70
一年の教室を通過して、やっと二階に登る階段にたどり着いた。
げんなりしている正和と涼子を心配そうに見やりながら、玲は踊り場で一旦立ち止まった。
「大丈夫ですか……?」
「え、ええ。問題ないっす」
答える正和の顔は、明らかな作り笑いだった。
教師たちの露骨な本音を垣間見て、少なからず動揺しているようだった。
別にその性根に期待していたわけではないが、本人の口からあられもない内心をぶちまけられると、さすがに堪えるものがあった。
隣で黙り込む涼子は、動揺というより嫌悪の表情を強く示していた。
彼女のように品行方正な生徒からすれば、教育者は模範であるべき存在なのだから、無理からぬ反応だ。
そんな二人を、寂しげな面持ちで見つめる玲。
見聞きしたものに眉ひとつ動かさずにいられる自分を、恥じているようでもあった。
二階に上がって、三階へ続く階段が閉鎖されていることに気づいた。
大量の椅子や机が雑然と積み重ねられて、厳重なバリケードが出来上がっていた。
「……なんのつもりかしら……」
「上に登らせないようにしてる?」
「……それなら最初から、二階に登る階段を塞げばいいはずじゃない?」
「……確かにそうか」
「……」
二人の会話を聞いていた玲が、廊下に向けて歩き出した。
「玲さん?」
「こっちです」
「え?なんで?」
迷いのない断言に、正和は面食らう。
「累ちゃんの狙いが、わかった気がします。私の予想が正しければ、奥側の階段で上に行けるはずです」
「どういうことですか?」
「……廊下で、お二人に見せたいものがあるんだと思います」
意味ありげにそう言って、玲は先に進む。
「……何か学校に来てから、戸惑ってばっかりね」
「……完全に置いてけぼりって感じだよな、俺ら」
誰にともなく愚痴をこぼしながら、仕方なく後に続く正和と涼子。
二階には二年生の教室が並んでいる。
そして一階同様、三つの教室からには明かりが灯っていた。
一階との違いは、後方の引き戸が開いていることだ。
二年一組の中を覗く。
むせ返るような、人工的な香料の匂いが入り口から漏れ出していた。
香水、ワックス、制汗剤、その他諸々の匂いがミックスされた、どぎつい悪臭だった。
後方の席に数人の男子生徒が、机の上に折りたたみ式の鏡を立てて髪をいじっている。
指先にワックスを付けては髪になじませて毛束を作り持ち上げ、ちょこちょことねじる。
少しいじっては鏡を見て顔の角度を変え、また少しいじっては鏡で確認する。
一人の生徒が席から立ち上がり、教室後ろのロッカーに向けて歩き出した。
が、窓に映る自分の髪型を見て首を捻り、すぐにまだ自席に戻り、鏡を取り出す。
全員がそんな動作を、延々と繰り返していた。
「……今まで見た中でこれが一番嫌かも……」
「あぁ……クラスに一人か二人はいるよな、ああいうの」
「男が鏡とか鞄に入れてんの見ると、内心引くのよね」
「……今時は多いんだろうけどな」
「見てよ、あのファッション。ジレとハットに、ピチピチスキニースラックスに、黒縛り、無駄ジッパーとシルバーアクセまみれ、アーティストぶったセルフレームメガネ+ちょんまげツーブロック……量産型勘違いって感じ」
「個性を求めて没個性、ってやつだな……」
教壇側の入り口に進む。
前方の席では、女子生徒達が似たようなことをやっていた。
机の上が埋まるほどの化粧用品を並べて、一心不乱にメイクに励んでいる。
「なーんで女子って、みんな同じような顔つきになるメイクしかしないんだ?」
「私にはちょっと理解できないけど、確かに変よね」
「ほら、最近はやたら明るい口紅塗ってさ、冗談みたいにほっぺた赤くしてるような……」
「おフェロってやつね。男子の目から見てああいうのってどうなの?」
「……微妙。そういう決まった方向性じゃなくてさ、一人ひとりに合うやり方ってのがあるもんなんじゃねぇかなぁ……」
「どっかに属してると安心するのよ、女って」
「踊らされてんなぁ」
玲は律儀に二人が中の様子を伺い終わるのを待っていた。
恐怖が薄らいできたのか、正和と涼子は率先して次の教室へと進んだ。
二組では、また趣の違う異様な光景が広がっていた。
後ろの黒板には、美少女のイラストが所狭しと描かれている。
ロッカーの上には、アニメキャラクターのフィギュアがずらりと並んでおり、男子生徒達が横一列に並んで土下座していた。
額を地面に擦り付けんばかりにしている彼らは、時折ちらちらと入り口の方の様子を伺うように視線を飛ばしてくる。
「……訂正。こっちのが一番嫌」
「俺もこれは、ちょっと……」
「うぅ……鳥肌立っちゃった……。怖気が走るってこのことね……」
「何が気持ち悪いって、周りの視線をちょいちょい気にしながらああいうことしてるってとこだよな」
「ああいうのは、日陰の岩の下にいる虫みたいな存在だったはずなのにね」
「いつの間に大っぴらに表に出てくるようになったんだろうな」
前方の黒板には、頭身のバランスの異常なイケメンたちのイラストが犇めき合っていた。
首が長く、指が長く、足が長い。
何故か数人は半裸で、鎖骨や腕の筋や腹筋がやたら強調されて描かれている。
八重歯、メガネ、果ては犬のような耳……。
それらを前に、小太りな黒髪の女生徒たちが独特なボキャブラリーで興奮気味に会話を繰り広げている。
曰く、『待って』、『尊い』、『シコい』、『耳が孕む』、『つらい・しんどい』……エトセトラエトセトラ。
「うん、キモい。ただただキモい」
「ってか、なんで痩せようとしないんだろうね、ああいう人たちって」
「な。描く絵のキャラは一人の例外もなく細身なのにな」
「きっと食べて寝て、綺麗なキャラを絡ませてオカズにして、努力せずに手に入る快感ばっかりを追い求めてるのね」
「男同士をくっつける趣味って、カッコイイ男が他の女とくっつくのが嫌っていう身勝手な嫉妬の結晶なんだろうな」
「ちゃんとお洒落とか異性との会話にトライして、失敗して傷ついて経験を積んで、まともな恋愛すればいいのにね。……それが出来ないからあんなザマなのか」
二年三組へ駆けていく二人。
その教室には、まるで生贄の儀式のような光景が広がっていた。
男女が交互に手を繋いで輪を作り、その中央には蹲る一人の男子生徒。
輪になった生徒たちは満面の笑みを浮かべて鼻歌を歌い、踊りながら男子生徒の周りを回転する。
リズムに合わせて、中央にいる生徒の背中や脇腹に蹴りが飛ぶ。
しかし信じられないことに、男子生徒はごまかすような笑いを顔に張り付かせている。
足跡だらけの痣まみれになったところで、輪になった生徒たちが止まり、探り合うように顔を見合わせる。
一人の女子生徒が、輪から千切られるようにして中央に放り出された。
足蹴にされていた男子生徒は薄ら笑いのまま立ち上がり、女子生徒に容赦のない平手打ちを食らわせる。
どっと笑う周囲の生徒たち。
足跡だらけの男子生徒は何食わぬ顔で輪の中に受け入れられ、今度は女子生徒が中央で蹴りを入れられる。
女子生徒は例によって、ごまかし笑いを浮かべる。
この仕打ちを『笑って済ませられる冗談』の範囲から飛び出させないために、必死に笑う。
よく見ると、教室の角には真顔でしゃがみ込む男子生徒や、膝を抱えてむせび泣いている女子生徒の姿があった。
きっと彼らは笑っていられなくなって、二度と輪に戻れなくなってしまい、外に弾き出されてしまったのだろう。
「……最低ね」
「ああ……死んだほうがマシだな、こういう連中」
「でも、どこのクラスでも起こってることよね」
「学校どころか、この国中、どこもこんな感じなのかもな……」
「嫌になるわね……」
「世の中どうなってんだろうな……」
そこで、玲が小さくため息をついた。
「……二人とも。自分をしっかり持って下さい。おかしくなっていってるの、気づいてますか?」
『え?』
「…………特に涼子さん、かなり際どい言葉も飛び出したりしてました」
「……?」
訳が分からず首を傾げる涼子。
「なんて言っていたか教えてあげます。涼子さんはさっき、正和くんの前で、女性の自慰について言及していました」
「……は?……じ、じっ?!」
我に返ったように、一気に赤面する涼子。
「正和くんも正和くんで、ゴミを見るような目で人を見ていましたよ……」
「……お、俺が?」
「きっとこれが、累ちゃんの狙いです。心理的な揺さぶりをかけてきているんです。二人とも見事にはまってました」
「…………」
正和は汗が滲む自分の額を抑えた。
冷静になって振り返ってみると、とんでもない暴言を吐いていた気がする。
「……確かに彼らの振る舞いは、見ていて気分の良いものではないと思います。でも、そういう様を自分から積極的に覗きに行って見下すような発言をするのも、褒められたことではありません」
「……はい。……すんません」
「…………そうですよね……。恥ずかしいです……」
二人の反省の様子を確認して小さくうなずき、玲は再び先頭に立った。
「これから先も同じような見世物が続くとしたら、目をそらすか、見ても気持ちを動かさないようにして下さい。感情的な偏りを誘発させようとしているとしたら、累ちゃんはきっとそこにつけこんで来ます」




