13. 別れのとき
あぁ、困ったな。トキが泣いている。
苦笑いを零しながら、トキの大きな瞳から溢れ出る涙を舐めとって、頬に小さく口付ける。生涯守ると誓ったのに、こんなに早くその約束を違えることになるだなんて。
ごめんな、と囁けば、トキは一層眉を歪めて涙を溢れさせた。俺の羽を握り締めながら、胸の傷から溢れる血を必死に小さな両手で抑えようとする。馬鹿だな、そう言って止めようとしても、トキは頑として譲らなかった。清らかな白い両手が見る見るうちに俺の血に染まっていく。
静かだった。
トキが啜り泣く声以外には、何も聞こえなかった。割れた窓から柔らかな雨の匂いがゆっくりと降りてきて、まるで俺の血を洗い流してくれるかのように優しく香った。
「離れなさい! それは私たちを喰らって生きる化け物だ……!」
呆然とその場に立ち尽くしていた若い司祭が、思い出したようにトキに向かって叫ぶ。明らかに動揺しているようだった。顔は驚くほどに血の気を失って、声も震えている。僅かに彼に残った使命感だけが、ぎりぎりのところでそう叫ばせているようだった。
「ちがう! ナギはそんなことしない!」
トキは俺から体を離さずに、燃えるような怒りを宿した瞳だけを司祭に向けて叫んだ。小さな体のどこにそんな力が、と思うほどにその声は力強かった。気圧されるように体を竦ませた司祭が哀れに思えるほど、トキは一寸の迷いもない声で尚も言い放つ。
「もしそうだとしても、それの何がいけないの? 私たちだって羊の肉を食べる。野菜だって、葡萄だって、生きてるものの命をもらってる。それと何が違うの?」
立ち竦む若い司祭は答えない。いや、答えられないと言ったほうが正しいか。
「村を守ってくれてるナギに、私の命を分けるのがそんなに悪いことなの? ねぇ、悪いことなの? だったら私は、悪い奴でいい」
俺の胸を押さえる自分の血まみれの手を見つめながら、トキは苦しげに眉を歪めた。
「こんな、こんなのが正しいことなら……、私は正しくなんかなくていい!!」
振り絞るような悲痛な声が礼拝堂に木霊する。縋るように血に濡れた頬を摺り寄せるトキを抱き寄せて、俺は深く長いため息を吐き出した。
嫌だと啜り泣く声、震える細い肩。確かに感じるトキの愛が、流れ続ける血と引き換えに、ゆっくりと俺の内側を満たしていくような気がした。
「ね、こんなのすぐ治るよね? ナギ、いつもすぐ怪我とか治すでしょ……!」
溢れる血は止まらない。
そのことにトキも気が付いているはずだった。小さな両手の隙間から零れ続ける暖かな体液にその身を浸して、一見するとトキまで酷い怪我をしているかのように見える。俺は薄く苦笑いを浮かべたまま、真っ赤に染まったトキの両手をそっと押さえた。
もういい。
もう離せ。
そう告げるようにやんわりと引き離せば、トキは顔をくしゃくしゃに歪めてぶんぶんと首を振った。
「いやだ、いやだ……!」
縋り付くように俺の胸元にしがみついて、泣きじゃくる小さな体。深くため息をつきながら刺さったままの銀色の矢に指を這わせて、俺は貫かれたその瞬間に悟っていた事実をトキに告げた。
「……残念だけど、これはちょっと、無理そうだ」
歪められた瞳から、目玉まで溶け出してしまいそうなほどに大粒の涙が溢れる。弱々しく首を振って尚も縋り付くトキの体を抱き締めながら、震える鮮やかな髪に、血に濡れた小さな耳や額に、そっと何度も口付けた。涙に濡れた暖かな頬が摺り寄せられて、甘く柔らかな感情で心が満たされていくのがわかる。
おかしなことに、俺の心はこれ以上なく穏やかに凪いでいた。死の淵を前にして、これほど安らかでいられるとは思ってもみなかった。トキが俺に与えてくれる全てが、たった独りでこの世を去ろうとしている俺を救ってくれている。
不思議なものだ。愛とは、なんと尊いものなのだろう。この命が消える最後の瞬間まで、そして恐らくは消えても尚、俺を救うたった一つの光のように輝いている。全く、本当に。俺も随分と人間くさくなったものだ。
「なぁ、トキ」
長くは保ちそうにない。言葉に出来るうちに、伝えておかなければならないことがあった。トキの心が重く真っ黒な憎しみに囚われてしまう前に、酷く歪んでしまう前に。
「恨むな、誰も。皆、自分が正しいと思ったことをしているだけだ。自分の信念に従っただけ。こいつが俺を殺そうとするのは、そうしなきゃならないと信じて今まで生きてきたからだ。それはこいつの罪じゃない」
すっかり青褪めた顔で立ち竦む司祭をちらりと見やって、それからもう一度トキの瞳を覗き込むように視線を合わせる。
戸惑い、反発、怒り、悲しみ。それらをおよそ等分に瞳の中に宿しながら、それでもトキは懸命に俺の言葉を理解しようと努めていた。恐らくはこれが最後になると、肌で感じているのだろう。
「だから恨むな。って言っても、無理か……」
堪えるように唇を噛み締めるトキに、ふっと苦笑いが込み上げる。喉を突く息苦しさに咳き込めば、唇からもごぽりと嫌な音を立てて鉄臭い血が溢れ出した。
「だって、どうしたらいい? こんなのいやだ、嫌だ……!」
救いを求めているのはトキのほうだった。安らかな顔をする俺とは対照的に、トキは息を乱しながら涙を溢れさせる。もう、何をどうすればいいのかわからないんだろう。地団駄を踏むように小さな体を揺すって、何度も弱々しく俺の羽を握り締める。
トキはまだ子供だ。目の前で、間近に迫った恋人の死を受け止めろと言うほうが無理な話だろう。
俺はもう上手く吸い込めなくなった息を細く吐き出しながら、あやすようにトキの頭を撫でて言った。
「じゃあ、待ってろ」
その言葉に、ぴくりと揺れる長い睫毛。
淡い期待を僅かに滲ませた瞳を正面から見据えて、柔らかな頬を両手で包み込む。指先に触れる形の良い耳を撫で上げながら、出来うる限りの穏やかな声で囁いてやった。嘘ではないと、そう伝わるように。
「また会える。だからその日まで、いい子で待ってろ」
そう言って、額を合わせる。じわりと伝わる熱が心地いい。
必ず、もう一度会える。俺には何故だかその確信があった。根拠など無い、馬鹿馬鹿しい話だ。世の中の恋人同士が抱くような愚かな妄想に過ぎないのかもしれない。けれどそれでも良かった。愛で繋がれた俺たちには、終わり逝く今この瞬間にさえ、出来ないことなど何一つとして無いような気がした。
「……約束?」
「ああ、約束だ」
微かな予感めいたものがトキの中にもあったのだろう。血の気のない唇を小さく震わせて、トキは念を押すように呟いた。それに頷きながら、そっと両手を開いてトキを促す。一瞬の躊躇もなく腕の中に飛び込んでくるトキを抱き締めながら、俺は羽の一筋に至るまで刻み込むように、トキの暖かな匂いを吸い込んだ。
「おい、お前」
もう、視線を動かすのも億劫になってきた。声音だけで彼に伝えているのだとわかるように低く、目の前の光景と自分のしたことに戸惑いを隠せないでいる若い司祭を呼んだ。彼がびくりと体を震わせるのが気配でわかった。
「俺が戻るまで、絶対に、こいつとこの村を守れよ」
彼は固まったまま何も答えず、けれどやがて小さく頷いた気配を確認してから、俺は深く息を吐き出した。目が霞んできた。もうトキの姿がよく見えない。
「……トキ、歌って」
指先の感触だけで愛おしむように唇に触れて、華奢な首筋に強請るように額を擦り付ける。
ほんの少しだけトキが息を呑んで、程なくして震える歌声が響き始めた。耳元で聞こえる涙声は弱々しく、相変わらず調子外れだった。けれど懸命に紡ぐその旋律はこれ以上なく美しくて、徐々に薄れてゆく体の感覚と入れ替わるかのように、全身の隅々まで染み渡るような歌声だった。
あぁ、悪くない。
高く穏やかに運ばれていく気分だった。痛みも苦しみも、全てを包み込むような優しさがここにはある。もう見えないけれど、窓の外はいつの間にか雨が止んでいるようだった。柔らかな陽の光が差し込んで、俺を抱えるトキの腕は暖かくて。それはまるで、もしも天国というものがあるのなら、きっとここがそうだと思えるほどに優しかった。




