第一章:静寂のディストピアと、屋上の引力
空の底が、うっすらと赤く澱んでいる。それが、この星の寿命があと十日しかないことの、唯一の証明だった。
巨大隕石アポカリプスの衝突が公表された当初、この街は血と炎の地獄と化した。暴動、略奪、狂信的な集団自殺、叫び、罵声。あらゆる秩序は砂の城のように崩れ去り、人間たちの醜悪な本能が剥き出しになって街を埋め尽くした。けれど、それも一週間前の話だ。騒ぎ立てる気力すら失った者たちは、それぞれの家で静かに引きこもり、神への祈りも諦めた。あるいは、もうこの街には誰も残っていないのかもしれない。暴風が過ぎ去った後のように不自然な静寂が、アスファルトの上に冷たく降り積もっていた。
橘雪音は、無人の交差点の真ん中で足を止め、乾いた息を吐き出した。コンビニの自動ドアは破壊され、粉々になったガラスが傾きかけた陽光を浴びて無駄に美しくきらめいている。道路には、持ち主を失った高級車が何台も衝突したまま放置され、電柱からは切れた電線が生き物の死骸のように力なく垂れ下がっていた。雪音は、ポケットに両手を突っ込んだまま、目的もなく歩き続ける。彼には、逃げる場所も、帰るべき家もなかった。
実家のリビングのテーブルには、今も一枚のメモ用紙が置かれているはずだ。
『雪音、ごめんなさい。私たちは、どうしても生きたいの』
その一言と、数枚の千円札。それが、血の繋がった両親が雪音に残したすべてだった。父親は中堅IT企業の役員で、母親はプライドの高い人間だった。彼らは地球が見捨てられると知るや否や、家も、土地も、雪音の将来のために貯めていた学資保険も、すべてを現金化して貪欲に動き回った。そして、人類の選ばれたエリートだけが乗れるという「火星移移住船アーク」のチケットを、手に入れたのだ。ただし、手に入ったのは二枚だけだった。
三色のパイを切り分けるように、両親は迷うことなく、一人息子の雪音を切り捨てた。あなたはもう十八歳なんだから、一人で生きていけるわよね。母親のあの時の、引きつった、けれど必死に自己正当化しようとしていた歪んだ笑顔を、雪音は一生忘れないだろう。もっとも、その一生もあと十日で終わるわけだが。世界に対しても、自分を裏切った親に対しても、雪音の心は完全に凍りついていた。悲しみはとうに通り過ぎ、残ったのは底なしの虚無感だけだ。自分が生きているのか死んでいるのかすら分からない。ただ、心臓が惰性で脈打っているから、足を前に進めている。それだけの存在だった。
気がつくと、雪音は自分が通っていた高校の前に立っていた。校門は固く閉ざされていたが、脇のフェンスはとうに破られている。普段なら喧騒に包まれているはずの校庭には、ちぎれた教科書やプリントの山が、まるで季節外れの雪のように散らばっていた。雪音は誘われるように、校舎の中へと足を踏み入れた。
薄暗い校舎内は、ひんやりとした死臭のような空気が満ちていた。誰もいない教室、機能停止した自動販売機、主を失った靴箱。雪音は一段ずつ、重い足取りで階段を上っていく。最上階に達し、さらにその先にある屋上への鉄扉を押した。普段は厳重に施錠されているはずの扉は、誰かがこじ開けたのか、信じられないほどあっけなく開いた。ギィィ、と錆びた音が響き、目の前が急に開ける。頬を撫げたのは、少し湿り気を帯びた初夏の風だった。
あ、と思わず、声が漏れた。誰もいないと思っていたその場所に、先客がいた。
コンクリートの照り返しの中、立ち並ぶフェンスの向こう側、つまり、安全な内側ではなく、一歩間違えれば数十メートル下に真っ逆さまに落ちる外側の縁に、一人の少女が立っていた。風に揺れる、長い黒髪。身にまとっているのは、この学校の制服だった。彼女は細い両腕を翼のように左右に広げ、目を閉じて、滅びゆく街の景色を全身で浴びるように立っている。
おい、と雪音の身体が、思考よりも先に動いていた。自殺志願者。この終末の世界では、珍しくもない存在だ。首を吊った死体なら、ここに来るまでに嫌というほど見てきた。だが、目の前で今まさに飛び降りようとしている少女を無視できるほど、雪音はまだ完全な狂人にはなりきれていなかった。雪音は足音を荒げ、彼女の背後に駆け寄った。
「待て! 何をしてるんだ、そこから降りろ!」
少女の肩がぴくりと跳ねた。彼女はゆっくりと首を傾げ、振り返る。その顔を見た瞬間、雪音は息を呑んだ。息を呑むほど整った顔立ちだったからではない。その瞳に、死を目前にした人間の悲壮感や狂気が、微塵も存在しなかったからだ。
「……え?」
少女は丸い目をさらに丸くして、不思議そうに雪音を見つめた。
そして、ふわりと、あまりにも無邪気な笑みを浮かべた。
「あはは、驚かせてごめんね。でも、自殺しようとしてるわけじゃないよ?」
「嘘を言うな。そんな場所に立っていて、説得力があるか」
「本当だってば。ここ、風がすごく気持ちいいんだもん。世界が終わる前の風の匂いを、一番特等席で感じてみたかっただけ」
彼女はそう言うと、鳥のような軽やかさでフェンスをひらりと飛び越え、雪音のいる安全な内側へと着地した。ローファーがコンクリートを叩く、小気味いい音が響く。
「ほらね、この通り」
少女は悪戯が成功した子供のように微笑み、スカートの砂を払った。雪音は呆然と彼女を見つめるしかなかった。世界が滅びるというのに、この少女の周りだけ、まるで時間の流れが違っているかのように穏やかだった。
「君、橘雪音くんでしょ? 3組の」
「……なんで、俺の名前を知ってるんだ」
「有名だよ。いつも窓の外を死んだ魚みたいな目で見てる、冷めた男の子だって。私は2組の、如月夢果。よろしくね」
夢果はそう言って、細い右手を差し出してきた。雪音は戸惑いながらも、その手を見つめ、結局は握り返さずにポケットに手を戻した。
「よろしくするような時間は、もう残ってないだろ。あと十日で、全部消えるんだから」
「そうだね」
夢果は拒絶されても気分を害した様子もなく、差し出した手を引っ込めると、今度はフェンスに背中を預けて空を見上げた。
「あと十日。神様がくれた、長すぎるカウントダウン。みんな狂っちゃったのに、君は狂わないんだね」
「狂うエネルギーすらないだけだ」
雪音は自嘲気味に吐き捨て、その場に胡坐をかいて座り込んだ。
「親に捨てられたんだ。全財産はたいて買った火星移住船のチケットを持って、あの二人、俺を置いてさっさと旅立ちやがった。世界にも、親にも、自分にも……もう何も期待してない」
普段なら、こんな初対面の女子に話すような内容ではなかった。だが、どうせ終わる世界だ。何を言っても、誰にどう思われても、明日には何の意味も持たなくなる。しかし、雪音の告白を聞いた夢果は、同情するわけでも、哀れむわけでもなかった。ただ、どこか遠くを見るような目で、小さく呟いた。
「……あはは、そっか。一緒だ」
「一緒?」
雪音が眉をひそめて聞き返すと、夢果は自らの胸にそっと手を当てた。
「私の父親ね、科学者なの。火星移住船アークの、環境維持システムの基本設計をした天才。……でね、そのお父さんも、私を置いて火星に行っちゃった」
風が、ゴオォと音を立てて二人の間を吹き抜けた。雪音は、夢果の顔を凝視した。彼女の表情は笑っていたが、その瞳の奥には、自分と全く同じ、深く暗い傷が刻まれているのが見えた。
「天才科学者の娘なら、優先的に乗せてもらえるんじゃないのか?」
「普通ならね。でもね、お父さんはチケットを奪われたの。正確に言えば、もっと偉い特権階級の政治家とか、大富豪たちに、人質を取られるみたいにしてシステムだけ完成させられて、最後の最後に『娘の分はない』って言われたんだって。お父さんは泣きながら私に謝ったわ。でも、結局はお父さんも、自分の命が惜しかったのね。私を地球に残したまま、アークの乗務員として宇宙へ行っちゃった。私を裏切って、一人だけで生き残る道を選んだの」
「……そうか」
雪音はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。自分と同じだった。いや、身内のエゴだけで捨てられた自分よりも、世界のシステムそのものに裏切られた彼女の絶望の方が、より深いのかもしれない。二人はしばらくの間、無言で赤く染まりゆく空を眺めていた。
街のあちこちから、時折、遠吠えのようなサイレンの音が響いては消えていく。世界は確実に死に向かっているのに、この屋上という空間だけは、まるで時間の止まったエアポケットのようだった。
「ねえ、雪音くん」
夢果が、しゃがみ込んでいる雪音の顔を覗き込んできた。
「どうせあと十日で死ぬならさ、寂しいままで終わるのはもったいないよ」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「一緒にいようよ。私と君、同じ『地球の居残り組』同士。残された時間を、二人で分け合おう?」
彼女の提案は、あまりにも唐突で、そしてあまりにも魅力的だった。誰もいない世界で、たった一人で恐怖と虚無に押しつぶされるのを待つだけの日々。それに比べれば、目の前の、少し不思議で、自分と同じ痛みを抱えた少女と過ごす時間は、悪くない選択肢のように思えた。
「……俺といても、退屈するだけだぞ」
雪音がそっぽを向いて言うと、夢果は嬉そうに、今日一番の笑顔を咲かせた。
「いいよ、退屈万歳。世界最後の退屈を、二人で楽しもう」
こうして、世界の終わりまであと十日という節目に、見捨てられた二人の、奇妙で静かな共同生活が始まった。
校舎を下り、どちらからともなく並んで歩き出す。街は相変わらず死に絶えたように静かだったが、長い影が二つ、アスファルトの上を等間隔で伸びているのを見るだけで、雪音の胸の奥の、冷たく尖った塊が少しだけ丸くなるような気がした。
「ねえ、雪音くんのお家はどこ?」
夢果が、壊れた信号機を見上げながら訊ねた。
「ここから歩いて十五分くらい。誰もいないよ」
「じゃあ、そこに私の荷物も運んじゃっていい? 自分の家に一人でいるの、さすがにちょっと飽きちゃって。誰も喋る相手がいない部屋って、家具がみんな私のことを見張ってるみたいで落ち着かないんだよね」
「好きにすれば。どうせ余っている部屋ならある」
「決まり。じゃあ、私の家に行って荷物を取ってこよう」
夢果の案内でたどり着いたのは、街の少し小高い丘の上にある、白い壁の立派な一軒家だった。庭には手入れの行き届いた薔薇のアーチがあったが、今は手入れをする主を失い、夏の始まりの強い陽射しの中で、少しだけ萎れかけている。
「お父さんがいなくなってから、電気もガスも止まっちゃってさ。水だけはまだ細々と出るんだけど、それもいつまで持つか」
夢果は慣れた手つきで鍵を開け、雪音を中へと招き入れた。玄関には、父親のものらしき革靴が無造作に転がっている。急いで家を出た、その慌ただしさの痕跡がそこにあった。
夢果が二階の自分の部屋から持ってきたのは、小さなリュックサック一つだけだった。
「それだけ?」
雪音が訊ねると、夢果はリュックを軽く叩いて笑った。
「うん。着替えと、お気に入りの本と、あとはこれだけ」
彼女がポケットから取り出したのは、少し風変わりな、厚みのあるスマートフォンだった。背面には幾つもの細い配線のような模様が施されており、市販のものとは明らかに異なっている。
「それ、スマホ?」
「お父さんの形見。……まあ、まだ生きて宇宙を飛んでるんだろうから、形見って言うのは変だけどね。非合法の、特別なプログラムが入ってるんだって。詳しいことは教えてくれなかったけど、最後の最後に『これを持っていけ』って、私に握らせてくれたの」
夢果はその端末を愛おしそうに見つめた後、すぐにリュックの奥へとしまい込んだ。
二人は夢果の家を後にし、再び静まり返った街を歩いて雪音の家へと向かった。途中のスーパーマーケットの入り口には、ガラスを破られた形跡があったが、奥の棚にはまだいくつかの缶詰やペットボトルの水が残されていた。人間たちが争って奪い合った後の、残飯のようなものだ。雪音は無言でリュックサックにそれらを詰め込んだ。お金を払う必要は、もうどこにもない。経済という概念は、アークが地球を離陸した瞬間に消滅していた。
雪音の家は、絵に描いたような一般的な建売住宅だった。リビングに入ると、数日前と何も変わらない景色がそこにあった。ただ、生活の匂いだけが完全に消え去っている。
「お邪魔します」
夢果は、誰もいない空間に向かって小さく声をかけ、それからリビングのソファに腰を下ろした。
「ふう、結構歩いたね。でも、誰かと一緒に歩くのって、それだけで少し足が軽くなるから不思議」
「そうか」
雪音は台所へ行き、持ってきたペットボトルの水をコップに注いで夢果に差し出した。
「ありがと」
夢果は嬉しそうにコップを受け取り、喉を鳴らして水を飲んだ。その喉の細さや、白い肌に浮かぶ青い血管を見ていると、彼女もまた、自分と同じようにいつかは消えてしまう、ただの脆い人間なのだという実感が湧いてくる。
その日の夜、二人はリビングの床に座り込み、冷たい缶詰のコーンとパイナップルを分け合って食べた。電気は通っていなかったが、夕暮れの残光が部屋を赤く染め上げ、それが終わると、今度は窓の外から不気味なほど明るい光が差し込んできた。
空を見上げると、夜だというのに星が見えなかった。代わりに、巨大な、禍々しいほどに赤いアポカリプスが、夜空の三分の一を占拠するように居座っている。その表面には、複雑な模様のような凹凸が見え、それがゆっくりと地球に近づいていることが、肉眼でもはっきりと分かった。
「ねえ、雪音くん」
夢果が窓辺に寄り添い、赤い光に照らされながら言った。
「あの星、綺麗だね。まるで大きな、熟しすぎた果物みたい」
「綺麗、か。あれが落ちてきたら、俺たちの身体なんて一瞬で蒸発して、影も残らないんだぞ」
「知ってる。でも、だからこそ綺麗なんだよ。だって、不公平がないじゃない。大富豪も、偉い政治家も、私たちみたいな居残り組も、地球にいる限りはみんな等しく、一瞬で終わりを迎える。私、あの星が発表されたとき、ちょっとだけホッとしたんだ」
「ホッとした?」
「うん。だって、私だけがダメになるんじゃないんだもん。世界が、私と一緒に終わってくれる。それって、究極の優しさだと思わない?」
夢果の言葉には、狂気ではなく、純粋な諦念と、どこか幼い全能感が混ざり合っていた。
雪音は彼女の横顔を見つめながら、自分が抱いていた心の冷たさの正体を教えられたような気がした。自分もまた、世界が滅びることにどこかで救いを感じていたのだ。親への復讐でもなく、社会への呪いでもない。ただ、誰もが自分と同じように何も持たずに消えるという、その絶対的な公平さに、安堵していたのだ。
「……お前、変わってるな」
「そうかな? 自分では普通だと思うんだけど」
夢果はくすくすと笑い、それから床に寝転がった。
「明日からは、何をしよっか。時間はたっぷりあるよ。あと九日もあるんだから」
「何もしないよ。ただ、こうして朝が来るのを待つだけだ」
「それもいいね。じゃあ、世界で一番贅沢な、何もしない日々を始めよう」
それからの数日間は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
地球の崩壊を前にしているとは到底思えないほど、二人の時間は静かで、満ち足りていた。
朝起きると、差し込む赤い光の中で、どちらからともなくおはようと言い合う。朝食は、昨日拾ってきた缶詰や、賞味期限の切れたスナック菓子。胃袋を満たすためだけの食事だったが、二人で半分ずつに分けると、なぜか少しだけ味がするような気がした。
日中は、誰もいない街を散歩した。
ある日は、駅前の大きな図書館へ行った。自動ドアを無理やりこじ開けて中に入ると、本棚から落ちた無数の書籍が床を埋め尽くしていた。夢果はその中から、一冊の古い詩集を見つけ出し、静まり返った閲覧室で、雪音に向けて声を出して読み上げた。
「『世界がどのように終わるか、それは一斉の爆音ではなく、ただひとつの、すすり泣きのように』……だって。でも、今の私たちはすすり泣いてもいないね」
「ああ。笑ってもいないけどな」
雪音は窓の外の、赤く焼けた空を見つめながら答えた。
またある日は、地元の小さな遊園地へと足を延ばした。もちろん、アトラクションはすべて止まっていたが、二人は動かない観覧車のゴンドラの中に乗り込み、狭い空間の中で膝を突き合わせて座った。
「ねえ、雪音くん。もし世界が終わらなかったら、将来何になりたかった?」
夢果が、ゴンドラの窓に額を押し付けながら訊ねた。
「さあな。考えたこともない。親の言う通りに大学に行って、適当な会社に入って、適当に生きていくんだと思ってた。お前は?」
「私はね、お花屋さん。ひまわりだけをたくさん並べた、小さなお店を開きたかったの。ひまわりって、ずっと太陽の方を向いてるでしょ? ああいう、迷いのない生き方に憧れてたんだ」
夢果はそう言うと、誰もいない園内を見下ろし、小さく溜息をついた。
「でも、お花屋さんにならなくてよかったかも。だって、お花はいつか枯れちゃうし、枯れるのを見るのは悲しいもんね。世界が丸ごと枯れるなら、悲しむ暇もないよ」
彼女の言葉は、いつもどこか後ろ向きで、けれど不思議なほど優しかった。雪音は、彼女のそんな言葉を聞くたびに、自分の心の輪郭が少しずつ、世界の方へと開かれていくのを感じていた。親に捨てられたという事実が、もうそれほど重要ではないように思えてくる。なぜなら、今の彼には、目の前で同じ制服を着て、同じ赤い光を浴びている如月夢果という少女がいるからだ。
衝突まで、あと五日。
その日の夕方、街の様子に明らかな変化が現れ始めた。
大気が少しずつ摩擦で熱を帯び始めているのか、生暖かい風が、絶え間なく街を吹き抜けるようになった。遠くの空では、時折、大気圏に突入したアポカリプスの破片が、流れ星のように激しい光を放って燃え尽きていくのが見える。
世界の終わりの足音が、確実に大きくなっていた。
「ねえ、雪音くん。ちょっと、手を繋いでもいい?」
夕暮れの帰り道、夢果が歩きながら、小さな声で言った。
雪音は何も言わず、ポケットから右手を出した。夢果の手は、驚くほど冷たかった。まるで、体温という名の時間が、彼女の中から少しずつ逃げ出しているかのように。けれど、二人の指が絡み合うと、その隙間から、確かに生きてここにいるという、微かな拍動が伝わってきた。
「あったかいね」
夢果は嬉しそうに呟き、繋いだ手を小さく振った。
「俺の手が、か?」
「うん。雪音くんの手。すごく安心する。私ね、お父さんに置いていかれた夜、部屋の隅でずっと震えてたの。世界中で、私だけが取り残されて、透明なガラスの箱の中に閉じ込められちゃったみたいでさ。でも、今はちゃんと、ここにいるって思えるよ」
雪音は、彼女の手を少しだけ強く握り返した。
「俺もだよ」
それは、偽りのない本心だった。世界が滅びるという絶望の淵で、彼は生まれて初めて、他者と本当の意味で繋がれる喜びを知ったのだ。もし、この世界が平和なまま続いていたら、自分たちはクラスの片隅ですれ違うだけの、赤の他人のままだったかもしれない。そう思うと、世界の終わりという狂った舞台装置すらも、二人の出会いのために用意された奇跡のように思えてくるから不思議だった。
二人は雪音の家に戻り、リビングのソファに並んで座った。窓の外の空は、もう完全な赤紫色に変色していた。アポカリプスは夜空の半分を覆い尽くし、その圧倒的な質量が、地球の重力を狂わせ始めているかのように、部屋のカーテンが時折、風もないのに不自然に浮き上がった。
「あと、どれくらいかな」
夢果が、雪音の肩に頭を預けながら呟いた。
「予定通りなら、あと三日だ。……怖くないか?」
「うーん、少しだけ怖いかな。でも、それよりも、雪音くんと離れるのが一番怖い。もし死んだ後、魂っていうのがあるなら、また別の星で会えるかな?」
「さあな。でも、もしそんな場所があるなら、俺がお前を探しに行くよ。お花屋さんの看板を目印にな」
「あはは、約束ね」
夢果は嬉しそうに笑い、それからリュックサックから、あの父親の形見だというスマホを取り出した。画面には、複雑な幾何学模様のグラフが、不気味に明滅している。
「これね、お父さんが最後に言ってたの。もし、どうしても耐えられないほどの恐怖が来たら、この画面のボタンを押しなさいって。そうすれば、苦しまずに済むからって。……でも、私はまだ押さない。だって、雪音くんと一緒にいる現実の時間が、まだこんなに残ってるんだもん。一秒だって、無駄にしたくないよ」
彼女はスマホを愛おしそうに胸に抱きしめ、それからそっと目を閉じた。
雪音は、彼女の規則正しい寝息を聞きながら、静かに彼女の髪を撫で続けた。外からは、ゴトゴトと地鳴りのような低い音が、絶え間なく響いてきている。世界は確実に、終わろうとしていた。けれど、この小さなリビングの中にだけは、宇宙のどんな場所よりも静かで、穏やかな時間が流れていた。見捨てられた二人の、誰にも邪魔されない、最後の数日間。それはまるで、長い長い夢の始まりのように、どこまでも優しく、二人の心を満たしていくのだった。




