12. 銀の矢
礼拝堂の中は酷い有様だった。
いくつも流れ矢を受けた壁には無残な痕がくっきりと残って、ところどころに突き刺さったままの銀の矢が不気味な光を放っている。脆い漆喰で出来た天使たちは尽く投擲ナイフの犠牲となり、マリア像に至っては体の半分を撃ち砕かれる重傷だ。
自身も敬虔なキリスト教徒でありながら、よくもここまで気持ちよく破壊できるものだ。俺は半ば感心するような心持ちで、空を飛び交い続ける銀色を躱した。
ヂリッ
余計なことを考えていたせいだろう。一瞬の間隙を縫って、矢が俺の左翼を掠った。絡め取られた何枚かの黒い羽が、ひらりひらりと間の抜けた動きで宙を舞う。僅かに感じる焼けるような痛み。チッ、思わず舌打ちが漏れる。
「貴様、何故攻撃しない!?」
息を荒げながら、若い司祭は忌々しそうに俺に向かって吐き捨てた。どうせ俺が何を言っても聞く耳など持たないだろうに。
流石に大きな教会で育てられた人材なだけあって、投擲も弓の腕もなかなかに筋が良かった。けれど一介の人間である以上、いずれは体力の限界がくる。そしてそれは俺よりもずっと早い。
既にぜぇぜぇと肩で息をしながらも、彼は俺と戦う姿勢を崩さなかった。ぎりぎりと射るように俺を睨みながら、けれどその心のどこかに、小さな迷いが生じているのが手に取るようにわかった。
これだけの猛攻にも関わらず、俺は逃げることも反撃をすることもなく、ただ静かに躱し続けている。その理由が何なのか、これ以上の攻撃に意味があるのか、己の経験以外に判断材料を持たぬ彼は、結論を出しかねているように見えた。
「俺は人間には手を出さない。悲しむ奴がいるからな」
呟いたその言葉以上に、説明することは出来なかった。出来ることなら俺は人間に手出しをしたくない。この村の住人は元より、トキを知ってからは人間という存在自体を嫌うことが出来なくなった。
トキは人間だ。だからと言って決して全ての人間を愛せるわけではないけれど、トキを悲しませるようなことはしたくなかった。トキの傍で、生涯彼女とその愛するものを守るには、俺は人と交わる世界で生きていかなければならない。そしてそのためには、俺の持つ力で人を傷付けることなどあってはならない。
人間を傷つけないのは、つまりはトキのためだ。そして今、ここまであからさまに命を狙われても反撃しないのは、ただ穏やかにトキと共に過ごしたいと願う俺自身のためだ。
「……まぁ、お前にはわからないかもしれないがな」
この世でたった一人、俺に愛を教えた存在。小さな太陽のようなその笑顔を思い出して、口の端にふっと笑みが浮かぶ。
それは端から見ても慈愛溢れる表情だったのだろう。心底わからないという顔をして、若い司祭はほんの一瞬だけ警戒を解いた。けれど次の瞬間には呆けていた自分を戒めるように頭を振って、また弓矢を構える。迷いを断ち切るように引き絞る弦の音には、どこか悲壮感さえ漂っている気がした。
やれやれ、まだやるのか。そうため息をついたその瞬間。
ギィ、重い礼拝堂の扉が軋む音がした。開かれた。誰か来る。そう頭で理解するのとほぼ同時に、聞き間違えるはずもない愛しい声が耳に飛び込んできた。
「ナギ!」
飛び出してきた小さな人影。突然の乱入者に驚きを隠さずに、若い司祭は息を呑んだ。僅かに緩んだその指の隙間から、禍々しく光る銀の矢が放たれる。
それは妙な感覚だった。
全てが俺の目の前で恐ろしくゆっくりと動いていた。放たれた銀色の矢。泣きながらこちらへ駆けてくるトキ。何かを考えるよりも早く伸ばした自分の腕と、宿命のように空を舞う黒い羽。ほんの瞬き程度の刹那に感じた不思議な感覚は、抱え込むように抱き締めた暖かなトキの感触と、強い衝撃とともに走った激痛で掻き消えた。
「……っ、」
ジュウウ、
血に乗って銀の毒が走る。肉が焦げる音が木霊する。焼け付くような痛みで上手く呼吸ができない。
見事に背から心臓を貫く一撃だった。あぁ、これは駄目だな。素直にそう思える程に、非の打ち所のない一射だった。
トキを庇うためとはいえ、こんなにも躊躇無くこの身を差し出すことが出来るとは思わなかった。愛を知る前の自分には、きっと想像も出来なかったことだろう。
ゆっくりとその場に膝をついて、青褪めた顔で見上げてくる腕の中のトキを見やる。良かった。トキには当たっていない。
「ナ、ナギ……?」
恐る恐る俺の名を呼んで、不安げに瞳を瞬かせる。トキの目線よりも少しだけ高い位置に、俺の胸を貫く銀の矢尻が光っていた。血濡れたそれは一層禍々しく、出来ることならトキの目には入れたくなかった。今すぐにでも抜き取ってやりたいけれど、これは、もう。
誤魔化すように微笑んだ俺に、トキは大きな瞳を更に見開きながら唇を震わせた。
「やだ……、やだやだ、嫌だ、ナギ!」
トキの小さな体に覆い被さるようにして、細い肩に額を預ける。込み上げる息苦しさに溜め息を吐けば、自分自身の強い血の匂いが鼻を突いた。




