた。
集中が途切れたのか、暗示の拘束が開放され、正和は荒い息をつきながらその場に蹲る。
「……っ……何をっ……」
拘束されたまま肩を振って、玲の抱擁を振りほどこうとする累。
しかし玲の両腕は、穏やかな重みを伴って彼女の体を包み込み続けた。
「……怖がらないで下さい」
「……邪魔を、しないで……」
「……大丈夫です。……世界はそんなに、厳しくも汚くもありません」
「…………っ!!」
言葉の途中で、累は玲の二の腕に噛み付いた。
「累!」
「大丈夫です」
声を上げて駆け寄ろうとする涼子を、即座に制止する玲。
その間にも、累は狂犬のように鼻息も荒く、玲の柔肌に犬歯を突き立てる。
どんなにその傷が深くなろうとも、玲の態度は少しもゆらぎはしなかった。
「大丈夫……。だいじょうぶ、だよ。……累ちゃん」
優しい声音で、玲はその耳元に囁く。
「……怖かったんだよね……。大切な人を、ただ幸せにしたいだけなのに……それを叶えさせてくれない人達を、世界を見て、ショックだったんだよね……」
止め処なく血を流す二の腕から繋がる手のひらで、玲は妹の頭を何度も撫で付けた。
「……怖かったね。……お姉ちゃんがぎゅってしてあげる。怖くなくなるまで……落ち着くまで、ずっとこうしてるから」
玲の顔にこびりついた血の汚れを、こぼれ落ちる涙が洗い流していく。
「……ごめんね。……もっと早く、私がこうしてあげていたら……こんなに、累ちゃんが追い詰められることもなかったのに……ごめんね……」
震える声で、何度も許しを乞う。
狂気と怒りを迸らせていた累の顔に、再び困惑が広がった。
累が見出した結論が、揺らいでいる。
彼女の実の姉が、身を挺してその結論に対する反証をつきつけていた。
「……何なの……。何なのよ……」
「……ごめんね……」
「貴女さえ……現れなければ……こんな戸惑いを抱くことも無かったのに……」
「……そうだよね……本当に、ごめんなさい……」
いつの間にか、累も涙を流していた。
二人の嗚咽が、重なり合う。
姉妹であり、同一人物であり、お互いにただ一人の幸せを願う定めに縛られた二人。
その思いは尽くすれ違って、ただただ悲しみと嘆きに暮れるばかりだった。
正和はその光景を見つめ、乱れる息をなんとか整えながら、密かに自分の中の決意を固めた。




