3. はじまりの夜
常には無い騒々しい悲鳴と、血生臭い獣の吐息。
五感を強烈に刺激する不快なそれに、俺は心地よい微睡みから否応なしに引きずり起こされた。安らかな眠りを妨げられたそのときの俺は相当に不機嫌で、全身を覆う羽が怒りで毛羽立っていたことをよく覚えている。
「失せろ」
そう吐き捨てて、怯えを滲ませる声で唸る獣の群れを一睨みしてから、俺は両の羽を最大限に開いて羽ばたかせた。つむじ風のような突風が吹き上げて、狼の群れを一匹残らず小石のように吹き飛ばす。風音に混じる鳴き声はあっという間に遠ざかって、あたりには夜の静けさが戻った。
「あ、あなたは……?」
どうせ村の人間には俺の姿が見えないだろうと思っていたのだが、何人かは見える奴もいるようだった。小さな子供を庇うように抱き抱えながら、肩を震わせて信じられないものを見るように俺を凝視するいくつかの目。
チッ
畏怖を固めたようなその色に、無意識のうちに舌打ちが漏れた。これだから嫌なんだ。こいつらにとっては俺も狼も変わらない。むしろ異形の俺の方がよほど脅威だろう。さてこの場をどう収めたものか。いや、わざわざ収めてやる必要もない。ただこのまま立ち去って、二度と姿を現さなければ良いだけだ。
そう思って踵を返しかけたところで、村人の一人が震える足を踏み出した。驚く間もなくずんずんと俺に近付いて、あろうことか羽毛混じりの俺の手を両手でがっしりと掴んだ。
「あ、ありがとうございました……!」
思い切り眉根を寄せた俺に構うことなく、どうやら村の長らしいその男は涙を浮かべて礼を言った。それに続くように、他の村人たちもまだ慄きながらもそろそろと近付いてきて、口々に狼を退けたことへの感謝を述べた。
長は俺に向かって、森に住む神か、と聞いた。俺は違うと答えた。では天使か、と彼は聞いた。俺は少し悩んでから、それも違うと答えた。
それでは一体何なのかと首を傾げながら問われて、面倒くさくなった俺はため息をつきながら好きに呼べと言った。彼は少しだけ悩んだあとで、俺を『黒い羽の天使様』と呼んだ。天使じゃねぇって言っただろうが。そう思いつつも、訂正するのが面倒だったので放っておいた。
次の日、森に村人が総出でやってきた。「何がお好きだかわからないから、色々持ってきました」と言って、肉やら魚やら果物やら葡萄酒やら砂糖菓子やら、木綿の布に包んで持参したそれらをズラズラと俺の前に並べた。
彼らの村が決して裕福ではないことを、森の奥からその暮らしぶりを覗いていた俺は知っていた。これだけ集めるのは大変だ。きっと自分たちの食べるものも全て持って来ているのだと思った。
ふと気付けば小さな子供が服の裾を握り締めながらじっと砂糖菓子を見つめていて、俺は何とも面倒くさい気分になった。
俺は自分の安眠を妨害された憂さ晴らしをしたに過ぎず、それが結果として彼らを助けることになったというだけの話だ。こんな仰々しい礼の品などこれっぽっちも求めていない。だから全て持って帰れと告げたら、そんなわけにはいかないと断固として拒否された。
俺がいらないと言っているのに、この強引さは何なんだ。感謝していると言うのなら俺の言うことを聞けば良いだろうに。そう思いながら、俺は渋々山のように並べられた品の中から鹿肉と良い香りのする葡萄酒だけを摘まみ上げて、他はいらないから持って帰れと告げた。
ワインと肉がお好きなのですか、と長は嬉しそうに聞いた。俺はもう心底面倒くさくなって、ため息混じりにそうだと答えた。
それから彼らは、肉とワインを持って俺のもとを度々訪れるようになった。一方的な施しを受けるようでどうにも気分が悪かった俺は、時折現れる狼の群れを追い払ったり、少しだけ雨雲を呼び寄せたり、大きな天災の前触れを教えてやったりした。その度に彼らは大層喜んで、食べきれないほどの肉と樽のワインを持ってきた。
そして雪がちらつき始めたある日、冬の森は寒いから教会に住んではどうかと聞いてきた。教会の一番良い場所に俺のための部屋を設えたから、と。俺は首を振って静かなところが好きなんだと言った。そうしたら、羊の毛で出来た耳当てを付けた長は嬉しそうに笑って言った。
「そうだと思って、教会は蒲萄畑の向こうの丘の上に立てました。畑と村が一望できて、とても静かで、朝と夜には気持ちの良い風が吹きます」
頼んでもいないのに、俺には首を縦に振る以外の選択肢など用意されていないようだった。この純粋な好意からくる強引さには目を見張るものがある。渋面のまま、半ば呆れてものも言えずにいる俺を見て、長は悲しそうな声で「ご迷惑だったでしょうか……」と呟いた。あんまりにも肩を落として悲しそうな顔をするものだから、俺はまた面倒くさくなって、溜息を吐きながら「わかった」とだけ答えた。
教会の奥の、一番広くて日当たりの良い部屋が俺のために用意されていた。一番広いとは言っても小さな教会だから、大人が四人も入れば窮屈に感じる程度の広さだった。
室内は塵一つなく掃除がされていて、でこぼこと歪んだ薄いガラスの窓も綺麗に磨かれていた。黒い真鍮と樫の木で出来たベッドと、恐らくは同じ樫の木で出来た丈夫そうな椅子が一脚。小ぶりの暖炉と本棚もあった。本棚の中に聖書が入っていたのは嫌味かとも思ったが、純粋にただの好意で置いているようだった。
用意されていた家具はそれだけで、無駄な物が一つもない室内はすっきりとしていて、柔らかな木の香りで満たされていた。
悪くない、と思った。他に羊の毛で編んだ毛布も俺のために用意されていたけれど、それは自前の羽がある俺には必要ないものだったから、お前が使えと村の長に押し付けた。
何よりも俺が一番気に入ったのは、部屋の扉の外側に付けられたノッカーだった。村でほんの少しだけ飼っているメリノー種の羊を象った飾りに、掴んで扉を鳴らすための重厚な輪が下がっている。黒い真鍮で造られたそれは俺の目にも良く出来ていて、渦を巻いて天を突く二本の角が俺とそっくりだった。俺に用があるときはこれを鳴らして呼ぶのだと、村の長は自慢げに鳴らしてみせた。
ゴツ、ゴツ
分厚い木の扉に重い真鍮が当たる低音は心地良かった。それは目を閉じて聞くと深い森の中で耳にしていた動物たちの鼓動のようで、どことなく俺を安心させる響きがあった。全くもって悪くない、と思った。
嫌ならば嫌だとハッキリ言う俺が文句を言わないことに、村の長は何度も満足げに頷いて微笑んだ。それでは、と立ち去ろうとする彼に、俺は予てから疑問に思っていたことを聞いてみた。
お前は俺が見えるだろう。俺の姿を見ても、悪魔だとは思わないのか。この黒い羽も角も牙も、お前たちが持つ本に出ている悪魔にそっくりだろう、と。けれど村の長は、おかしなことを言うものだとでも言うように、不思議そうに首を傾げてからにっこりと笑って言った。
「あなたはいつも私たちを助けてくださいます。私たちにとっては、それこそが真実です」
本当に、なんて面倒くさい生き物だろうと思った。
一方的に寄せられる信頼は鬱陶しくもあったけれど、今更他の地へ移ったり、ましてや村の人間を食べ尽くすだなんて面倒な考えは浮かばなかった。その方が比べるべくもなく何百倍も疲れるからだ。
そんなことをするよりも、時折気紛れに手助けをしてやることで、村で作られる悪くないワインや、村で採れたオリーブの油で焼いた悪くない鹿肉を食べている方がずっと楽だった。
夏は零れ落ちそうな青空の下で良く冷えた辛口の白ワインを飲んで、冬は降るような星空を眺めながら程よく温めた赤ワインにシナモンの小枝を浮かべる。春は柔らかく煮込まれた羊肉と、秋には香ばしく焼き上げた鹿のロースト。付け合わせの青臭いピクルスには毎度眉を顰めるけれど、そのどれもがなかなかに悪くなかった。人間は何かにつけて理解出来ないことばかりする生き物だけれど、食べることに関してだけは脱帽と言う他ないだろう。
そうして俺は、半分ほどは餌付けの効果で、村の教会に住むようになった。村は少しずつ大きくなって、最初はほんの掌ほどしか無かった蒲萄畑も立派になった。教会の司祭も何度か代替わりをした。そうして気付けばあの頃の村人が一人もいなくなって、その子孫だけになった今も、俺は変わらずここにいる。




