83
「累のこと、本当に簡単にだけど、真菜ちゃんと松田に話しておいたわ」
フェンスに背中をもたせかけて、横たわる累の姿を見つめたまま、涼子は告げる。
「……だから全部忘れて許せとは言えないだろうけどさ、きっと何も知らないよりはマシだと思って」
「…………悪いな、気ぃ回してもらっちゃって」
小さく息を吐いて、涼子は笑った。
「……あのね、杉田」
「ん?」
「……悔しいけど、私ね、累のこと……自分が思ってたよりずっと気に入っちゃってたみたい」
累に向ける視線はあくまで優しく、まるで妹を見守る姉のような表情だった。
「何でなんだろ……。あんなに酷い目にあって、メチャクチャされたのにさ……それでもやっぱり、悪意を向けられたって感じはしないのよね」
「…………」
「……もしかしたらさ、累は、まだ何も知らないだけなのかもしれないって、思い始めちゃって。あんなに強くて、何でも出来るくせに、やってることはまるで小さな子供みたいなんだもん……」
玲の言葉を思い出す。
累は今、戸惑っている。
完璧でありながら、それゆえの脆さに揺れている。
全く弱みを見せない機械のような振る舞いを見せていたとしたら、おそらく周囲にこんな心象を与えはしなかっただろう。
「玲さんに、これからどうするつもりなのか、聞いたんだ」
「……そっか」
「……正直、それで上手くいくのかも見当付かないし……どうなることが正解なのかもわかんないんだけど……」
「うん」
「……私は、杉田ならなんとかいい結果にこぎつけられると思う。信じてる」
「…………涼子」
手放しの信頼をその瞳に湛えて、涼子は正和を見つめた。
「だから、頑張って。何とか納得できる答えに、辿り着いてね」
「……やってみるよ」
「……最後の最後で力になれないのが、すごく歯痒いけど……」
「……今まで、充分助けてもらったよ。涼子がいなかったら、こんなチャンスにも辿り着けなかった」
心からの本音の言葉で、正和も答える。
「ホント、ありがとな」
普段より素直な正和の様子に、涼子は照れくさそうに、そして嬉しそうに頬を緩めた。
「……杉田、お願いなんだけどさ」
「うん?」
「…………できたら、累に伝えて。……そんなに何かに囚われたり、苦しんだりなんかしなくてもいいって。余計なお世話かも知れないけど、アンタのことを心配してる人がこんなにいるんだって……だから……」
「…………」
それ以上は上手く言葉にならないのか、下唇を噛んで黙り込んだ。
「……分かったよ」
彼女の性格の表れのように癖のない髪を軽く撫でて、正和は涼子の前を離れる。
改めて、正和は自分の周りにいた友人たちの大切さを思い知った。
全員が累と正和との繋がりを大切に思ってくれているからこそ、今この場所に居合わせている。
ぶつかりあって傷を負っても、すれ違ってもどかしさを嘆くことがあったとしても、彼らと友達でいられたことに対する感謝は翳らない。
皮肉にも、この関係のすべての発端を作ったのも、そしてその気づきのきっかけを与えてくれたのも、累だった。
だからこそ、正和は自分が背負うべき責任から目をそらすわけにはいかない。
意を決して、正和が累に向けて歩み寄ると、塔屋の前で待機していた玲もゆっくりと近づいてきた。
「……準備は、大丈夫ですか?」
低く抑えた声で尋ねる玲に、正和は一つ大きな深呼吸をしてから、はっきりと答えた。
「OKです」
「……じゃあ、起こしますよ」
言って、累の両肩を引き起こし、その背後にまわる。
一度ちらりと視線を投げる玲に頷き返す。
玲の平手が、ごく軽く累の首の後ろを叩いた。
累の真正面に立って、正和は軽く拳を握りしめた。
---
「…………」
短い沈黙の後、ゆっくりと累の瞼が上がっていった。
焦点を合わせる対象を探していた瞳が正和を捉えて、小さな驚きに見開かれた。
「……正くん……」
「……よ」
短く挨拶の言葉を発しながら、拘束された幼馴染と相対している状況の可笑しさに顔を歪めた。
「…………」
累は黙り込んで、あちこちに視線を飛ばす。
自分が気を失っていた間に何が起きたのか、情報収集を試みているようだった。
その仕草に、自らの体を顧みるような様子は一切ない。
正和の胸が痛む。
なぜ彼女は、こうまで使命感に追われ続けていなければいけないのか。
その原因が自分にあるのだとしたら、むしろこの騒動全体の発端は、自分なのではないかとすら考えてしまいそうになった。
「……玲さんに、やられたんだってな」
責めるでも慰めるでもなく、ニュートラルな心情で正和が声をかける。
「…………こんな言葉を使う時が来るなんて思ってもみなかったけど……一生の不覚というやつね。……まさか、あの女に後れを取るなんて……」
忌々しげな声で、累は吐き捨てた。
「あの女、なんて呼ばないでください。昔みたいに、『お姉ちゃん』って呼んでほしいです」
すぐ背後にいるのが玲であることに気づいて、一瞬で累の表情が険しくなる。
体を素早く畳んでから、反り返る勢いに乗せて、後頭部で頭突きを繰り出した。
しかし、玲に首根っこをつかまれてすぐに無力化される。
「……っ……。……どういうつもり?仕留めたなら、さっさとどこへなりと連れて行けば良かったのに」
「強がり言わないで下さい。累ちゃんだって、正和くんと会いたかったでしょう?」
「……目的は何?」
「わかりませんか?」
「理解不能よ。……吐き気がするほど、訳が分からないわ」
「……だからこそ、正和くんを連れてきたんです」
「……?」
「累ちゃんの色んな疑問に、きっと答えを出してくれます」
累の視線が、再び正和を射貫く。
正和は決意をかみしめた顔で、累を見つめ返した。
「……正くんに、何を吹き込んだの……。返答次第では、貴女たち全員覚悟してもらうわ」
「累。待てよ。俺は別に、誰かに言われたからここにいるわけじゃ……」
「……この女に何かされなかった?拙いとはいえ、暗示使いよ。口車に乗っては駄目」
「だから、違うって」
「誰もそれを証明できないわ。例え正くん自身がそうだと信じていたとしても……」
「……いいえ、できます」
累の両肩に優しく手を置いたまま、玲は穏やかに提案する。
「……正和くんに、暗示をかけてください。『真実しか話せない』ように」
「…………」
「『正直でいたい』という欲求は、私みたいな変わり者以外なら誰にでもあるはずですから、簡単ですよね?」
思いがけない玲の言葉に、累は束の間絶句した。
「そうすれば、私が暗示をかけたり、涼子さんたちが彼を唆している訳ではないと、証明できるはずです」
「…………どこかずれているとは思っていたけど、ここまでとは思わなかったわ」
愕然とした口調で、累は失望の言葉を吐き出す。
「私が正くんに暗示をかけて良いなら、もうすべて決着よ。貴女たちが私を阻止するために奔走していた時間は、全て無駄に終わるわ」
「え?どうしてですか?」
きょとんとして疑問を口にする玲に、呆れ果てたような溜息を漏らす累。
「だってそうでしょう?ここまで理不尽で意味不明な抵抗と反発を受けるなら、私はもういよいよ手段を選ばない。本当の強硬手段に出るわ」
「例えば、どんな風な?」
「正くんの意識を全てシャットダウンさせて、自動的に脳がドーパミン、セロトニン、エンドルフィンなどを垂れ流すような夢を見させ続ける」
「……な、なんだその、ンで終わる横文字……」
「幸福感や快楽を感じさせる脳内物質です。……なるほど、そういう手もあるんですね……。寝たきりの廃人状態になっちゃいますけど、それはある意味究極の幸せかもしれませんね……」
「他人と接することの先に幸福などあり得ない。貴女たちが教えてくれた結論よ。それならもう、夢想の世界に生き続けるほうがマシだわ」
「その結論には同意しかねますけど、発想は秀逸ですね……。流石累ちゃん」
本気で感心している玲を正和がじとりと睨む。
玲は咳払いをして、仕切りなおす。
「でも累ちゃん、残念ですけど、その暗示は良くありません」
「……聞くに値する理由があるのかしら?」
「ええ。だって、間違っている可能性がありますから」
「…………?どういうこと?」
困惑に眉間に皺を寄せる累に、玲は人差し指を立てて説明する。
「もしそれが、正和くんが本当に望んでいる幸せとは正反対だったら?もし彼が人間関係の中で翻弄される痛みに歓喜する特殊な性癖の持ち主だったらとしたら?」
「……そんな屁理屈……」
「どうして屁理屈だと言い切れるんですか?ワサビを舐めるのが大好きな子供に、固定観念でチョコレートを与えて、『甘いものは多幸感を生むからこれであなたは幸せよ』って、間違っていませんか?」
「…………」
意外にも、舌戦で玲が累を押し始めていた。
「そんなところも含めて、正和くんに教えてもらってください。私の言葉は響かなくても、彼が心から発する言葉なら、累ちゃんも納得できるかもしれません」
累の視線に戸惑いの色が混じる。
玲の言葉通り、その表情は、謎に対する答えを求めてもがく子供のように見えた。




