4. 運命の出会い
調子外れな歌が聞こえてきた。
村人たちの言葉を借りるなら、天に座す神のもとへ旅立った老司祭の旅路を、安らかなものにするべく捧げる聖歌だ。梁の上に寝そべりながら覗けば、村の子供たちで構成されたデコボコの聖歌隊が涙声を張り上げ、鼻を啜りながら嗚咽混じりに歌っているのが見えた。
主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
へったくそ。
感想はその一言に尽きた。調子外れで、どいつもこいつも泣きじゃくるばかりでロクに歌えていやしない。音程もバラバラ、もとより四階すらきちんと定まっていない子供たちの涙混じりの歌声は聞くに耐えなかった。けれど、恩人の死を悼む彼らの心だけは、痛いほどに伝わる気がした。
本当に人間は面倒くさい。たくさんいる同胞の一人が死んだだけで、こんなにも涙を流して心を痛めるだなんて。弱いんだか強いんだかわからないな、と思った。
ため息をついて、まだまだ終わりそうにない酷い聖歌に耳を傾けながら、俺は明かり取りの窓越しに見える山並みを眺めた。もうじき本当の冬が来る。見上げる頂の先端は既に白く清らかに染まっていて、今年もたくさん雪が降るだろうとぼんやり思った。
俺はここでただ静かに、心穏やかに暮らしたいだけだ。気の向くままにワインを飲んで、ほんの時たま気が向けば村人に助言をしてやって。けれどこれからは、そうも言っていられなくなるだろう。
きっと遠からず、また新しい司祭がやってくる。これまでとは違い、もうこの村出身の聖職者はいない。街にある大きな教会から派遣されて来る奴なら、まず間違いなく、この姿だけで俺を人間の敵だと判断するだろう。だがそれも仕方のないことだ。この何百年かがあまりにも平和で忘れていたけれど、昔は人間と接触すればそれなりに迫害されたこともある。この村の人間が穏やかな奴ばかりだったせいで、俺も少し、平和ボケしすぎたようだ。
気付けば聖歌の合唱は終わっていて、子供たちはただただ泣いていた。皆が最後の別れを告げながら、棺の中に横たわる司祭の体を包むように、白い野の花を降らせていく。
さようなら。ありがとう。
その言葉だけが木霊のように、教会の中に静かに響いていた。俺は自分の黒い羽を一枚だけ抜き取って、梁の上からそっと落とした。もう目覚めることのない彼の胸の辺りに舞い落ちたそれは、後から降り注ぐ柔らかな花々に埋もれて、すぐに見えなくなった。
***
何だか聞き覚えのある声だと思った。
歌、と呼んでいいのかどうか微妙な線だけれど、多分、歌っているんだろう。礼拝堂から微かに漏れ聴こえてくるそれは、調子外れと言うより、そもそも音程というものがまるでわかっていないような歌声だった。
昼寝のために蹲っていた樫の椅子から立ち上がって、深く息を吸い込みながら思い切り伸びをする。窓から差し込む日差しの具合からして、恐らく昼過ぎだろう。妙な姿勢で寝ていたためか、それとも起き抜けに不協和音とでも言うべき歌声を聞いたからだろうか。少しだけ寝違えたように痛む首筋を摩りながら、俺は自分の部屋を後にした。
薄暗い廊下をひたひたと歩きながら、尚も聞こえ続ける歌声に耳を澄ませる。お世辞にも上手いとは言えない旋律だけれど、それは不思議と耳に馴染んだ。やはりどこかで聞いたことがあるなと思って、ふと思い出す。
数日前に見送ったばかりの年老いた司祭。その葬儀で、村の聖歌隊の子供たちが全員揃って歌っていた。まぁ、あれも歌と呼ぶには酷すぎたけれど、あの縒り合わさった幼い声の束の中に、この声も入っていたはずだ。
普段は礼拝を覗いたりしなかったから、思えば聖歌隊の歌をちゃんと聞いたのはあれが始めてだった。村の子供はほぼ全員が半強制的に聖歌隊に入るのだし、この調子外れな幼い声の主も、きっとあの場にいたに違いない。
聞き覚えがある理由をそう結論付けて、礼拝堂へと続く扉の前に立つ。手彫りの彫刻が施された重厚感溢れる古樫の扉をそっと押し開けて、俺は猫のように音もなく体を滑り込ませた。
つい今しがたまで分厚い扉に隔たれていた歌声が間近に迫り、やはり調子が外れたその音程に苦笑いが零れる。どうやら祭壇の前に跪いて歌っているらしい。据え付けられた簡素な長椅子の波の向こうに、揺れる小さな頭が見えた。
ふわふわと風になびく陽色の赤毛。その鮮やかな色合いが質素な教会には不釣り合いなほどに綺麗で、俺は無意識のうちに一歩、また一歩と近付いた。
不出来な鈴が鳴るような声で紡がれる歌は聖母への賛辞を綴っていて、全ての恵みの母である太陽の色をしたその髪が、どこか象徴的に思えた。
めでたし、聖寵充ち満てるマリア。
主、御身とともにまします。
天主の御母、聖マリア。
罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈りたまえ。
恐らく歌っている本人は歌詞の意味を完全には理解していないのだろう。ところどころで発音が曖昧だった。
それにしても。近くで聞くと、なるほど、これは酷い。さっきから何曲も歌っているのはどれも讃美歌のはずなのだが、むしろ冒涜といってもいいレベルじゃないだろうか。
けれど不思議なことに、ちっとも不快な気分にはならなかった。高く伸びやかな歌声は耳に心地良くて、むしろもっと聞いていたいとさえ思うほどだった。上手い下手で言えば明らかに下手なのだけれど、声自体は、なかなかどうして悪くないと思った。
音を立てないようにそっと歩み寄って、こちらに気付く様子もなく熱心に歌う子供の、華奢な背中が見える位置にそっと座る。
硬い古木の長椅子がほんの少しだけ軋んで、けれど歌声は途切れることなく響き続けた。そのまましばらく、俺はその不思議な音色に聴き入った。
目を閉じて深く息を吸い込むと、瞼の裏で小さな光の粒が歌声に合わせて踊るように輝く。金色にチカチカと揺れるそれは、まるで意思を持つ生き物であるかのように、淡く光る残滓を漂わせながら、高く穏やかに空へと登っていく。
少女とも少年ともつかないような、澄み切った透明な声。それでいて人間らしい感情をしっかりと携えていて、不揃いながらどこか言葉には表し難い凛とした美しさがある。この声が聖歌隊の列に紛れて、正しいけれどどこか味気ない和音の中に消えてしまうのは惜しい。そう思えるほど、実に綺麗な声だった。
やがて歌い疲れたのか、歌声は唐突に途切れた。その代りに啜り泣くみたいな小さな泣き声が、ヒックヒックとしゃくり上げる音に混じって響きだす。
突然のその変化に俺はどうしたものかと思い悩んで、けれどこれといって有効そうな手立ては思いつかなかった。当然だ。俺は人間の子供とどう接したらいいかなんて知らないし、考えたこともない。
しゃくり上げ、頼りなげに肩を震わせるたびに、肩まである鮮やかな赤いくせ毛もひょこひょこと跳ねる。
その光景に何故だか俺の心までもが掻き乱されるような気がした。子供の泣き声というのは、こんなにも落ち着かなくなるものだっただろうか。そんなことを考えながらそっと覗き込めば、丁度フルフルと頭を振ったその子供と、バチリと音が聞こえるほどに目が合った。




