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23/24

『クリテロ』

 その本には、バーコードがなかった。


 出版社の名前も、値段もない。


 黒い表紙の中央に、白い人影が一つ。


『透明人間は笑っている』


 著者名は、


 十兄――テンケイ。


「これ、どこの新刊ですか?」


 客に尋ねられ、レジのアルバイトは首を傾げた。


 本を裏返し、端末で検索する。


「店長、こんな本、入荷しました?」


「知らないなぁ」


 新刊台には、大手出版社の新刊に混じって、その本が十冊ほど平積みされていた。


「売り物じゃないなら、もらっちゃってもいいですか?」


「いや、それも困るんだけど……」


 店長が答える横で、別の客はすでに一冊を開いていた。


     ◇


「……ん?」


 同じ頃。


 同人即売会の会場では、開場までまだ少し時間があった。


 マサトは自分のスペースに座り、暇つぶしにSNSを眺めていた。


 流れてきた一枚の写真に、指が止まる。


『本屋の新刊台に謎の本あった。出版社不明、バーコードなし。十兄って誰?』


「…………」


 黒い表紙。


 中央の白い人影。


 見間違えるはずがない。


「なんで……?」


 足元の段ボールを見る。


 今日売る百冊が入っているはずの箱だ。


 嫌な予感がして、慌ててガムテープを剥がした。


「……は?」


 中身は本ではなかった。


 アルバイト先の書店で使うブックカバーや紙袋。


 今朝の光景が頭に浮かぶ。


 店の裏にあった二つの段ボール。


 一つは、印刷会社から届いた自分の本。


 もう一つは書店の備品。


 どちらもよく似た無地の箱だった。


 新人が箱を動かしていたが、マサトも中身を確かめず一つを持って店を出た。


「……取り違えた」


 スマートフォンへ目を戻す。


 自分の本が、知らない客の手に握られていた。


     ◇


 マサトは、広告デザイナーになりたかった。


 文字の配置や色の組み合わせ、余白の取り方を考えるのが好きだった。


 何もない画面に、自分の考えたものが形になっていく。


 それが楽しかった。


 けれど、社会へ出る頃にはAIが当たり前になっていた。


「高級感のある広告」


「もっと若者向け」


「レトロ風」


 入力するたび、数秒で何十案も出てくる。


 人間が何日も悩んで作る量を、AIは数分で作った。


 しかも綺麗で、安い。


 それでもマサトは自分で作り続けた。


 SNSにも載せたが、ほとんど見てもらえない。


『これ、○○のパクリだろ』


『似たのAIで見た』


『こういうの、もう山ほどある』


 一から考えたものでも、探せば似た作品が出てくる。


 自分が思いつくより先に、世界のどこかで形になっていた。


「……じゃあ、何を作ればいいんだよ」


 作ることは好きだった。


 好きなのに、誰にも届かなかった。


     ◇


 そんな頃、叔父が死んだ。


 母の弟で、名前は克。


 書いて、マサルと読む。


 結婚はしておらず、一人暮らしだった。


 子供の頃から、よく可愛がってくれた。


 誕生日は欠かさず祝ってくれた。


 正月にはお年玉もくれた。


 母に怒られれば、


「まあまあ」


 と笑って庇ってくれた。


 マサトが描いた絵を見せると、


「お前、すごいな。将来は画家かな?」


 いつも褒めてくれた。


 面白い人だった。


 マサトも叔父が大好きだった。


 一緒にいる時は、いつも笑っていた。


 ただ、ふとした拍子に、ひどく悲しそうな顔をすることがあった。


 理由は分からなかった。


 叔父の死は自殺だった。


 遺書は見つからなかった。


     ◇


 遺品整理をしていると、母に呼ばれた。


「マサト、これどうする?」


 押し入れの奥から、紐で束ねられた大量の原稿用紙が出てきた。


 数百枚あった。


「なに、これ」


「さあ。マサルが書いたんじゃない?」


 一枚目を開く。


 叔父の字だった。


 小説らしい。


 そんなものを書いていたとは、一度も聞いたことがない。


 家へ持ち帰り、少しだけ読むつもりで開いた。


 すぐに笑った。


 主人公は、どうしようもなく格好悪い男だった。


 金はない。


 恋人もいない。


 仕事では失敗ばかり。


 格好をつければ、だいたい裏目に出る。


 それでも妙に前向きで、周りをよく笑わせた。


「……叔父さんみたいだな」


 ページをめくる。


 もう一枚。


 さらに一枚。


 気がつけば深夜になっていた。


 読み進めるにつれ、主人公の内側が見えてきた。


 人に必要とされたい。


 けれど、迷惑はかけたくない。


 気づいてほしい。


 けれど、自分から助けてとは言えない。


 人が笑えば、自分も笑う。


 人が幸せになれば、本当に嬉しい。


 それなのに一人になると、自分だけが世界から外れていく。


 誰にも見えなくなる。


 そんな男だった。


 主人公は富を求めなかった。


 名声も求めなかった。


 最後に望んだのは、一つだけ。


 自分がここにいたことを、一人くらい覚えていてくれればいい。


 物語の最後。


 主人公はいなくなった。


 残された人たちは、彼がいつも笑っていたことしか知らなかった。


 原稿はそこで終わっていた。


 続きを探す。


 なかった。


「……叔父さん」


 主人公と、あの悲しそうな顔が重なった。


 これが叔父の本心だったのかは分からない。


 それでも、あの人の中にこんなものがあったのかもしれない。


 自分は何も知らなかった。


 遺書はない。


 けれど、この数百枚には、自分の知らない叔父がいた。


「これ、誰にも読まれないままなのか」


 それだけは嫌だった。


     ◇


 マサトは原稿をすべてデータ化し、AIに読み込ませた。


『誤字・脱字を修正しますか?』


「して」


『文章表現を現代的に整えますか?』


「しない」


『冗長な部分を短縮できます』


「そのまま」


『終盤を、より感動的に――』


「変えるな」


 直したのは、明らかな誤字や抜けた文字、意味の通らない箇所だけ。


 叔父の小説を上手く書き直したいわけではない。


 読める形で残したかった。


 装丁は自分でデザインした。


 そこだけはAIに任せる気はなかった。


 黒い表紙。


 中央に、白い人影。


 広い余白。


 タイトルは、


『透明人間は笑っている』


 著者名だけは悩んだ。


 叔父の本名を出すのも、自分の名前を載せるのも違う。


 書いたのは叔父。


 本にしたのは自分。


 マサトは、克という字を眺めた。


 上に「十」。


 下に「兄」。


「……十兄」


 読みは、テンケイ。


 天啓。


 叔父から自分へ。


 自分から、まだ知らない誰かへ。


「これでいいか」


 印刷会社へデータを入稿し、百冊だけ注文した。


     ◇


 開場を知らせるアナウンスが流れた。


 マサトの机の上には、何もない。


 足元には、書店の備品が詰まった段ボール。


 例の投稿は、すでにかなり広がっていた。


『表紙いいな』


『検索しても出てこない』


『新手の宣伝?』


『十兄って何者?』


 実際に本を開いた客の書き込みもある。


『最初ちょっと読んだけど、普通に面白かった』


『途中で回収された。続き気になる』


『あれ売られてないの?』


 事情が分かるまでの間に、何人かが立ち読みしていたらしい。


 一方で、


『店に勝手に置いたなら迷惑行為だろ』


『炎上狙いの宣伝じゃないの?』


 そんな声も増え始めていた。


「……まずいだろ、これ」


 店へ電話をかけようとして、指が止まる。


 今さら、


「あれは僕の本です」


 と名乗れば、どう見える。


 書店員という立場を利用して、自作本を新刊台へ紛れ込ませた。


 そう疑われても仕方がない。


 事故だったと説明したところで、証明するものもない。


 下手に名乗れば、身元まで晒されかねない。


「……言えるわけないだろ」


 結局、何もできないまま会場をあとにした。


 店の本は、入荷記録がないと分かった時点ですべて処分された。


 ――はずだった。


     ◇


 その夜。


『例の十兄の本、出品されてる』


 そんな投稿が流れ始めた。


「え?」


 確認すると、本当にあった。


『透明人間は笑っている』


 一冊。


 二冊。


 さらにもう一冊。


 入札額はどんどん上がっている。


 後になって分かったことだが、書店のアルバイトの一人が、回収前に数冊を抜き取っていた。


 入荷記録のない本。


 正確な冊数も把握されていない。


 話題になっているうちに売れば金になる。


 そう考えたらしい。


『十兄の本、高すぎ』


『誰が買うんだよ』


『もう入札入ってるぞ』


『中身知りたい』


 実際に落札した者もいた。


 数日後。


『十兄、全部読めるぞ』


 今度はそんな投稿が広がった。


 手に入れた誰かが、全ページをコピーして公開していた。


 画像は転載され、保存され、別の場所へ貼られていく。


 消されても、また出てくる。


 止めようがなかった。


 いつの間にか『透明人間は笑っている』は、誰でも読める小説になっていた。


     ◇


 感想が一気に増えた。


『最初ずっと笑ってたのに最後きつい』


『普通に面白かった』


『最後まで読んで、改めて表紙見ると泣ける』


『主人公、なんでこんな笑ってられるんだよ』


『十兄って何者なんだ』


 叔父の小説が、知らない人たちに読まれている。


 望んでいた形とは、まるで違った。


 それでも。


 読まれていた。


 やがて十兄の正体探しまで始まった。


 有名作家の別名義。


 出版社の仕掛け。


 全部AIが書いた作品。


 好き勝手な説が飛び交う。


『どうせAI創作だろ』


 その書き込みに、マサトの指が止まった。


 何度も自分へ向けられてきた言葉だった。


 パクリ。


 AI。


 誰でも作れる。


 またか。


 その下に短い返信があった。


『読んだけど面白かった。それじゃ駄目なの?』


 マサトは、その一文をしばらく眺めていた。


     ◇


 全文が出回っても、現物を欲しがる者はいた。


『あの黒い本が欲しい』


『コピーじゃなくて現物を持っておきたい』


 盗まれた数冊は転売を繰り返し、そのたび値段が上がった。


 自分で印刷し、似た装丁で製本する者まで現れた。


 マサトは何もしなかった。


 というより、何もできなかった。


 下手に動けば、十兄と自分を結ぶ手がかりになる。


 それに、もう叔父の小説は多くの人に読まれていた。


 名乗る必要はなかった。


     ◇


 ほどなくして、別の書店で自作の本が勝手に棚へ置かれた。


 今度は事故ではない。


 作者不明の短編集が一冊。


 写真がSNSに載った。


『十兄方式じゃん』


 次は漫画。


 その次は詩集。


 写真集。


 絵本。


 自分で作ったものを、書店へこっそり置いていく者が現れ始めた。


 ニュースサイトは、この行為を、


 クリエイターズ・テロ。


 略して、


 クリテロ。


 と名づけた。


「こんなことになるなんて……」


 十兄はいつの間にか、


 元祖クリテロ作家。


 そう呼ばれるようになった。


 出版界への反逆者。


 匿名の天才。


 AI時代の覆面作家。


 本人の知らない肩書きばかり増えていく。


     ◇


 書店にとって、クリテロは迷惑だった。


 商品でもない本を勝手に置かれては困る。


 撤去され、警告文が貼られ、防犯カメラも増えた。


 一方で、


「クリテロ本ありますか?」


 と尋ねる客も現れた。


 いつ置かれるか分からない。


 作者も、面白いかどうかも分からない。


 読者は、まるで宝探しをしている感覚になれた。


 それが流行った。


 やがて、一部の書店が専用のスペースを設けた。


《クリテロ棚》


 自作本を一定期間だけ並べられる。


 売上はすべて店のもの。


 作者が得るのは、読んでもらえる機会だけ。


 人気作が出れば店の宣伝にもなった。


 売れたあとで名乗り出る作者もいた。


 その仕組みは、少しずつ広がっていった。


     ◇


 一年ほど経った。


 十兄の正体は、今も分かっていない。


『透明人間は笑っている』はネット上に残り続け、複製本まで出回っていた。


 マサトは、それを止めることも、名乗ることもしなかった。


 ある日、母も作品を読んだ。


「これ、変な話ね」


 最初は笑っていた。


 途中で、


「なんかマサルに似てる」


 と呟いた。


 読み終えると、黙って目元を拭った。


「誰が書いたのかしらね」


「さあ。誰だろうね」


 マサトは、それ以上何も言わなかった。


     ◇


 閉店間際。


 マサトは棚を整理していた。


 かつて『透明人間は笑っている』が置かれていた新刊台。


 その端に、一冊の本が立てかけてある。


「ん?」


 店の商品でも、クリテロ棚の本でもない。


 印刷は少しずれ、表紙の絵も上手いとは言えない。


 タイトルは、


『僕には才能がない』


 著者名はなかった。


 表紙を開く。


 一ページ目に、一文だけ手書きされていた。


《十兄の本を読んで、自分でも初めて何か作ってみようと思いました。》


 マサトは、その文字をしばらく眺めていた。


「……叔父さん」


 誰にも聞こえない声で言った。


「ちゃんと残ってるよ」


 本を手に、店の奥へ向かう。


 そこには《クリテロ棚》があった。


 名も知らない作者たちの本が並んでいる。


 マサトは『僕には才能がない』を、空いた場所へそっと置いた。


 それから一度だけ振り返り、


 棚を離れた。

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