9. 幼い純愛
「新しい司祭さま、いつ来るのかな?」
火を灯した礼拝堂の大きな暖炉の前で、パン焼き窯の中に入れるための焼き藁を編みながら、トキが思い出したように呟く。新たな年が明けてから、トキはよく母親の手伝いをするようになった。きっと何かしら思うところがあったのだろう。
夜更けに花を持ってきたあの晩、俺の部屋で夜を明かした後で、きちんと叱ってやった。勿論、花を見せてくれたことには感謝を伝えた。けれどそれ以上にしっかりと、どうか危険なことをしないでくれと、お前を愛する者が悲しむような結果になったらどうするのだと、トキがきちんと理解するまで説いてやった。
良かれと思ってとった行動が、俺や母親や、トキを愛する村の住人たちを深く悲しませることになるかもしれない。トキは初めてそのことに思い至ったようで、泣きそうな顔で何度もごめんと繰り返した。涙を堪えるように小さく握り締められた両の拳は朝日に翳してみてもやはり傷だらけで、俺は苦笑いを零しながらそっとトキを抱き締めてやった。
「さぁな。でもまぁ、いねぇと村の奴らが困るだろ。葬式とか結婚式とか。お前だってちゃんとした司祭がいたほうがいいだろう?」
見様見真似で、それでもトキよりもずっと手際よく藁を編みながら俺は答えた。
「別に、私はナギがいれば……」
つい本音が出てしまった。そんな感じで呟かれた言葉にぽかんとする俺を見て、トキは頬にサッと朱を走らせて誤魔化すように俯いた。
自分でも妙なことを言っていると思ったのだろう。頬を赤くしたまま乱暴な手つきでグイグイと藁を編んで、ちらりと伺うような視線を俺に寄越す。その仕草があまりに可愛らしいものだから、俺は思わずフッと噴き出してしまった。途端に頬を膨らませて、トキは無言の抗議をしてみせる。俺は冬の雀のように丸くなったその頬を突つきながら許しを乞う。
なんて愛しいんだろう。
好きだと自覚したあの瞬間からずっと、俺はトキが可愛くて仕方がない。共に過ごす日々でトキが俺に心を許してくれているのもわかる。それは俺と同じ意味での愛情ではないのかもしれないけれど、それでも無防備に委ねられる細い体や、向けられる太陽のような笑顔に、毎度俺の胸は張り裂けそうに高鳴った。
あぁ綺麗だな、可愛いな、美味そうだな。
取り留めもなく溢れてくる食欲にも似た感情を必死に堪えて、俺はどこまでならば許されているのだろうかと頭を悩ませた。
手を繋ぐのは。頬に触れるのは。額を合わせるのは。そのどれもが当然許されているような気もしたし、俺の中にその先を求める欲望が僅かにでもあるのなら、決して許されないような気もした。
難しいものだ。飽きるほど長く生きてきたくせに、生まれて初めて感じるこの手の衝動を前にする俺は、きっと人の子よりもずっと稚拙で幼いのだろう。そう思うと何だかおかしくて、ともすれば俺よりもトキの方が答えを知っているのではないかと思えた。そうだ、トキに聞いてみよう。俺にはどこまで許されているのか、確かめてみよう。
「トキ」
「ん?」
反射的に振り向いたその頬に、そっと口付ける。
ほんの少しだけ、僅かに触れる程度に。一秒にも満たないその行為は、けれどとてつもない威力で俺の全身を支配した。それまで大人しく眠っていたはずの細胞がぱちりと目を覚まして、待ちわびた歓喜に沸くようだった。たったこれだけの、キスとも呼べないような僅かな接触で、こんなにも心を揺り動かされるとは。末恐ろしい、その一言に尽きる気がした。
トキはといえば、何をされたのかを全く理解出来ていないようだった。ぽかんと口を開けたまま数秒固まって、大きな目を何度も瞬く。恐る恐る自らの頬に指を這わせ、その小さな頭の中をぐるぐると掻き回して出たであろう結論を、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。
「わ、私のこと、食べる……?」
ぶはっ、思わず盛大に噴き出してしまう。そうか、そう来たか。
無理もない。基本的に、この村の人間は古くからの習わしで、結婚するまで性的な接触は一切しない。ましてや子供に性教育を施すようなことはしていないし、あまつさえ子供の目に留まるようなところで行為に及ぶことなど有り得ない。だから村の子供は皆、赤ん坊はコウノトリが運んでくる、という類のことを今でも信じきっている。
肩を震わせて笑う俺を困ったように見つめながら、トキは尚も頬を押さえて呟いた。
「ナギがどうしても食べたいなら、い、いいけど……」
戸惑うように揺れる蜂蜜色の瞳が俺を捉える。
「え、食べてもいいの?」
少しだけ首を傾げて戯れにそう問えば、トキは緊張したように身を強ばらせながら、小さくこくりと頷いた。
「う、うん。でも痛いのは困る……」
もじもじと身を捩りながら、不安そうに告げられるそれ。ちっとも意味なんかわかっていないくせに、何だその思わせぶりな言い方は。あまりに無防備すぎるトキの物言いに、傲慢で理不尽な怒りが少しだけこみ上げる。
さて、どうしたものか。
俺は天を仰ぎながら小さく溜息を吐いた。俺たちの世界では年齢やら性別やらに対する倫理観は欠片も無いけれど、人間の世界では雛を性的な目で見るなど言語道断の御法度だ。俺としても、トキの未熟で小さな体を確実に傷つけるだろう行為を強いることなど絶対にしたくない。もしもトキがもう少し大きかったら、話が早かったかもしれないが。まぁ、それは言っても詮ないことだ。
そこまで考えて、思わず苦笑いがこぼれた。全く。よくもまぁここまで変化したものだ。これまでずっと、瞬きの間に去る人との関わりになど、大した興味もなかったというのに。
己の変化が気恥ずかしいような、こそばゆいような。何となく収まりが悪い気がして、ひとつ咳払いをする。二人きりの空間にわざとらしく木霊するそれが消える前に、もう一度トキの頬に口付けた。くすぐったそうに見上げてくる蜂蜜色は、無垢な信頼に染まっている。手に取るようにわかるそれが嬉しくて、俺は尚も唇を寄せた。
「あははっ、くすぐったい!」
柔らかな春の雨のように、軽く啄むだけの口付けを顔中に降らせてやれば、トキは子猫のように喉を鳴らして喜んだ。
特別なことをされているのがわかるのだろう、嬉しそうに、懸命に俺の真似をして応えようとする。その幼い仕草があまりにも可愛くて、俺は牙が当たらないように気を付けながら、飽きることなく口付けを落とした。




