『クリテロ』
その本には、バーコードがなかった。
出版社の名前も、値段もない。
黒い表紙の中央に、白い人影が一つ。
『透明人間は笑っている』
著者名は、
十兄――テンケイ。
「これ、どこの新刊ですか?」
客に尋ねられ、レジのアルバイトは首を傾げた。
本を裏返し、端末で検索する。
「店長、こんな本、入荷しました?」
「知らないなぁ」
新刊台には、大手出版社の新刊に混じって、その本が十冊ほど平積みされていた。
「売り物じゃないなら、もらっちゃってもいいですか?」
「いや、それも困るんだけど……」
店長が答える横で、別の客はすでに一冊を開いていた。
◇
「……ん?」
同じ頃。
同人即売会の会場では、開場までまだ少し時間があった。
マサトは自分のスペースに座り、暇つぶしにSNSを眺めていた。
流れてきた一枚の写真に、指が止まる。
『本屋の新刊台に謎の本あった。出版社不明、バーコードなし。十兄って誰?』
「…………」
黒い表紙。
中央の白い人影。
見間違えるはずがない。
「なんで……?」
足元の段ボールを見る。
今日売る百冊が入っているはずの箱だ。
嫌な予感がして、慌ててガムテープを剥がした。
「……は?」
中身は本ではなかった。
アルバイト先の書店で使うブックカバーや紙袋。
今朝の光景が頭に浮かぶ。
店の裏にあった二つの段ボール。
一つは、印刷会社から届いた自分の本。
もう一つは書店の備品。
どちらもよく似た無地の箱だった。
新人が箱を動かしていたが、マサトも中身を確かめず一つを持って店を出た。
「……取り違えた」
スマートフォンへ目を戻す。
自分の本が、知らない客の手に握られていた。
◇
マサトは、広告デザイナーになりたかった。
文字の配置や色の組み合わせ、余白の取り方を考えるのが好きだった。
何もない画面に、自分の考えたものが形になっていく。
それが楽しかった。
けれど、社会へ出る頃にはAIが当たり前になっていた。
「高級感のある広告」
「もっと若者向け」
「レトロ風」
入力するたび、数秒で何十案も出てくる。
人間が何日も悩んで作る量を、AIは数分で作った。
しかも綺麗で、安い。
それでもマサトは自分で作り続けた。
SNSにも載せたが、ほとんど見てもらえない。
『これ、○○のパクリだろ』
『似たのAIで見た』
『こういうの、もう山ほどある』
一から考えたものでも、探せば似た作品が出てくる。
自分が思いつくより先に、世界のどこかで形になっていた。
「……じゃあ、何を作ればいいんだよ」
作ることは好きだった。
好きなのに、誰にも届かなかった。
◇
そんな頃、叔父が死んだ。
母の弟で、名前は克。
書いて、マサルと読む。
結婚はしておらず、一人暮らしだった。
子供の頃から、よく可愛がってくれた。
誕生日は欠かさず祝ってくれた。
正月にはお年玉もくれた。
母に怒られれば、
「まあまあ」
と笑って庇ってくれた。
マサトが描いた絵を見せると、
「お前、すごいな。将来は画家かな?」
いつも褒めてくれた。
面白い人だった。
マサトも叔父が大好きだった。
一緒にいる時は、いつも笑っていた。
ただ、ふとした拍子に、ひどく悲しそうな顔をすることがあった。
理由は分からなかった。
叔父の死は自殺だった。
遺書は見つからなかった。
◇
遺品整理をしていると、母に呼ばれた。
「マサト、これどうする?」
押し入れの奥から、紐で束ねられた大量の原稿用紙が出てきた。
数百枚あった。
「なに、これ」
「さあ。マサルが書いたんじゃない?」
一枚目を開く。
叔父の字だった。
小説らしい。
そんなものを書いていたとは、一度も聞いたことがない。
家へ持ち帰り、少しだけ読むつもりで開いた。
すぐに笑った。
主人公は、どうしようもなく格好悪い男だった。
金はない。
恋人もいない。
仕事では失敗ばかり。
格好をつければ、だいたい裏目に出る。
それでも妙に前向きで、周りをよく笑わせた。
「……叔父さんみたいだな」
ページをめくる。
もう一枚。
さらに一枚。
気がつけば深夜になっていた。
読み進めるにつれ、主人公の内側が見えてきた。
人に必要とされたい。
けれど、迷惑はかけたくない。
気づいてほしい。
けれど、自分から助けてとは言えない。
人が笑えば、自分も笑う。
人が幸せになれば、本当に嬉しい。
それなのに一人になると、自分だけが世界から外れていく。
誰にも見えなくなる。
そんな男だった。
主人公は富を求めなかった。
名声も求めなかった。
最後に望んだのは、一つだけ。
自分がここにいたことを、一人くらい覚えていてくれればいい。
物語の最後。
主人公はいなくなった。
残された人たちは、彼がいつも笑っていたことしか知らなかった。
原稿はそこで終わっていた。
続きを探す。
なかった。
「……叔父さん」
主人公と、あの悲しそうな顔が重なった。
これが叔父の本心だったのかは分からない。
それでも、あの人の中にこんなものがあったのかもしれない。
自分は何も知らなかった。
遺書はない。
けれど、この数百枚には、自分の知らない叔父がいた。
「これ、誰にも読まれないままなのか」
それだけは嫌だった。
◇
マサトは原稿をすべてデータ化し、AIに読み込ませた。
『誤字・脱字を修正しますか?』
「して」
『文章表現を現代的に整えますか?』
「しない」
『冗長な部分を短縮できます』
「そのまま」
『終盤を、より感動的に――』
「変えるな」
直したのは、明らかな誤字や抜けた文字、意味の通らない箇所だけ。
叔父の小説を上手く書き直したいわけではない。
読める形で残したかった。
装丁は自分でデザインした。
そこだけはAIに任せる気はなかった。
黒い表紙。
中央に、白い人影。
広い余白。
タイトルは、
『透明人間は笑っている』
著者名だけは悩んだ。
叔父の本名を出すのも、自分の名前を載せるのも違う。
書いたのは叔父。
本にしたのは自分。
マサトは、克という字を眺めた。
上に「十」。
下に「兄」。
「……十兄」
読みは、テンケイ。
天啓。
叔父から自分へ。
自分から、まだ知らない誰かへ。
「これでいいか」
印刷会社へデータを入稿し、百冊だけ注文した。
◇
開場を知らせるアナウンスが流れた。
マサトの机の上には、何もない。
足元には、書店の備品が詰まった段ボール。
例の投稿は、すでにかなり広がっていた。
『表紙いいな』
『検索しても出てこない』
『新手の宣伝?』
『十兄って何者?』
実際に本を開いた客の書き込みもある。
『最初ちょっと読んだけど、普通に面白かった』
『途中で回収された。続き気になる』
『あれ売られてないの?』
事情が分かるまでの間に、何人かが立ち読みしていたらしい。
一方で、
『店に勝手に置いたなら迷惑行為だろ』
『炎上狙いの宣伝じゃないの?』
そんな声も増え始めていた。
「……まずいだろ、これ」
店へ電話をかけようとして、指が止まる。
今さら、
「あれは僕の本です」
と名乗れば、どう見える。
書店員という立場を利用して、自作本を新刊台へ紛れ込ませた。
そう疑われても仕方がない。
事故だったと説明したところで、証明するものもない。
下手に名乗れば、身元まで晒されかねない。
「……言えるわけないだろ」
結局、何もできないまま会場をあとにした。
店の本は、入荷記録がないと分かった時点ですべて処分された。
――はずだった。
◇
その夜。
『例の十兄の本、出品されてる』
そんな投稿が流れ始めた。
「え?」
確認すると、本当にあった。
『透明人間は笑っている』
一冊。
二冊。
さらにもう一冊。
入札額はどんどん上がっている。
後になって分かったことだが、書店のアルバイトの一人が、回収前に数冊を抜き取っていた。
入荷記録のない本。
正確な冊数も把握されていない。
話題になっているうちに売れば金になる。
そう考えたらしい。
『十兄の本、高すぎ』
『誰が買うんだよ』
『もう入札入ってるぞ』
『中身知りたい』
実際に落札した者もいた。
数日後。
『十兄、全部読めるぞ』
今度はそんな投稿が広がった。
手に入れた誰かが、全ページをコピーして公開していた。
画像は転載され、保存され、別の場所へ貼られていく。
消されても、また出てくる。
止めようがなかった。
いつの間にか『透明人間は笑っている』は、誰でも読める小説になっていた。
◇
感想が一気に増えた。
『最初ずっと笑ってたのに最後きつい』
『普通に面白かった』
『最後まで読んで、改めて表紙見ると泣ける』
『主人公、なんでこんな笑ってられるんだよ』
『十兄って何者なんだ』
叔父の小説が、知らない人たちに読まれている。
望んでいた形とは、まるで違った。
それでも。
読まれていた。
やがて十兄の正体探しまで始まった。
有名作家の別名義。
出版社の仕掛け。
全部AIが書いた作品。
好き勝手な説が飛び交う。
『どうせAI創作だろ』
その書き込みに、マサトの指が止まった。
何度も自分へ向けられてきた言葉だった。
パクリ。
AI。
誰でも作れる。
またか。
その下に短い返信があった。
『読んだけど面白かった。それじゃ駄目なの?』
マサトは、その一文をしばらく眺めていた。
◇
全文が出回っても、現物を欲しがる者はいた。
『あの黒い本が欲しい』
『コピーじゃなくて現物を持っておきたい』
盗まれた数冊は転売を繰り返し、そのたび値段が上がった。
自分で印刷し、似た装丁で製本する者まで現れた。
マサトは何もしなかった。
というより、何もできなかった。
下手に動けば、十兄と自分を結ぶ手がかりになる。
それに、もう叔父の小説は多くの人に読まれていた。
名乗る必要はなかった。
◇
ほどなくして、別の書店で自作の本が勝手に棚へ置かれた。
今度は事故ではない。
作者不明の短編集が一冊。
写真がSNSに載った。
『十兄方式じゃん』
次は漫画。
その次は詩集。
写真集。
絵本。
自分で作ったものを、書店へこっそり置いていく者が現れ始めた。
ニュースサイトは、この行為を、
クリエイターズ・テロ。
略して、
クリテロ。
と名づけた。
「こんなことになるなんて……」
十兄はいつの間にか、
元祖クリテロ作家。
そう呼ばれるようになった。
出版界への反逆者。
匿名の天才。
AI時代の覆面作家。
本人の知らない肩書きばかり増えていく。
◇
書店にとって、クリテロは迷惑だった。
商品でもない本を勝手に置かれては困る。
撤去され、警告文が貼られ、防犯カメラも増えた。
一方で、
「クリテロ本ありますか?」
と尋ねる客も現れた。
いつ置かれるか分からない。
作者も、面白いかどうかも分からない。
読者は、まるで宝探しをしている感覚になれた。
それが流行った。
やがて、一部の書店が専用のスペースを設けた。
《クリテロ棚》
自作本を一定期間だけ並べられる。
売上はすべて店のもの。
作者が得るのは、読んでもらえる機会だけ。
人気作が出れば店の宣伝にもなった。
売れたあとで名乗り出る作者もいた。
その仕組みは、少しずつ広がっていった。
◇
一年ほど経った。
十兄の正体は、今も分かっていない。
『透明人間は笑っている』はネット上に残り続け、複製本まで出回っていた。
マサトは、それを止めることも、名乗ることもしなかった。
ある日、母も作品を読んだ。
「これ、変な話ね」
最初は笑っていた。
途中で、
「なんかマサルに似てる」
と呟いた。
読み終えると、黙って目元を拭った。
「誰が書いたのかしらね」
「さあ。誰だろうね」
マサトは、それ以上何も言わなかった。
◇
閉店間際。
マサトは棚を整理していた。
かつて『透明人間は笑っている』が置かれていた新刊台。
その端に、一冊の本が立てかけてある。
「ん?」
店の商品でも、クリテロ棚の本でもない。
印刷は少しずれ、表紙の絵も上手いとは言えない。
タイトルは、
『僕には才能がない』
著者名はなかった。
表紙を開く。
一ページ目に、一文だけ手書きされていた。
《十兄の本を読んで、自分でも初めて何か作ってみようと思いました。》
マサトは、その文字をしばらく眺めていた。
「……叔父さん」
誰にも聞こえない声で言った。
「ちゃんと残ってるよ」
本を手に、店の奥へ向かう。
そこには《クリテロ棚》があった。
名も知らない作者たちの本が並んでいる。
マサトは『僕には才能がない』を、空いた場所へそっと置いた。
それから一度だけ振り返り、
棚を離れた。




