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世界が終わる前、君と見た9秒の夢  作者: 森 神奈


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第二章:神の不在と、火星からの絶叫

空の底が完全に濁った赤に染まり、数日が過ぎた。

世界が終わるまで、あと三日。

橘雪音と如月夢果の二人が過ごす生活は、相変わらず静かだった。世界の崩壊という巨大な現実に対して、二人が選んだのは「徹底的な日常の模倣」だった。電気もガスも止まり、蛇口から出る水もいよいよ糸のように細くなっていたが、二人は毎朝決まった時間に起き、拾ってきた缶詰を開け、お互いの存在を確認するように言葉を交わした。

地鳴りは、もう環境音の一部になっていた。アポカリプスが引き起こす潮汐力の歪みのせいか、時折、家全体がミシッ、ミシッと不気味に軋む。皿の上の水が微かに震え、部屋の隅の埃が不自然に舞い上がる。それでも、二人はその異変をあえて口には出さなかった。口にしてしまえば、この奇跡的な静寂の結界が、一瞬で破れてしまうことを知っていたからだ。

「ねえ、雪音くん。今日はあっちの、まだ行ってない商店街の方まで歩いてみない?」

夢果が、少し伸びた黒髪を耳にかけながら言った。彼女の着ている制服のブラウスは、心なしか数日前よりも少しだけ大きく見える。まともな食事をとっていないせいか、彼女の身体は日に日に薄く、儚くなっているようだった。

「ああ、いいよ。あっちの肉屋の前に、確か自動販売機があった。まだ中にジュースが残っているかもしれない」

「お砂糖の入った炭酸、飲みたいな。喉がピリピリするやつ」

「探してみよう」

二人は並んで家を出た。繋いだ手のひらは、相変わらず夢果の方が少し冷たい。けれど、その冷たさが今の雪音にとっては、何よりも確かな現実の拠り所だった。

街は、一段と「死」の気配を深めていた。一週間前まではまだ散見された、絶望して道端に座り込んでいた人々の姿は、もう一人もない。彼らがどこへ行ったのか、二人は敢えて考えないようにした。多くの家は窓が割れ、カーテンが風に引きちぎられて外へ飛び出している。まるで、家そのものが内側から魂を抜かれて、抜け殻になってしまったかのように。

アスファルトには、乾いた砂のようなものが薄く積もり始めていた。空から降ってくる、隕石の微細な破片か、あるいは大気圏で燃え尽きた何かの灰だろうか。足を進めるたびに、サク、サク、と、まるで雪を踏みしめるような乾いた音が響く。

「本当に、誰もいないね」

夢果が、ポツリと呟いた。その声は、静まり返った街の空間に吸い込まれるように消えていく。

「ああ。世界中で、俺たち二人だけが取り残されたみたいだ」

「うん。でも、寂しくないよ。むしろ、世界が私たちのために、全部の舞台を片付けてくれたみたい。劇場を貸し切りにしてくれたみたいで、ちょっと贅沢」

夢果はそう言って、雪音の腕に自分の腕を絡ませた。細い身体の温もりが、制服の生地越しに伝わってくる。

目的の商店街にたどり着くと、そこは静寂の極みだった。アーケードの屋根はあちこちが落ち、そこから差し込む赤い太陽の光が、壊れた路面を斑模様に照らし出している。夢果が言っていた肉屋の前の自動販売機は、幸いにも誰にも破壊されていなかった。経済が崩壊した今、コインを入れる投入口は無意味な穴でしかなかったが、雪音は道端に落ちていた太い鉄パイプを拾い上げ、自動販売機の横の隙間に力任せに突き刺した。

ギチィ、と嫌な金属音が響き、何度か体重をかけると、プラスチックの取り出し口がバキリと割れた。奥の缶が、ゴトコン、と音を立てて転がり落ちてくる。

「あ、出た!」

夢果が子供のように声を弾ませた。転がり出てきたのは、埃にまみれたオレンジ味の炭酸飲料だった。電気が切れて久しいから、もちろん冷えてはいない。それでも、雪音は缶のプルタブを引き、パシュッという小気味いい音とともに夢果に手渡した。

夢果は両手で缶を受け取り、一口すすると、「んーっ!」と大袈裟に目を細めた。

「甘い! すごいよ雪音くん、これ、本物のオレンジの味がする」

「人工着色料と香料の味だろ」

「いいの。今の私たちにとっては、これが世界で一番高級なネクターだよ。ほら、雪音くんも飲んで」

夢果に促され、雪音も缶を口にした。ぬるくて、強烈に甘い炭酸が喉を焼く。その刺激が、麻痺しかけていた雪音の神経を、無理やり現実に引き戻すようだった。美味い、とは言えなかったが、生きている、という感覚だけが、炭酸の泡とともに胃の奥で弾けた。

二人は、壊れたアーケードのベンチに腰掛け、一本の缶ジュースを交互に飲みながら、ただ時間を潰した。

これからどうなるのか。あと三日で何が起こるのか。それは分かっている。分かっているからこそ、今この瞬間の、ぬるいジュースの味について語り合うことだけが、二人の正気を保つための唯一の防壁だった。

だが、その防壁は、あまりにも唐突に、暴力的な形で打ち破られることになる。

ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ。

不意に、静寂を引き裂くような高音が、街の空気に響き渡った。

雪音はびくりと肩を揺らし、辺りを見回した。音の発生源は、自分たちの周囲ではない。もっと遠く、いや、もっと「高い」場所から聞こえてくるようだった。

ピリリリリ、ピリリリリ。

「……何の音?」

夢果の顔から、さっきまでの穏やかな笑みが完全に消え去っていた。彼女の瞳が、恐怖に怯えるように泳いでいる。

音は、商店街の入り口にある、大型の電気店の壁に取り付けられた屋外ディスプレイから発せられていた。電気は止まっているはずだった。あらゆるインフラは数日前に機能を停止し、その画面もずっと真っ黒なプラスチックの板でしかなかったはずだ。

しかし、今、そのディスプレイが、異常な高電圧をかけられたようにジジジと激しく点滅を始めていた。それだけではない。雪音のポケットの中で、そして夢果のリュックの奥で、二人のスマートフォンが、同時に異常なバイブレーションを開始した。

「強制割り込み……?」

雪音はポケットから端末を取り出した。画面には、見たこともない真っ赤な警告文字が躍っていた。

【EMERGENCY CALL - SYSTEM CODES: OVERRIDE】

そして、次の瞬間、街中のあらゆる電子画面──街頭ビジョン、壊れた車のカーナビ、個人のスマートフォン──が、一斉に同じ映像を映し出し始めた。

それは、地球の地上波放送ではなかった。画面の隅には「TRANSMISSION FROM ARC-01(火星移住船アーク一号基)」の文字が点滅している。宇宙からの、強制的な電波ジャックだった。

画面に映し出されたのは、まばゆいばかりの白い光に包まれた、近未来的なドーム状の空間だった。なめらかな曲線を描く金属の壁、最新鋭のホログラムディスプレイ、そして、そこを行き交う人々。衣服こそ統一された宇宙服のようなものだったが、彼らの顔には、地球に残された者たちが浮かべていたような絶望の影は微塵もなかった。

彼らは笑っていた。シャンパングラスを掲げ、お互いの生存を祝い、地球という重力と滅びの檻から脱出できたことを、心から謳歌しているように見えた。

「あ……」

雪音の口から、乾いた声が漏れた。

画面の奥、きらびやかなパーティー会場の片隅に、見覚えのある二人の男女が映り込んでいたからだ。

仕立ての良いシワ一つない服を着て、上流階級の人間たちと談笑している男と女。父親と、母親だった。彼らは、地球に一人息子を置いてきたことなど、最初から記憶になかったかのように、満面の笑みを浮かべてグラスを傾けている。

胸の奥で、ドス黒いマグマのような感情が、一気に噴き出すのを雪音が感じた。

裏切り。忘却。エゴイズム。彼らは生き残ったのだ。自分たちの未来を、息子の命と引き換えにして、あの冷たくて遠い赤い星で、これからも優雅に生き続けるのだ。

「お父さん……」

隣で、夢果が小さな、絞り出すような声を上げた。

カメラが中央のコントロールエリアへと移動する。そこには、数え切れないほどのモニターに囲まれ、必死にキーボードを叩いている初老の男の姿があった。白髪混じりの髪、神経質そうな眼鏡。それを取り囲むように、軍服を着た男たちや、いかにも権力者といった風貌のスーツ姿の人間たちが、高圧的な態度で命令を下している。

『如月博士! 環境維持システムの出力が安定しないぞ! どうなっている!』

『分かっています! 今、調整を行っています、どうか、どうか私の娘の安否を──』

『黙れ! 娘のことなどどうでもいい、我々の命の方が先だ!』

画面の向こうで、夢果の父親は、権力者たちに怒鳴られながら、惨めに頭を下げていた。彼は娘を救うためにシステムを作ったのではなかった。システムを作るために、娘を人質に取られ、そして最終的には使い捨てられたのだ。それでも彼は、自分の命惜しさに、あるいはシステムを完成させれば娘が救われるという盲信のために、アークに乗り込んだのだろう。

雪音は、夢果の手を強く握った。彼女の手は、今や氷のように冷たくなり、小刻みに震えていた。

「見ろよ……」

雪音の声は、自分でも驚くほど冷酷に響いた。

「あいつら、あんなところで、俺たちを捨てて、幸せそうに笑ってやがる。宇宙の特等席から、俺たちが消えていくのを、見物するつもりなんだ」

親への憎しみ、世界への呪いが、再び雪音の心を支配しようとした。せっかく夢果との時間で癒やされかけていた心が、再びバラバラに引き裂かれるような痛みが走る。

しかし、画面の向こうの「天国」は、そこまで長くは続かなかった。

突如、画面が激しくブレた。

キィィィィン、という、鼓膜を突き刺すような金属的なハウリング音が、街中のスピーカーから一斉に鳴り響く。

ディスプレイの中の白いドームが、大きな地鳴りとともに傾いた。天井の美しい照明が消え、代わりに真っ赤な非常灯が回転を始める。

『何事だ!? 何が起きた!』

画面の中の権力者たちが、優雅な態度をかなぐり捨てて叫び声を上げる。

カメラが大きく揺れ、コントロールルームのメインモニターを映し出した。そこには、火星の赤い大地、その地下から「湧き上がってくる」何かが映っていた。

それは、生物と呼ぶにはあまりにも異形な存在だった。

半透明の、結晶のような構造を持った幾何学的な物体。それが、意思を持っているかのように蠢き、巨大な津波となって、人類が築き上げたばかりの植民地ドームへと押し寄せていた。

テラフォーミング。人類が火星を第二の地球にするために行った、急激な環境改変。その刺激が、火星の地下深くに数億年もの間眠り続けていた、未知の「結晶生命体」を目覚めさせてしまったのだ。

『バカな……火星には生命体など存在しないはずだ!』

『防衛システムを起動しろ! 迎撃だ、迎撃しろ!』

最新鋭のレーザー兵器や、重火器が結晶生命体に向けて一斉に発射される。まばゆい光線が結晶の群れを貫き、いくつかを粉砕した。しかし、それは大海に塩を撒くようなものだった。破壊された結晶は瞬時に周囲の砂を取り込んで自己再生し、さらにその数を増やしてドームの隔壁へと取り付いた。

バリィィィィン!

凄まじい音が、音声回線を通じて地球の街頭ディスプレイに響き渡る。

いかなる衝撃にも耐えられるはずの強化ガラスの隔壁が、結晶生命体の圧倒的な物量と、その身体から発せられる超振動によって、まるで薄氷のようにあっけなく粉砕された。

そこからは、ただの「地獄絵図」だった。

真空の、そして極寒の火星の大気がドーム内へと一気に流れ込む。と同時に、結晶の群れが、逃げ惑う人間たちへと襲いかかった。

結晶は、人間に触れた瞬間にその肉体の水分を奪い、衣服ごと結晶化させていく。美しいドレスを着た大富豪の妻が、叫び声を上げたまま、一瞬にして一本の透明な結晶の彫刻へと変わり、次の瞬間には粉々に砕け散った。

『嫌だ! 私は、私は選ばれた人間だぞ! こんなところで──』

高級なスーツを着た政治家が、自分の部下を突き飛ばして逃げようとしたが、背後から伸びてきた結晶の触手に足を絡め取られ、肉体が足元から急速にガラスのように透き通っていく。彼は狂ったように顔を歪め、自分の手が結晶化していくのを見つめながら、絶叫とともに砕け散った。

カメラが激しく回転し、床に転がる。

そのレンズの先には、雪音の両親の姿があった。

彼らは、先ほどの優雅な笑顔を完全に失い、互いを押しのけ合うようにして非常口へと走っていた。しかし、押し寄せる結晶の波は容赦がない。父親の背中に結晶が突き刺さる。

『おい、助けろ! 貴子、私を置いていくな!』

父親が、母親の服の裾を掴んだ。しかし、母親は恐怖に目を血走らせ、その手を冷酷に振り払った。

『離して! 私は死にたくない! あなたなんか、どうでもいい!』

生き残るために息子を捨てた二人は、最後の瞬間、生き残るために互いを捨てようとしていた。

だが、その醜悪な醜態も、結晶生命体の前には等しく無意味だった。逃げようとした母親の足元が凍りつき、彼女は悲鳴を上げる暇もなく、美しい、けれど歪んだ表情のまま結晶の塊へと変わった。それを見つめていた父親もまた、数秒後には同じ運命を辿り、二人の「選ばれた人間」は、火星の赤い砂の上に、ただの輝くゴミとして散っていった。

コントロールルームも完全に崩壊していた。

天井が崩落し、火花が散る中、夢果の父親は、血まみれになりながらも一本のマイクにしがみついていた。彼の背後には、すでに結晶の群れが迫っている。

『夢果……夢果、聞こえるか……!』

父親の声が、スピーカーの雑音を割って響いた。

『お父さんは、間違っていた……! ここは天国なんかじゃない、ただの墓場だ……! 人間が、足を踏み入れていい場所じゃなかったんだ……!』

結晶の触手が見る見るうちに父親の身体を侵食していく。彼の左腕が、すでに透き通った結晶へと変わりつつあった。

『夢果、ごめん……お前を置いていって、本当に、本当にごめん……! だが、お前が地球に残ったのは、正しかったんだ……お前は、人間のままで、地球と、一緒に……』

そこまで言ったところで、父親の身体は完全に結晶へと変わり、画面は強烈なノイズとともに、完全にブラックアウトした。

街頭ディスプレイが消え、スマートフォンのバイブレーションが止まった。

商店街は、再び元の、不自然なほどの静寂に包まれた。

耳が痛くなるほどの静けさの中で、雪音は自分の荒い呼吸の音だけを聞いていた。

胸の奥を占めていたドス黒い感情が、奇妙な形で行き場を失っていた。怒りも、憎しみも、復讐心も、すべてが虚空に消え去ってしまった。あとに残ったのは、圧倒的な、冷ややかな、そして歪んだ「カタルシス(救い)」だった。

宇宙のどこにも、人間の逃げ場所なんてなかったのだ。

自分たちを捨てて、未来へと逃げ延びたはずの強欲な大人たちは、自分たちが手に入れたはずの「天国」のなかで、誰よりも無残に、誰よりも無意味に、恐怖と絶望のどん底で散っていった。

雪音は、ゆっくりと視線を隣へと移した。

夢果は、両手で顔を覆い、静かに肩を震わせていた。彼女の指の隙間から、大粒の涙がこぼれ落ち、コンクリートの床に小さなシミを作っていく。

「夢果……」

雪音が声をかけると、夢果はゆっくりと顔を上げた。その瞳は赤く腫れていたが、そこには不思議と、絶望の色はなかった。彼女は、涙を流しながらも、どこか哀れむような、そしてすべてを許すような、歪んだ微笑を浮かべていた。

「……宇宙のどこにも、人間の逃げ場所なんてなかったんだね」

夢果の声は、震えていたけれど、どこか澄んでいた。

「うん。みんな公平に、ここで終わりだ」

雪音は答えた。その言葉には、もう親への憎しみは含まれていなかった。ただ、世界が提示した絶対的な「公平さ」に対する、深い納得だけがあった。

金も、権力も、科学の粋を集めた宇宙船も、大自然の、そして宇宙の圧倒的な驚異の前には、何の役にも立たなかった。火星へと逃げた者たちは、自分たちが地球を見捨てたつもりでいたが、実際には、宇宙の一番過酷な場所へと自ら進んで飛び込んでいっただけだったのだ。

それに比べれば、自分たちがいるこの地球はどうだろう。

あと三日で隕石が衝突し、すべてが消え去るという運命は変わらない。けれど、ここにはまだ、吸うことができる大気があり、歩くことができる大地があり、そして何より、お互いの体温を分かち合える「誰か」がいる。

「お父さん、最後に『ごめん』って言ってくれた」

夢果は、自分のリュックからあの特殊なスマートフォンを取り出し、その画面を愛おしそうに撫でた。

「私を裏切ったんじゃなかった。ただ、弱くて、怖くて、間違えちゃっただけなんだね。……それなら、もういいや。私、お父さんのこと、許してあげる」

彼女の言葉を聞いた瞬間、雪音の心の中でも、何かがカチリと音を立てて外れたような気がした。

自分を捨てた両親の、最後の醜い姿。それは決して美しいものではなかった。けれど、彼らもまた、死の恐怖に狂わされた、ただの哀れな人間に過ぎなかったのだ。そう理解したとき、雪音の胸を長年縛り付けていた「見捨てられた」という呪縛が、音を立てて崩れ去っていった。

「誰も、生き残らないんだな」

雪音は空を見上げた。アポカリプスは、もうすぐそこまで迫っている。

「うん。みんな等しく、消えちゃう」

「じゃあ、もう未来のことを心配する必要もないし、過去のことを怒る必要もないな」

「そうだね。私たちには、今、この瞬間しかないの。……ねえ、雪音くん」

夢果が、雪音の目をまっすぐに見つめてきた。その瞳の奥には、もう涙の跡はなく、ただ純粋な、きらきらとした光だけが宿っていた。

「最高のデートをしようよ」

「デート?」

「うん。誰もいない世界で、誰も生き残らない世界で、私たちだけの、一番贅沢な時間を過ごすの。未来なんていらない。過去もいらない。今、生きている実感だけを、二人でいっぱいにしよう?」

夢果の提案に、雪音は生まれて初めて、心の底からの笑みを浮かべた。

「いいな、それ。何から始める?」

「まずは、あそこにある、かっこいい車に乗ってみたい!」

夢果が指差したのは、商店街の出口付近に放置されている、真っ赤な最高級のスポーツカーだった。持ち主はとうに逃げ出したのか、あるいはもうこの世にいないのか、運転席のドアは半開きになっており、鍵がダッシュボードの上に置かれたままになっていた。

「運転、できる?」

夢果が首を傾げて訊ねた。

「免許はないけど、誰もいない道路だ。ぶつける相手もいない。……乗ってみるか」

雪音はスポーツカーに近づき、運転席に乗り込んだ。夢果も助手席に滑り込み、嬉しそうにシートの革の感触を確かめている。

鍵を回すと、 V8 エンジンが、猛獣の咆哮のような太い重低音を響かせて目覚めた。その振動が、二人の身体を心地よく揺らす。

「出発進行!」

夢果が拳を突き上げた。

雪音はアクセルを踏み込んだ。誰もいない、信号も機能していない真っ赤な街の中を、最高級のスポーツカーが、風を切り裂いて走り出す。

火星に逃げ延びた強欲な者たちが、恐怖と絶望の中で無残に散っていったのとは対照的に、地球に残された二人の心は、今、かつてないほどの自由と幸福感で満たされようとしていた。世界が終わるその瞬間まで、あと三日。二人の本当の「生」の時間が、ここから始まろうとしていた。


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