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『一を知る凡人』

 僕のクラスには、「一を聞いて十を知る」と呼ばれる神童がいた。

 

 先生も親も口を揃えて、「将来が楽しみだ」と言っていた。

 

 その神童の隣には、いつも同じ子がいた。

 

 気だるそうで、暗い顔をした、取り立てて何もできない子だった。

 

「どうして、あんな子と一緒にいるのだろう?」

 

 みんな、同じことを思っていた。


 なぜか、その子と話しているときだけ、神童はよく笑った。

 

 ある日、誰かが興味本位でその子に話しかけた。

 

 さぞ面白い話をするのだろうと期待していたのだ。

 

 しかし、その子は特に面白いことを言うわけでもなく、気の利いた返しをするわけでもなかった。

 

 むしろ、どこか話が噛み合わない。

 

 やがて「気味が悪い」と、みんな距離を置くようになった。

 

「神童は、心の広い人格者なのだ」


 と、みんなは思うことにした。

 

 その子が死んだのは、梅雨の終わりのことだった。


 理由は分からなかった。

 

 通夜の帰り、僕はトイレに寄ってから帰ろうとしていた。

 

 そのとき、誰もいないはずの部屋に、人影を見つけた。

 

 棺の前に、神童が立っていた。

 

「もっと、君と話がしたかった」

 

 静かな声だった。

 

「僕は『一を聞いて十を知る』なんて言われているけど……」

 

 神童は、棺の中を見つめたまま続けた。

 

「君は、一を聞いて千を知る人だった」

 

 僕には神童が何を言っているのか分からなかった。


 


  

 ――あれから数十年経った。

 

 僕は結局、平凡な大人になった。

 

 先のことなど、ろくに分からないまま、仕事をして、食べて、たまに笑って、なんとなく生きている。

 

 けれど、あの言葉だけは、ずっと引っかかっている。

 

 一を聞いて千を知る、ということ。

 

 もし、何かを少し知っただけで、その先にある結末まで、すべて見えてしまうのだとしたら。

 

 努力の結果も、失敗の痛みも、出会いも別れも、最期の瞬間さえも、最初から分かってしまうのだとしたら。

 

 ――その人間は、「今」を見ることができるのだろうか。

 

 未来が確定している世界で、わざわざ足掻く意味を感じられるのだろうか。

 

 あの子は、勉強も運動もできなかったわけではない。

 

 きっと、やる前からすべてを知っていただけなのだ。

 

 だから、やらなかった。

 

 いや――やれなかったのかもしれない。

 

 神童は十までしか見えていなかった。

 

 だからこそ、まだ「今」を生きる余地があった。

 

 僕は、一すらよく分かっていない。

 

 だから、毎日を手探りで進むしかない。

 

 それでも、腹が減れば飯を食うし、楽しいことがあれば笑う。

 

 先のことは分からない。


 分からないから、試してみる。

 

 あの子が見ていた世界を、僕は知らない。


 それでも――

 

 何も見えていない僕のほうが、この世界を今も楽しんでいる。

 

「知らぬが仏」とは、よく言ったものだ。



■おわり■

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