『手をとりあう』
あるところに、両手を持たない人々の世界があった。
誰もが、生まれた時から肘の先を持たない。
だから人々は、腕で物を支え、肘で扉を開け、足や口も使いながら暮らしていた。
食器には腕を通せる輪が付き、本は足でもめくりやすいよう作られている。
街の道具も建物も、すべて彼らの身体に合わせて作られていた。
それが普通だった。
最初からそうだったので、不便でもなければ、不幸でもない。
誰も、“手”というものを知らなかったからだ。
そんな世界で、古代遺跡が発見された。
遺跡の奥から見つかったのは、奇妙な器具だった。
白銀の手。
腕の先に取り付ける形をしており、五本の細長い指が伸びている。
「これは……なんだ?」
学者たちは首を傾げた。
壁画には、それを腕に付けた古代人の姿が描かれていた。
やがて人々は、それを“義手”と呼ぶようになった。
見たこともないその造形は、まるで伝説上の生き物の一部のようだった。
だが、義手は動かなかった。
誰が腕に取り付けても、指一本すら反応しない。
それでも人々は欲しがった。
“手を持つ”というだけで特別だったからだ。
裕福な者は装飾品として身につけた。
貴族は権威の証にした。
商人は希少品として値を吊り上げた。
やがて義手は、富と権力の象徴になった。
奪い合いが起こり、命を落とす者さえ現れた。
そんな頃。
古代文字の解読が進み、欠けた石板から一節が読み取られた。
『――人々は、手をとりあっていた』
学者たちは騒然となった。
古代人は、“手をとりあっていた”。
今、この世界でも義手を巡って争いが起きている。
「“手をとりあう”とは、互いの手を取り合う――つまり奪い合うことを意味しているのでは?」
古代文明は、義手を巡る争いによって滅びた。
その説は瞬く間に広まった。
だが、人々は恐れるどころか、ますます義手を求めた。
文明を滅ぼすほど、人を狂わせる宝。
それほどまでに価値があるのだ、と。
街外れの廃棄場に、一人の青年が暮らしていた。
捨てられた物を拾い、使えそうなものを修理して日々をしのいでいる。
ある日、瓦礫の中から一本の義手を見つけた。
赤茶けた、錆だらけの義手だった。
指は曲がったまま固まり、表面には傷が走っている。
飾り物としても価値はない。
それでも青年は、嬉しそうに持ち帰った。
錆を落とし。
布で磨き。
油を差し。
壊れた留め具を直した。
もちろん、指は反応しない。
それでも青年は、その義手を気に入っていた。
ある日。
義手を腕に取り付け、街へ出た。
市場は、いつも以上に混み合っていた。
荷車が行き交い、商人たちの呼び声が飛び交う。
ガタン。
大きな音が響いた。
「危ない!」
積み上げられていた荷が傾き、一斉に崩れた。
人々が悲鳴を上げて逃げる。
市場の一角が、たちまち瓦礫の山になった。
「お母さん!」
少女の泣き声が上がった。
一人の女性が、倒れた荷車のそばにうずくまっている。
腕が歪んだ金具に挟まれ、留め金が服へ食い込んでいた。
無理に引けば、皮膚まで裂けかねない。
周囲の人々が駆け寄った。
「荷車を持ち上げろ!」
「こっちを支えろ!」
何人も身体を押し当てる。
だが、女性の腕は抜けない。
服が細い留め具に絡まり、その奥で小さな金具が引っかかっていた。
肘では入らない。
足先でも届かない。
この世界には、“指先”がなかった。
小さなものをつまみ、回し、ほどく。
そんな動きが、誰にもできなかった。
頭上では、崩れかけた木箱が軋んでいる。
「いいから……逃げて」
女性が青ざめた顔で娘に言う。
「いや!」
「早く!」
少女は泣きながら母親へしがみついた。
「どいて!」
青年が人混みをかき分けて飛び込んできた。
少女が縋るように言う。
「お母さん……助けて……」
青年は一度だけ息を吸った。
「だいじょうぶだよ」
少女へ笑いかける。
「絶対に助けるから」
錆びた義手を、金具へ伸ばした。
ギギ。
小さな音が鳴る。
青年が目を見開いた。
人差し指が、わずかに開く。
「……え?」
続いて、五本の指がゆっくりと開いた。
周囲から息を呑む気配がする。
青年も震えていた。
だが、迷っている暇はない。
義手を細い隙間へ差し込み、親指と人差し指で留め具をつまむ。
カチ。
ゆっくり回す。
もう一度。
外れた。
絡まった布を慎重にほどく。
「今だ!」
女性が腕を引き抜いた。
青年が少女ごと抱えるようにして、その場から転がる。
直後。
ドドドッ、と木箱が落ちた。
土煙が上がる。
「お母さん!」
少女は泣きながら母親へ抱きついた。
「大丈夫……大丈夫よ」
安堵の声が周囲から漏れる。
青年は地面に座り込み、自分の義手を見つめた。
五本の指は、確かに開き、曲がる。
まるで最初から、身体の一部だったかのように。
「義手が……動いた……」
誰かが呟いた。
「こっちにもいるぞ!」
離れた場所から声が上がる。
一人の子供が、倒れた荷車のそばで泣いていた。
服の裾が車輪の軸へ巻き込まれ、身動きが取れなくなっている。
青年が立ち上がろうとする。
その前に、金色の義手を付けた商人が進み出た。
高値で義手を売り、希少なものほど価値があると吹聴してきた男だった。
商人は立ち尽くした。
錆びた義手。
助けられた母娘。
そして、目の前で怯える子供。
「……どけ」
車輪の前へ膝をつく。
「俺がやる」
「でも、その義手は――」
「分かってる」
男は金色の手を伸ばした。
「もう少しだけ我慢しろ」
カチリ。
金色の親指が開く。
男の顔が強張った。
やがて五本の指が開いた。
「……そういうことか」
小さく呟き、車輪へ絡んだ布をほどいていく。
その姿を見ていた者たちも、自分の義手へ目を落とした。
「こっちを手伝ってくれ!」
声が飛ぶ。
一人が走った。
また一人が続く。
倒れた棚の留め金を外す者。
絡まった紐をほどく者。
傷ついた者を助ける者。
誰かを助けようとするたびに、金属の指がひとつ、またひとつと開いていった。
それまで奪い合っていた“手”が、初めて誰かのために使われていた。
長い年月の後。
遺跡を調べ続けていた学者たちは、ついにあの石板の全文を解読した。
かつて、
『――人々は、手をとりあっていた』
としか読めなかった文章。
そこには、こう刻まれていた。
『人々は、互いを助けるために、手をとりあっていた』
■おわり■




