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8. 岐路

 

 窓辺に積もる白銀に、日々急速に色濃くなっていく冬を感じる。

 一人きりの部屋の中はしんと静まり返って、月明かりだけに照らされた空間はどこか物悲しい色をしている気がした。こんな夜は、ふと言いようのない不安に駆られることがある。


 遠くに霞む真っ白な月を眺めていると、次第に自分の輪郭が曖昧になるような錯覚を覚えるのだ。俺が俺でなくなるような、俺ではないものに変わってしまうような。それは『変化』と呼ばれる類のものかもしれなかったけれど、少なくともここ数百年の間何一つ変わらなかった俺にとっては、それは紛れもなく恐怖と同種の感覚だった。


 最近の自分はどうかしている、と思った。少し前までの自分は、この静かな暗がりにこそ真の安らぎを覚えていたはずなのに。今ではもう、濃紺の闇の中に浮かび上がる静謐な虚無は、ただ俺を虚しい気持ちにさせるだけだった。

 一人きりで静かに過ごす時間を、俺は確かに愛していた。けれどそれはもう、驚くべき速さで過去のことになりつつあった。


 その事実に俺は少なからず愕然として、心の中で何度も否定を試みた。けれど結局のところそんな抵抗には毛ほどの意味も無くて、ただただ抗いようのない大きな力の流れに、すっかり変えられてしまった自分を突きつけられるばかりだった。


 朝も昼も夜も、今の俺が考えているのはトキのことだけだ。目が覚めて真っ先に思い浮かぶのも、眠りにつく前に思いを馳せるのも、全てトキのことだった。どこにいるだろうか、何をしているだろうか、今日は来るだろうか。そんなことばかり。あまりの女々しさに眩暈がしそうだ。けれど、もう誤魔化しようのない事実だった。


 あの太陽のような髪を揺らして、蜂蜜色の瞳を俺に向けて、そうして嬉しそうに走り寄ってくるトキを抱きしめる夢を何度も見た。

 俺たちはほとんど毎日のように会っているというのに、それでもトキがいなくなると急に火が消えたように肌寒くなって、言いようのない寂しさが募った。今生の別れでもあるまいに、毎日のように感じる心を裂かれるようなその感覚に、俺はとうとう自分の気が狂ってしまったのではないかと思った。


 ああ、何だか、とても落ち着かない。


 一人の時間が辛いだなんて、こんな感情は知らない。半身を失くしたような心許なさも、どうしようもない焦燥感に焼かれる胸の痛みも、甘く柔らかな何かで窒息してしまいそうなこの息苦しさも。どれもこれも俺は知らない。知らなかったはずだ。


 このままでは自分がおかしくなるんじゃないかと思った。こんなことは今までに無かった。こんな感情は知らない。自分以外の誰かの存在に振り回されるような、そのことしか考えられなくなるような、心を渡してしまったかのような。こんなものは知らない。知らないものは、恐ろしい。


 どっと心臓が鳴る。嫌な音で早鐘を打つ。何故だかはわからない。けれど、急激に襲い来るとてつもない不安を感じた。変わりゆく自身への恐怖なのか、それとも抵抗なのか。その両方かもしれなかった。視界が揺れて、足元がぐらつく。まるで脆い砂糖菓子の上に立っているかのような心許なさだった。


 そうだ、もうやめよう。


 ふと浮かんだその考えは、思いついたと同時にそれしか選択肢が無いと思える程に俺の中で膨らみ続けた。齢三百有余年を数える悪魔が、何を人間の子供相手に狼狽えているのか。

 たかが人の雛一羽に手こずって、搔き乱されて、振り回されて。醜態を晒すのはもうたくさんだ。眠れぬ夜を過ごすのも、これ以上心を乱されるのも、もう耐えられない。

 何、すぐに終わる。もう俺に関わるなと少し脅してやればいい。言うことを聞かなければ食べてしまおう。そうだ、そうしよう。


 そう思い立って、勢いよく部屋の扉を開けたところで、両手に何かを抱えたトキが飛び込んできた。


「わぁっ、ナギ! 急に開けないでよ!」


 目の前には、不満そうに口を尖らせるトキ。俺は何も言えずに呆然と立ち尽くした。

 危なかった。引き戸でなければ、もしも押し開ける仕様の扉だったら、間違いなくトキの体を弾き飛ばしていただろう。骨を折るくらいで済んだらマシで、最悪の場合にはきっと……。

 どくどくと鳴る心臓を宥めるように深い溜息を吐き出してから、ふと思い出す。何を心配しているんだ。俺は今正に、この子供を食い殺してでも縁を切ろうとしていたのに。


「でも丁度良かった、はい、これ!」


 ずい、と差し出された何かに、動揺でまだ揺れる焦点を何とか合わせる。

 それは花束のようだった。摘んできたばかりなのか、野菊を思わせる花弁はしっとりと夜露に濡れている。暗がりの中ではよく見えないけれど、どうやら鮮やかな濃い青色をしているようだった。


 こんな夜更けに何故ここにいるんだとか、一体この花は何なんだとか、聞くべきことは山のようにあった。けれど俺の目は差し出された花束の茎を掴むトキの両手に釘付けになった。

 怪我をしている。

 切り傷のようなものをたくさんつけて、それ以外にも見える範囲にはいくつかの痛々しい痣が散っている。闇の中でもはっきりとわかる微かな血の匂いに、焦りとも怒りともつかない感情が胸の奥から噴き出すように込み上げるのを感じた。


「どうした、その手」


「ん? あぁ、この花を取ってこようと思って……これ、夜にしか咲かないんだ。ランプも持っていったんだけど、よく見えなくて草でいっぱい切っちゃった」


 大したことないとでも言いたげに苦笑いを零しながら、トキは手の甲の傷を猫のように舐めてみせた。


「これ、すごく綺麗な青で、ナギの目の色にそっくりなの。だから見せてあげたくて」


 こんな夜更けに森に入ったと知られたら母親に大目玉を食らうから、誰にも言わずにこっそり外に出たのだと言って、トキはどこか満足そうに笑った。

 月明かりに浮かぶ小さな手は傷だらけで、よく見れば柔らかな頬や額にまで細かな切り傷が付いていた。思わずそっと頬に手を這わせれば驚く程に冷たくて、俺は更にまた言葉を失った。一体どれだけの時間、凍える夜風に晒されていたのだろうか。


 俺はもう、どこから叱れば良いのかわからなくなった。こんな夜更けに外に出たことも、一人で森に入ったことも、傷だらけになるまで花を探したことも、それら全てを何ともないと思っていることも。

 きちんと叱ってやらなければならなかった。冬の森には狼だっている。夜道を踏み外すことだってあるかもしれない。手を切った草が毒を持っていたらどうなる。こうしてお前が怪我をして帰ってきたら、お前を大切に思う皆がどんな気持ちになると思う。


 ちゃんと伝えて、自分の身を大切にすることを教えなければならなかった。けれどもう何から伝えていいかわからなくて、俺はただトキの冷えた体を暖めるように、強くぎゅっと抱き締めた。


「ナギ? どうしたの?」


 不思議そうに問いながら身を捩って、トキは手にした花をそっと床に置いた。それから小さな両手を目一杯に伸ばして、俺の背に腕を回して懸命に抱き締め返そうとする。俺がトキを抱える腕に力を込めれば、トキも同じようにぎゅっと縋り付いた。


 もう駄目だ、と思った。

 しがみつくようなその仕草から感じられるのは、俺に対する無防備な愛情以外の何物でもなかった。体の奥底から溢れるように湧き上がる感情をぐっと飲み込んで、微かに震える指でもう一度トキの頬に触れる。


 ぱちり、小さな火花が上がったような気がした。俺の体中を忙しなく駆け回る弱い電流が、トキの持つ柔らかな何かと繋がりたがっているような気がした。

 どうしようもなく惹かれている。溶けて、絡まって、一つになりたがっているのを感じる。それは決して肉体的な意味ではなくて、もっと精神的な意味でだ。まぁ、俺も一応は雄だし、いつか物理的にも繋がることが出来たなら、それはそれで喜ばしいことだろうけれど。


 トキが不思議そうに首を傾げて、押し黙る俺の瞳を覗き込むように視線を合わせる。淡い月明かりがトキの蜂蜜色を薄闇の中にくっきりと浮かび上がらせて、迷いのない真っ直ぐな視線が正面から俺を捉えた。持ち前の意思の強さと、俺への想いを溶かして煮詰めて固めたような、丸い金色。


 ああ、綺麗だ。


 反射のようにそう感じた瞬間、細く眩い火柱が体の中心を貫くのを感じた。ドン、僅かに遅れて重たい音が脳に響く。ぱりぱり、ぱちぱち。あちこちで小さく爆ぜる炎の粒。

 俺の手足の先に至るまで、細胞のひとつひとつに火が付けられていくような気がした。これは愛だ。紛れもない、もう否定しようもない『愛しい』という感情だ。


 じんわりと、痺れるような余韻を残しながら少しずつ収まる炎。全身の感覚を取り戻すまで、俺はしばらく身動きが取れなくなるほどの幸福感に包まれた。

 愛しいと、人間のようにそう思わせてくれる存在が自分の生にもあるということ。それだけで俺にとっては奇跡のようだと思った。


「トキ」


 呼んで、暖かさを取り戻した頬に触れる。不思議そうに俺を見上げて、トキは俺の手のひらに頬を摺り寄せた。ここに存在するだけじゃなく、手を伸ばせば届く距離にある。それは何と幸福なことか。言葉にはし難い、けれど確かに感じる暖かな感情の波が、漣のように胸の内を優しく湿らせていく。


 もう手遅れだ。

 俺はどうやっても、この小さな子供から逃げられやしない。


 辿り着いたその答えに、俺は心のどこかで安堵した。逃げられないのならば仕方がない。今やこの身を覆い尽くすように育ちきってしまったこの感情を、素直に認めてやるしか道は無いだろう。完敗、降伏、降参の白旗だ。

 この子が健やかに育って大人になり、その生を終えるまで見守ろう。そして俺が死ぬまで、いや、死んでも。この子のことを愛そう。

 どこか諦めにも似た心持ちで、俺は深いため息を吐き出した。悪くはない。むしろ清々しい気さえする。冬のムクドリのように羽の一本一本が大きく膨らんで、細かな羽毛の先端に至るまで、俺は全身でトキへと溢れ出す確かな愛情を感じていた。


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