7. 暴力的な甘さ
ゴト、ゴツ
ゴ、ゴツッ
柔らかな、それでいて重厚感溢れる音で目が覚めた。まだ陽が昇りきっていない部屋の中は薄暗く、蹲っていた窓辺は朝露でしっとりと湿っている。山並みの表面を淡く金色に照らし出す眩しい朝日。本格的に冬が到来したこの季節なら、恐らく今の時刻は朝の五時といったところだろうか。
起き抜けの冴えない頭でぼんやりとそんなことを考えていると、再びゴツゴツ、とノックの音が響いた。
どこか拙いその響きの後に、「いたっ」という小さな悲鳴が混じる。俺は溜息をついてから窓辺を降りて、扉の向こうにいる小さな客人が勢い余って部屋に転がり込むことがないように、ゆっくりと扉を開けてやった。
「……呼べばいいだろう」
「えへへ、だってこれ、かっこいいんだもん!」
黒い真鍮で出来た羊のノッカーを指差して、トキが悪戯っ子のように笑う。
代々の司祭が俺に用があるときに鳴らしていたもので、基本的には大人が使うために作られているそれは、小さなトキにはやや高すぎる位置に付いている。身長が足りずに爪先立ちで掴むものだから上手く鳴らせなくて、それどころか時折指を挟んだりもしている。
これを使わずに呼べばいいと何度も言ったのだけれど、トキはこんな時ばかり子供らしい意固地さを発揮して、俺が部屋にいるときは意地でもこれを鳴らすのだと言って聞かない。だから最近の俺は極力礼拝堂に、つまりトキの目に付き易いところにいるようにしているのだけれど、流石にこんなに朝早くに来るとは想定外だった。
開け放した樫の木の扉から、凍える冬の冷気を纏ったトキがするりと部屋に入りこむ。羊の毛で出来た外套に、同じ素材の耳当てと首巻きを付けてはいるけれど、まだ陽が昇らない今の時間は相当に寒かったのだろう。清らかな白い頬や鼻先が痛々しいほどに赤くなっていて、逆に花弁のような唇は普段の桃色を失っていた。俺は扉を閉めてからすぐに指先を弾いて、滅多に使わない暖炉に火を灯した。
「どうした、こんな早くに」
「これ、持ってきた! 母さんが、天使さまに焼きたてを持って行きなさいって!」
そう言いながら、トキは背負っていた羊の革の鞄から、布に包まれた何かを取り出した。ふわりと広がる甘い匂い。覚えのあるそのふくよかな香りに、ああ、もうそんな季節かと思った。
この村では、というよりもこの国では、クリスマス前のこの季節になると必ず、パネトーネと呼ばれるパンケーキのような菓子を焼く。子供の頭ほどもある大きな円筒型の菓子パンだ。
生地には干した蒲萄や棗や胡桃をこれでもかと入れて、採れたばかりの新鮮な卵とバターをふんだんに使ってしっとりと焼き上げる。これを家族や隣人と分け合って食べることで、共に暮らす人々との結束を高め、来たる生誕祭までの日々を祝うのだという。
トキの母親は村で唯一のパン屋で働いていて、この時期になるとパン屋は日の出前から従業員総出でパネトーネを焼く。そして当然のように一番初めに焼き上げたそれを俺のために教会に持ってきて、一年間の感謝と冬の間の安全を願うのが毎年のお決まりだった。
実のところ、恐ろしい程に甘くて果物の匂いが強いこのケーキが俺は大して好きではないのだが、トキが両手に抱えているそれは何故だか少し美味そうに見えた。
「ん」
「ナギ、子供みたい! ちょっと待って」
口を開けて食べさせるよう促せば、トキはクスクスと笑って手際よく小さなナイフでパネトーネを切り分けた。
焼きあがったパネトーネを家族の分だけ切り分けるのは、昔から子供の仕事だ。子供の手でも扱いやすい果物用のナイフを器用に使いこなして、トキは丁寧に二人分を切り出した。それからゴソゴソと鞄の中を探って、ひよこ色のクリームがたっぷりと詰められた小瓶を取り出す。
クリームと言うと子供が喜びそうだが、これは大人用だ。カスタードに白ワインがたっぷりと練りこんである。どれくらいたっぷりかというと、蓋を開けたときの匂いだけでトキが顔をしかめるくらいには、たっぷりだ。
酒入りのクリームを俺の皿にだけ添えて、トキはフンと鼻を鳴らしながら満足げに胸を張った。
「ナギ、はい!」
手で小さく一口大にちぎったパンに、たっぷりとクリームを絡めとる。そのまま俺の口元に差し出して、トキは期待を滲ませた瞳で俺を見つめた。乞われるままに口を開いて、餌付けされる鳥のようにトキの手から直にパンを食べる。
思っていた通りそれは俺の舌には暴力的に甘かったけれど、鼻に抜けるワインの香りは爽やかで、新鮮な卵の味も悪くなかった。気が付けば俺はもう一口目を催促していて、トキはそんな俺を嬉しそうに眺めながら、今度はもう少し大きくパンをちぎった。
「おいしい?」
「悪くない」
「おいしいって言えばいいのに!」
素直じゃないなぁ、と笑いながら、トキは自分の口にもパンを放り込んだ。もぐもぐと咀嚼する膨らんだ頬が冬の栗鼠を連想させて、思わず吹き出しそうになる。
ぐっと喉を鳴らした俺を見て、トキは慌てたように鞄から小さなボトルに入ったワインを取り出した。俺が喉を詰まらせたと思ったのだろう。「大丈夫?」と視線で聞いてくる様子はほんの少し心苦しかったけれど、本当のことを言うときっと怒るから、俺は大人しくワインを受け取りながら大丈夫だと手振りで示して見せた。
差し出されたワインをゆっくりと味わいながら、美味しそうにパンを頬張るトキの頭を柔らかく撫でる。トキは少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、すぐに擽ったそうに微笑んで、俺の掌に擦りつけるように頭を寄せた。
可愛いな、と思った。
それは俺の心の上澄みに浮かんだ紛れもない本心で、あの日見つけた俺の中の知らない感情とよく似た色をしていた。
あのとき腹の底で見え隠れしていた小さなそれは、今や随分と大きく育って、まるでふてぶてしい猫のようにこの胸の中心に居座っている。けれどまだその正体が何なのかはわからなかった。ただそれが思っていたよりもずっと大きくなる種類の感情で、いずれは俺の内側を全て埋め尽くすのではないかという予感めいた確信だけは、不思議と感じることが出来た。




