14. 愛の唄を君に
「トキせんせー、さよーなら!」
よく晴れた青い空に響き渡る、子供たちの声。
揃いの木綿の服に身を包みながら、めいめいに楽譜が入った鞄を手に、私に向かって微笑んでいる。それぞれの胸に下げられた小さな金色のメダイが、柔らかな春の日差しを受けてきらきらと輝いていた。
「はい、さようなら。気をつけてね。寄り道しちゃだめだよ」
「しないよぉ、よりみちなんか!」
「嘘。この前、畑の蒲萄つまみ食いしたでしょ」
「ひひっ、まだ渋かったよ!」
きゃあきゃあと笑い合いながら子犬のように駆けていく後ろ姿を、ため息をついて見送った。思えば、私もあのくらいの年頃だった。
人ではないものに出会って、人ではない彼に恋をした。
正直に言えば、初めて会ったあのとき、私はあの黒い羽が少しだけ怖かった。まぁ、それは仕方がないだろう。彼の姿は本で見た『悪魔』と呼ばれるものとそっくりだったのだから。けれど恐る恐る指先で触れてみた羽はとても暖かくて、気怠げに見つめてくる瞳の奥にも確かな慈愛のようなものを感じた。だから、私はすぐにナギのことが好きになった。
少しずつ近くなる距離に小さな私の胸は高鳴るばかりで、自分でも抑えられない衝動のままに、何度も彼の部屋に通った。文字通り彼に心を奪われたのだ。
そして、あのときの自分にはまだよくわかっていなかったけれど、もしも彼が望んでいたなら、この体さえも迷うことなく明け渡していただろう。そうなっていたとしても、きっと後悔はなかった。そう思えるくらいに幸せだった日々の記憶が、彼が去ったあとの私を今日に至るまで支えてくれた。
優しくて、穏やかで、光溢れる日々だった。いわゆる恋人として過ごした時間はとても短いものだったけれど、それでもその暖かさだけで生きていけると思うほどに、今もずっと大切な記憶だ。
「トキ、お茶にしましょう」
ふわりと鼻先を擽る紅茶の匂いに振り返れば、ティーポットとカップを載せた樫の木のトレイを手に、穏やかな笑顔を湛えた司祭が佇んでいた。
「今日は天気がいいから、ここで飲みましょうか」
そう言って、慣れた手つきで庭先に置かれた木のベンチから落ち葉を払う。
この人を恨むなと、ナギが言ったから。あのときはとても理解することなど出来なかったけれど、今思えばその言葉で私は救われた。憎しみは重い。それを抱えて生きるのは辛い。そのことを、きっと彼はあの最後の瞬間に教えてくれたんだろう。
ナギが息を引き取ったあとで、私は意識を失うまで泣き続けた。
次に目が覚めた時にはナギの体は綺麗に清められていて、心臓を貫いていた銀の矢も消えていた。恐らくは彼の手によって抜き取られたのだろう、若い司祭が沈痛な面持ちでナギの傍らに膝をついていた。彼は目を覚ました私に気が付くと、何かを言いたげに僅かに口を開いた。けれど結局は何も告げることなく押し黙って、そっとその場所を私に明け渡した。
そうして入れ替わるようにナギの傍らに座った私が、愛おしむようにその頬に触れた瞬間、ナギの体は真っ白な砂のように崩れ去った。まるで私を待っていたかのようだった。
サラサラと風に飛んで消える粒子を握り締めながら、あの黒い羽の一枚すらも残してはくれないのかと悲しくなった。けれどすぐに思い出す。ナギは約束してくれた。必ずもう一度会えるから、それまで待っていろと。
あれから二十年。気付けば私はもうすぐ三十になろうとしていて、その時間の流れの速さに思わず苦笑いが零れた。この二十年の間に村にはこれといった変化もなく、相変わらず穏やかで優しい時が流れている。少しばかり長雨の続く季節があったけれど、何故だか狼の群れは一度も姿を見せていない。
私は教会で子供たちに歌を教えるようになった。と言っても相変わらずの音痴だから、苦心の末に弾けるようになったオルガンで、正しい音色を教えるようにしている。ナギが使っていたあの部屋で寝起きをして、昔は上手く鳴らせなかった黒い羊のノッカーも使いこなせるようになった。
毎日毎日、飽きもせずにナギのことを考える。朝目覚めれば、眩しい朝日の中に窓辺に腰掛けて欠伸をする彼が見えるようだし、眠りに落ちる前には決まってあの暖かな羽に包まれる感触を思い出す。
ちっとも色褪せることのない記憶をひとつずつ辿るようにして、私はずっと、ここでナギの帰りを待ち続けている。
「トキ? どうかしましたか?」
不思議そうに呼ばれて、ハッと我に返った。
何でもないと伝えるように微笑んで、年季の入った小さなベンチに腰掛ける。すぐに暖かな湯気と優しい香りが立ち上るティーカップを手渡された。柔らかく鼻腔を擽る紅茶の匂いが『今』を思い出させて、暇さえあれば幸せな記憶の海に潜ろうとする自分自身に、また小さく苦笑いを零した。
ある意味では本意ではなかったとは言え、ナギを死に追いやったことを、司祭は酷く悔いていた。けれどそれを言葉にすることはなく、その代わりに何も語らぬまま教会を修繕して、この村のために心を尽くした。何の役にも立たない謝罪や後悔の代わりに、その姿勢で誠意を示してみせた彼を、素直に好ましく思った。
一度だけ、彼は私に謝ったことがある。自分があんなことをしなければ、と。それは深々と雪が降り積もる冬の日のことだった。ぱちぱちと控えめに爆ぜる暖炉の火と、それに照らされた空間。その中で、絞り出すように告げられた謝罪の言葉に、私は何も答えられなかった。
そんなことはない、とは言えなかった。彼が早まったことをしなければ、今でも私はナギの傍にいられただろう。未練とも呼ぶべきその澱のような感情は、いつまで経っても私の中から消えることは無かった。けれど、それは言っても仕方のないことだ。彼を責めても、逆に許しても、何一つ変わることはない。約束だけを残してナギは消えてしまった。それだけが、今ここにある事実なのだから。
風に乗って微かな話し声が聞こえてきた。
蒲萄畑を突っ切るように村の中心から伸びた一本道を、こちらへ向かって歩いてくる数人の人影が見える。家族連れだろうか。村の人間にしては見慣れない服を着ているな、と目を細めながら眺めていると、隣に座る司祭が思い出したように呟いた。
「あぁ、そうでした。確か今日、街から引っ越してくる家族がいるんだとか」
「へぇ? じゃあ、子供がいたら聖歌隊に誘いましょうか」
ふっと笑って、段々と近付いて来る人影に目を凝らす。ふと、その一団の中の一人が何かに気付いたように走り出した。転げそうな勢いでこちらへ駆けてくる。何事かと訝しがる私の耳に、どこか懐かしい響きが飛び込んできた。
「トキ!!」
年の頃は十七、八といったところだろうか。大人と子供の中間のような、少年と呼ぶには少し大人びた印象だ。風に揺れる夜色の髪に、鮮やかな深い青色の瞳。
夢でも見ているのだろうかと思った。
あの暖かな黒い羽も、天を穿つような角も無いけれど。でもそれは確かに、この二十年、片時も忘れることなく想ってきた相手だった。一日だって夢に見なかった日など無い、ずっとずっと待っていた、たった一人の愛しい人。
息を切らせながら私のもとへ駆け寄って、少しだけ決まりが悪そうに笑う。記憶の中よりも随分と幼い、その笑顔。
「遅くなってごめんな。全部思い出すのに、時間がかかった」
息を弾ませながらそう言って、私の頬にそっと掌を這わせる。迷いのないその仕草には確かに覚えがあった。あの頃のナギよりも少し小さくて、けれど同じように私を包んでくれる暖かい掌。
気が付いたら、抱き締めていた。
後からやってきた彼の家族が驚きに目を丸くしていたけれど、構う余裕など無かった。体の内側から溢れるように吹き出す感情はそのどれもが言葉にならなくて、私はただ小さな子供のように泣きじゃくりながらナギにしがみついた。痛いくらいに抱き返してくる腕は、僅かに、けれど確かに震えていて、あぁ、本当に帰って来たのだと実感する。耳元で小さく鼻を啜る音が響いた。
しばらく何も言わずにそのまま抱き合って、ようやく果たされた約束を讃えるように額を摺り合わせた。
ふと気付けば、ナギの家族の傍らに立つ司祭がぼろぼろと大粒の涙を零していて、彼もまたこの二十年間を耐えてきたのだと思い知った。そして恐らくは今のナギの両親なのだろう、穏やかそうな夫婦が寄り添うようにこちらを見つめて、ようやく得心がいったというような表情で微笑んでいた。
全部思い出したというナギの言葉と、彼らがこの村へ越してきたことから察するに、きっとナギは前世の恋人である私のことを彼らに話していたのだろう。随分と突飛な話なのだから、さぞ困ったに違いない。けれど彼らは今こうして、深い慈愛を湛えた瞳でただ静かに見守ってくれている。今のナギは、とても大切にされているのだな、と感じた。
「ところで、」
スン、と小さく鼻を啜りながら、ナギはまだ溢れ続ける私の涙を指で拭った。そして甘える子猫のような仕草で鼻先を摺り寄せて、悪戯っ子のように笑ってみせる。
「少しは上手くなった?」
歌って。
強請るように囁く声が、優しく耳をくすぐる。
風に乗って香る秋の空気は果実のように甘い匂いがして、空はどこまでも青く高く晴れ渡っていた。
了
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