第三章:世界最後の恋、あるいは贅沢な逃避行
真っ赤なスポーツカーは、エンジンを咆哮させながら無人のバイパスを疾走していた。
時速はとうに百キロを超えている。普段なら一発で免許取り消しになるような速度だが、スピードメーターの針がどれだけ右に振れようと、それを咎める警察官も、並走する他車も存在しない。世界の終わりまであと二日。すべての法律は、アスファルトの上に転がる乾いたゴミ屑と同じだった。
「すごーい! 早い、早いよ雪音くん!」
助手席の夢果が、窓を開けて歓声を上げていた。風圧で彼女の長い黒髪が激しく後ろへと引きちぎられ、白い頬が真っ赤な夕陽に変色していく。空の半分を占拠する隕石アポカリプスは、もはや模様の一つ一つが不気味なほど鮮明に見え、その圧倒的な質量が上空から二人の車を押し潰そうとしているかのようだった。しかし、今の二人にそれを恐れる気配はなかった。
昨日、火星からの絶叫を見た。自分たちを切り捨てて「天国」へ行ったはずの大人たちが、未知の結晶生命体に襲われ、恐怖のなかで等しく無残に砕け散る様を特等席で目撃した。
宇宙のどこにも、人間の逃げ場所なんてなかった。
その絶対的な「公平さ」が確定した瞬間、二人の心を縛り付けていたすべての呪縛が消え去った。未来への不安も、過去の憎しみも、生き残らなければならないという義務感も。すべてが消滅した後に残ったのは、狂おしいほどの自由だった。
「夢果、窓を閉めろ! 灰が目に入るぞ!」
雪音はハンドルをしっかりと握り締めながら叫んだ。大気圏の摩擦が始まっているのか、生暖かい風とともに、ガラスの微粒子のような細かい灰が雪のように宙を舞っている。
夢果は「はーい!」と素直に窓を締め切ると、シートに深く身体を沈めてくすくすと笑った。
「ねえ、雪音くん。私たち、いま世界で一番贅沢な引きこもりだね」
「引きこもり? 暴走の間違いだろ」
「だって、世界中の誰もが怖がって家でお布団を被っているのに、私たちはこんなにかっこいい車で、誰もいない世界をドライブしてるんだもん。これ以上の贅沢ってないよ」
雪音がアクセルをさらに踏み込むと、車は弾かれたように加速し、巨大なショッピングモールの駐車場へと滑り込んだ。かつては数千台の車で埋め尽くされていたであろう広大なコンクリートの広場には、持ち主に見捨てられた数台のファミリーカーが、幽霊船のようにぽつんと佇んでいるだけだった。
車を止め、エンジンを切ると、車内に突然の静寂が訪れた。遠くでゴゴゴ……と響く地鳴りだけが、この世界の心音のように低く鳴り響いている。
「さあ、着いたよ。人類最後のショッピングモールだ」
雪音がドアを開けると、生温い空気が肌を刺した。二人は並んで、ガラスの自動ドアが完全に破壊された正面入り口から中へと足を踏み入れた。
建物の中は、不気味なほどに静まり返っていた。吹き抜けの天井から差し込む赤い光が、無人のエスカレーターや、商品が散乱したテナントの床を不気味に照らし出している。暴動の痕跡は生々しく、衣服や靴、ジュエリーのケースが叩き割られ、かつて人間たちが欲望のままに争った残骸がそこかしこに転がっていた。けれど、今はもう、その欲望の主たちすらここにはいない。
「誰もいないショッピングモールって、なんだか神殿みたい」
夢果のローファーの音が、広い館内にコツン、コツンと不自然なほど大きく反響する。彼女は壊れたショーウインドウを覗き込みながら、まるで宝探しをする子供のように目を輝かせていた。
「ねえ、雪音くん。せっかくのデートなんだから、私、もっと可愛いお洋服が着たいな。この制服、もう何日も着っぱなしだし、世界が終わる瞬間に学校の制服なんて、ちょっと味気ないでしょ?」
「そうだな。好きなものを選べばいい。レジには誰もいないんだから」
二人は一階の高級ブティックへと向かった。普段なら、高校生の自分たちが足を踏み入れることすら躊躇われるような、世界的なハイブランドの店だ。床には大理石が敷き詰められ、壁には洗練されたデザインのドレスが並んでいる。いくつかの棚は荒らされていたが、奥のハンガーには、息を呑むほど美しい真っ白なイブニングドレスがそのまま残されていた。シルクの生地が、赤い光を浴びて妖しく艶めいている。
「わあ……」
夢果がそのドレスの前に立ち、そっと手を触れた。
「これ、すごく綺麗。私、こういうドレス、おとぎ話の中でしか見たことなかった」
「着てみろよ。試着室も使い放題だ」
「うん! じゃあ、ちょっと待っててね」
夢果はドレスを抱き抱えるようにして、店の奥の試着室へと消えていった。
雪音は一人、店内の高級なソファに腰掛け、自分の手のひらを見つめた。数日前まで、自分の手は凍りついていた。何も掴めず、誰も愛せず、ただ死を待つだけの冷たい塊だった。それが今、夢果の手の温もりを知り、こんな世界の終わりの悪ふざけのようなデートに胸を躍らせている。世界が滅びるというのに、自分の人生の中で今が一番「生きている」と感じられるのは、ひどい皮肉だった。けれど、その皮肉が心地よかった。
「──雪音くん、お待たせ」
試着室のカーテンが静かに開いた。
雪音は思わず、呼吸をするのを忘れた。
そこに立っていたのは、いつもの女子高生の夢果ではなかった。
純白のシルクドレスに身を包んだ彼女は、まるで崩壊しゆく世界に舞い降りた一輪の百合の花のようだった。細い肩としなやかな鎖骨が、赤い光の中で陶器のように白く浮かび上がっている。長い黒髪は無造作に肩に流され、ドレスの裾が彼女の動きに合わせて静かに揺れていた。
「どう、かな……? 変じゃない?」
夢果は少し恥ずかしそうに、ドレスの裾を小さくつまんで見せた。その表情は、あまりにも無防備で、狂おしいほどに綺麗だった。
「変じゃない。……すごく、綺麗だ」
雪音の本音の言葉に、夢果は頬を薔薇色に染めて、嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。じゃあ、次は雪音くんの番ね!」
「え、俺も?」
「当然じゃない! 女の子だけドレスアップして、男の子が普段着なんて許されません。ほら、あっちに紳士服のコーナーがあるよ。かっこいいタキシード、選んであげる」
夢果に腕を引かれ、雪音もまた、店の反対側にある最高級のタキシードを着用することになった。仕立ての良い黒いジャケットに袖を通し、鏡の前に立つ。自分の姿ではないようだったが、隣に立つ純白の夢果と並ぶと、不思議としっくりときた。
二人はまるで、これから世界で最も盛大なパーティーに出席する新郎新婦のようだった。出席者は二人だけ、そして会場は滅びゆく地球そのものだ。
「完璧! すごくかっこいいよ、雪音くん」
夢果は満足そうに何度も頷くと、雪音の腕に自分の手をそっと絡ませた。
「ねえ、音楽を鳴らそうよ」
夢果の提案で、二人はショッピングモールの中央にある広場へと移動した。そこには、ディスプレイ用の高級なグランドピアノがポツンと置かれていた。もちろん、館内の放送システムは死んでいる。けれど、夢果は自分のリュックからあの特殊なスマートフォンを取り出すと、ピアノの譜面台の上に置いた。
彼女が画面を数回タップすると、スマートフォンの小さなスピーカーから、信じられないほどクリアで重厚なクラシックの旋律が流れ始めた。ショパンの『夜想曲』だった。繊細で、どこか物悲しいピアノの音が、無人のショッピングモールの高い天井に響き渡り、静寂の空間を優しく満たしていく。
「さあ、踊りましょう、橘雪音さま」
夢果はドレスの裾を優雅に翻し、雪音の前に立って右手を差し出した。
「ダンスなんて、学校のフォークダンスくらいしか踊ったことないぞ」
「いいの。誰も見てないんだから、ステップなんてデタラメで大丈夫。大切なのは、今、私たちが一緒にいること」
雪音は苦笑しながらも、彼女の手を取った。もう片方の手を彼女の細い腰に添える。驚くほど軽くて、折れてしまいそうなほど華奢な身体だった。けれど、その奥からは、トントン、トントンと、彼女の確かな命の鼓動が伝わってきている。
ショパンの調べに合わせて、二人はゆっくりと歩を進めた。
大理石の床の上を、黒い革靴と、夢果が新しく選んだ白いパンプスが滑る。
ステップは確かにデタラメだった。途中で夢果がドレスの裾を踏みそうになっておっとっと、と雪音の胸に飛び込んできたり、雪音が足をもつれさせて二人で顔を見合わせて笑ったりした。
誰もいない広場で、赤い光を浴びながら、タキシードとドレス姿の高校生が踊っている。その姿は、客観的に見ればひどく滑稽で、そして世界の終わりの狂気そのものに見えたかもしれない。けれど、二人の心には、純粋な歓喜だけが満ちていた。
「楽しいね、雪音くん」
夢果が、雪音の胸に顔を寄せながら囁いた。
「ああ、楽しい。生まれて初めて、こんなに楽しいと思ってる」
「私も。お父さんと離れてから、ずっと胸の奥が冷たかった。でも、いまは雪音くんの体温が、ドレスを通して伝わってきて、すごく熱いよ。世界が終わるって、こんなに素敵なことだったんだね」
その言葉は、絶望の裏返しだった。もし世界が終わらなければ、彼女は父親に捨てられた傷を抱えたまま、この先の長い人生を孤独に生き続けなければならなかった。雪音もまた、親への憎しみに心を腐らせながら、灰色の日常を這い回るだけだっただろう。世界が滅びるという絶対的な破滅が、皮肉にも二人に「完璧な愛」と「生きている実感」を。もたらしたのだ。
音楽が静かに終わりを迎える。二人は動きを止め、そのままの姿勢でじっと抱き合い続けた。館内を揺らす地鳴りが、少しずつ大きくなっているのが分かった。アポカリプスの地球への距離は、もう秒単位で縮まっている。
「お腹、空かない?」
しばらくして、夢果が顔を上げてお茶目に笑った。
「そうだな。せっかくドレスアップしたんだ、最高に豪奢なディナーにしよう」
二人はショッピングモールの最上階にある、普段なら絶対に手が届かないような超高級レストランへと向かった。全面ガラス張りの窓からは、赤く焼けた街の全景が一望できる、まさに特等席のレストランだった。
厨房に人の気配はなかったが、貯蔵庫には賞味期限の長い最高級の缶詰や、キャビア、フォアグラの瓶詰め、そして何十年も熟成されたロマネ・コンティなどの最高級ワインが、手付かずのまま残されていた。
雪音は棚からそれらを引き出し、レストランの最も見晴らしの良い窓際の席へと運んだ。テーブルには白いクロスを敷き、銀の食器を並べ、ガラスのキャンドルスタンドに火を灯した。ライターの火が、暗くなりかけた店内に小さな、けれど温かい光の輪を作る。
「ワイン、飲んでみる?」
雪音の問いに、夢果は悪戯っぽく微笑んだ。
「未成年だけど、もう誰も怒る人はいないもんね。ちょっとだけ、味見してみたい」
雪音は厳重に封印されたワインのコルクを抜き、クリスタルグラスに注いだ。深いルビー色の液体が、キャンドルの光を浴びて怪しく輝く。二人はグラスを掲げ、静かに目を合わせた。
「私たちの、幸福な居残りに」
「アークのあいつらの、無惨な終焉に」
カチン、と澄んだ音が響き、二人は同時にグラスを傾けた。
初めて飲む高級ワインは、驚くほど渋くて、そして深みがあった。喉を通り抜ける瞬間に、芳醇なブドウの香りが鼻を抜け、胃の奥がじんわりと熱くなる。
「苦い……けど、なんだか大人の味がする」
夢果は顔をしかめながらも、嬉しそうに何度もグラスを見つめた。
二人はキャビアをクラッカーに乗せ、フォアグラの缶詰を分け合いながら、贅沢極まりないディナーを楽しんだ。窓の外の空は、時間が経つにつれて紫色から深い漆黒へと変わりつつあったが、星は見えない。代わりに、アポカリプスの表面が、地球の大気と擦れ合って鈍い赤色の光を放ち、まるで巨大な怪物の目がこちらを凝視しているかのように空に居座っていた。
「ねえ、雪音くん」
夢果が、ワインで少し赤くなった顔をテーブルに伏せながら言った。
「私、お父さんのこと、許したって言ったけど……やっぱり、ちょっとだけ寂しかったんだ。なんで私じゃなくて、火星を選んじゃったのかなって。私のこと、愛してなかったのかなって」
キャンドルの炎が揺れ、彼女の瞳に小さな光を反射させる。
「でもね、今日こうして雪音くんと出会えて、一緒にドレスを着て、ダンスを踊って、美味しいご飯を食べて……分かったの。お父さんが私を火星に連れて行かなかったのは、私をあんな地獄に行かせたくなかったからなんだって。地球で、最後に一番大好きな人と、人間に戻って死んでほしかったんだって。……お父さん、私のこと、ちゃんと愛してくれてたんだよ」
それは、彼女が自分で導き出した、最も美しい「解釈」だった。真実がどうであれ、彼女の心の中で、父親の裏切りは「不器用な愛」へと昇華されたのだ。
「俺の親は、ただの自己保身だったよ」
雪音は自嘲気味に笑いながら、自分のグラスを弄んだ。
「最後の最後まで、お互いを突き飛ばして逃げようとしてた。あんなに醜い生き物だとは思わなかった。……でもさ、それを見て、なんだか全部どうでもよくなったんだ。あんなに必死に、醜く醜態をさらしてまで生きたいと願った奴らが一瞬で死んで、俺たちはこうして、世界で一番綺麗に、静かに笑っていられる。それだけで、俺の勝ちだって思えるんだ」
「うん。私たちの勝ちだよ、雪音くん」
夢果はテーブル越しに手を伸ばし、雪音の手を包み込んだ。
「あんな強欲な人たちが手に入れられなかった、宇宙で一番贅沢な時間を、今、私たち二人だけで独占してるんだもん。世界で一番幸せなのは、間違いなく私たちだよ」
二人はそれから、夜が更けるまで語り合った。
子供の頃の思い出、好きだった学校の行事、くだらないテレビ番組の話。まるで、明日も同じように学校があり、未来がどこまでも続いているかのように、他愛のない話を止めどなく続けた。未来がないからこそ、どんな過去の話も輝いて見え、どんな些細な思い出も、かけがえのない宝物のように胸に刻まれていく。
夜空のアポカリプスは、いよいよその大きさを増し、地鳴りはもはや、低いドラムの連打のように床を小刻みに揺らし続けていた。窓ガラスがビリビリと鳴り、キャンドルの炎が激しく踊る。
「そろそろ、帰ろっか」
夢果が眠そうな目をこすりながら立ち上がった。
「ああ。俺たちの家に帰ろう」
雪音はタキシードのまま、夢果はドレスの裾を片手でまとめながら、静まり返ったショッピングモールを後にした。外に出ると、空気は昼間よりも一段と熱を帯びており、肌にじっとりとした汗がにじむ。空は夜だというのに赤黒く発光し、世界の最期がすぐそこまで来ていることを告げていた。
車に乗り込み、再び無人の道路を走り出す。
バックミラーに映るショッピングモールは、キャンドルの火が消え、完全に闇の中へと溶け込んでいった。人類が築き上げた消費文明の象徴は、主を失ったまま、あと二日で訪れる完全な崩壊を静かに待っている。
「ねえ、雪音くん。明日が、最後の日だね」
夢果が助手席で、窓の外の流れる景色を見つめながら呟いた。
「ああ。明日で、全部終わる」
「怖くないよ。雪音くんと一緒なら、どこまでだって行ける気がする」
夢果はそう言うと、雪音の左腕にそっと寄り添い、そのまま静かに目を閉じた。
雪音はハンドルの感覚を確かめながら、前方の真っ赤な道を真っ直ぐに見つめ続けた。
恐怖はなかった。胸にあるのは、夢果という少女と出会えたことへの、深い感謝と、奇妙なほどの静けさだけだった。世界が終わる時、自分は彼女の隣にいる。それ以上の結末なんて、この宇宙のどこを探しても存在しない。
車は夜の静寂を切り裂きながら、二人の帰るべき家へと、ただ黙々と走り続けた。




