5. 太陽の色をした子供
どうせ俺の姿は見えないだろうと高を括っていたのだが、これはどうやら、しっかり見えているらしい。
大きな蜂蜜色の目を真ん丸に見開いて、赤毛の子供は惚けたようにぽかんと口を開けたまま俺を凝視している。顔を見ても雄か雌か判断がつかないような顔立ちだけれど、匂いから察するに恐らく雌だろう。全ての動物は雄と雌で匂いが違う。人間もその例外ではない。
改めて観察してみると、先ほどまでの伸びやかで力強い歌声から想像していたよりも、ずっと小さい子供だった。年の頃は十くらいだろうか。この村のほぼ全ての子供たちが着ている木綿の服に身を包み、恐らくは聖母マリアだろう人影が刻まれた小さな金色のメダイを胸に下げている。
大窓から差し込む午後の光を背に受けて、子供らしい丸みを帯びた頬の産毛が淡く橙色に光ってその輪郭を彩っていた。柔らかそうな目元は痛々しい程に赤く染まっていて、その上を乾きかけた涙の痕が幾筋も伝っている。長い睫毛にまだ光る雫を宿したまま、少女はぱちくりと瞬きをして呟いた。
「てんしさま……?」
恐らくは家人から受け継いだのだろう、随分と年季の入ったロザリオを小さな両手でぎゅっと握り締めて、赤毛の少女は俺から視線を外さずに答えを待った。興奮気味に、けれど少しだけ不安そうに。
さてどうしたものかと思ったものの、ここで否定していつかの夜のように質問責めに会うのも面倒くさい。
仕方なく、小さく頷いて見せる。途端に少女はパッと瞳を輝かせて、思い出したように座り込んでいた床から立ち上がった。ぱたぱたと服の裾に付いた埃を手で払いながら、少しだけ緊張した面持ちでもう一度俺を見上げる。
とろりとした金色を微かに帯びる蜂蜜色の瞳。好奇心そのものという感じのそれをひたと俺に向けて、少女は俺の全身を物珍しげに観察した。
そんなにも見つめられるとあまり居心地が良くないのだが、そんなことはお構いなしのようだった。しばし遠慮なく俺を眺めたあとで、少女はこちらへ一歩踏み出しかけて、そうしてもいいのか迷うように細い足を引っ込めた。ちらりと投げかけられる伺うような視線。俺は小さくため息をつきながら、ちょいちょいと手招いてやった。
嬉しそうに歩み寄る少女の小さな手が、恐る恐る俺の黒い羽に触れる。初めは指一本だけ。そっと突つくように小さく触れて、それから指を増やして指先で撫でるように触れる。感触が気に入ったのか、やがて両手で抱きつくようにわしわしと撫でられた。
子供というのは本当に、驚くほど遠慮が無い。俺の場合は羽の先まで神経が通っているわけではないけれど、何だかむずむずとむず痒いような、妙に落ち着かない気分にさせられた。
そうしてひとしきり俺を撫で回したあとで、流石に触りすぎたと思ったのか、少女は少しだけ気まずそうに、そっと体を離した。俺の機嫌を損ねていると思ったのだろう。またもおずおずと投げかけられる視線に、怒ってなどいないと告げるようにほんの少し肩を竦めてみせた。
そう、俺は怒ってなどいなかった。むしろこの少女が泣き止んだことで、つい先程まで言い知れぬ不安に波立っていた心が、驚く程穏やかに凪いでいた。
これは一体どうしたことか。確かに俺はこの村に長く関わってきたけれど、村の住人を前にして、こんなにも安らかな気分になったことなど無かった。そして何より、自分の体の一部である羽を触らせるなど、共に暮らしていた歴代の司祭にさえ、ただの一度も許さなかったというのに。
この世界に生まれてから三百年あまり。自分でも説明のしようが無い、初めて感じる不思議な感情が芽生えつつあるのがわかった。けれどそれは探りようも無いほど微かな胎動で、しかも俺の身の内のとても深いところに見え隠れしていた。どうにも手の出しようがないその未知過ぎる感覚に、俺はひとまず気付かない振りをして、嬉しそうに頬を上気させる少女に向き直った。
どうしてここで一人で歌っていたのか、何故泣いていたのか、聞いてみたいと思った。もっと率直に言えば、俺はこの少女のことが知りたかった。そう思う理由には、また気付かないふりをした。
「なんで泣いてんの」
今から思えば、俺も些か緊張していたのかもしれない。率直すぎるほど率直なその問いに、少女は一度ぱちくりと瞬きをした後で、悲しげに眉根を寄せた。震える唇をぐっと引き結んで、耐えるように噛みしめる。潤んだ蜂蜜色の瞳にまた大粒の涙が浮かんだ。
そんなに泣いたら大きな目玉が溶けてしまうんじゃないかと思うくらいに、ぼろぼろと溢れては落ちる涙。しゃくり上げながら途切れ途切れに語られた内容を要約すると、こうだった。
少女は歌うことが大好きで、けれどお世辞にも上手いとは言えなかった。好きなのに上手く歌えないことに悩んで、けれど先代の司祭だけはいつも良い声だと褒めてくれた。秘密の練習にも嫌な顔一つせずに付き合ってくれて、たとえ上手く歌えなくても、司祭が聞いてくれるだけで嬉しかった。けれど彼はもういない。いつまで経っても上手く歌えない自分も、聞いてくれる人がいなくなってしまったことも、もう二度と彼に会えないことも。何もかもが悲しくなって泣いていたのだそうだ。
小さく震える手で胸のメダイを握り締めて、少女は尚もぽろぽろと水晶のような涙を零した。この村の子供は生まれると同時に洗礼を受けて、そのときの司祭からお守りとしてメダイを授かる。この子にメダイを授けたのは、先日見送ったあの司祭だ。
身なりや表情を見れば、この子が家人や村人から愛されているのはわかる。けれど、きっと一番の理解者を失ってしまったような心境なのだろう。溢れ続ける涙にはただ純粋な痛みと悲しみだけが宿っていて、己を愛してくれた者への限りない愛情だけが込められていた。それはどこまでも清らかで、人間らしい面倒くささに溢れている気がした。
「……俺も、悪くないと思うけど」
気が付くと、そう呟いていた。理解が追いつかないと言うようにぱちくりと目を瞬かせる少女の前に屈み込んで、小さくため息をつきながら付け加える。
「お前の声」
そっと見上げてくる瞳が一瞬だけ大きく見開かれて、少女はふにゃりと眉を緩めて嬉しそうに笑った。暖かな日差しに透ける赤毛がふわりと揺れて、まだ潤んだ蜂蜜色がゆっくりと瞬く。きらきらと、目元を彩る光の粒。よく晴れた冬の木漏れ日のような笑顔だと思った。
「あー……、お前、名前は何て言うんだ」
「私? 私はトキ! 天使さまは?」
「え?」
「天使さまの名前は?」
問い返されて、そう言えば自分にも名前があったのだと思い出す。思えば今まで天使とだけ呼ばれていたから、名を聞かれたことなど無かった。
「……ナギ」
自分の名を口にするのは随分と久しぶりな気がした。本当はもう少し長ったらしい名前なのだが、目の前の子供には難しい発音だろうから、これで十分だ。
「ふぅん。ナギ、ナギ……あ、ナギさま?」
少女が記憶にすり込むように何度も俺の名を呟く度に、何だか痒いような気恥ずかしいような、じっとしていられなくなるような面倒くさい感情がふつふつと湧き上がる。
思い出したように敬称を付けようとしたので、それはいらないと言ってやった。丁寧な言葉遣いにはあまり慣れていないのだろう、トキは嬉しそうに笑って、何度も俺の名前を繰り返した。
「ナギ!」
「……なんだよ」
勢いに負けてつい返事をしたけれど、別段俺に言いたいことがあるわけではないらしい。覚えたての言葉を使いたがるのは子供の性だ。意味も無く何度も呼んで、その度に鬱陶しそうに視線を投げる俺を見て、トキは心の底から嬉しそうに笑った。
あぁ、何だか、妙な気分だ。
トキの笑顔を見る度に、腹の奥底にまたちらちらと見え隠れする不思議な感情。今すぐにその尻尾を掴まえて目の前に引きずり出したいような、けれどそうするのが少し怖いような。
全く、何だって言うんだ。これまで飽きるほどに長く生きてきたけれど、自分自身でも正体がわからないようなものがまだ潜んでいることに、俺は驚きを隠せなかった。面倒くさいことはこの上なく嫌いなはずなのに、何故だか悪くないと思った。




