11. 光溢れる日々
その日を境に、俺たちは間違いなくこの時間のために生まれたのだと思えるような、穏やかで暖かで、光溢れる優しい日々を過ごした。
傍らにトキがいる。それだけで空は色褪せることを忘れたかのように青く高く輝いて、冴え渡る空気は果実のように甘い香りがした。降り注ぐ木漏れ日を浴びながら並んで木陰に座って、時折どちらからともなく目を合わせて小さく笑う。
眩しさに目を細めるトキの額に口付けて、くすぐったそうに身を捩る細い首筋にもほんの少しだけ噛み付いてやる。そうすればトキは一層擽ったそうに肩を跳ねさせて、雲雀のような声でけらけらと笑った。
俺たちはどこまでも対等で、対の関係だった。互いの代わりになるものなどいないということを肌で感じ取っていた。
不思議なことに、心が繋がれば繋がるほど、体の繋がりを求める欲求は薄れていくのだと知った。勿論、トキの柔らかな肌の匂いを感じながら甘い鳴き声を聞いてみたいと思う心はある。けれどそれが無くても、トキが俺の特別であることに変わりはない。
俺たちの間にそういう触れ合いが無かったとしても、いや、もっと突き詰めて考えれば、トキが俺の傍で生きていてくれるならそれだけで良かった。笑ってくれるなら尚良いだろう。自分が本気で心の底からそう思っているということに、少しだけ呆れる思いだった。
これではまるで、淫蕩の限りを尽くした果てに一切の煩悩を捨て去った淫魔のようだ。実際にはまだ一度たりとも繋がってはいないというのに。
齢三百をとうに超えて、何やら今更ながらに生物としての性の深淵を覗いてしまったような気がするけれど、不思議と悪くない気分だった。
トキとならば、どんな形であろうと、例えお互いの姿が見えなくとも、いつだって心で繋がっていられる自信がある。それは決して言葉に出来る類の形あるものではなかったけれど、俺もトキも、そのことをこれ以上なく自然に理解して、そして受け入れていた。
春が来て、教会の周りには一面に白詰草が咲き始めた。
トキを羽で包みながら二人で窓辺に座って、月明かりに照らされたどこか幻想的なその風景を眺める。白く小さな花が宵闇の中に散らばるように咲いていて、まるで上にも下にも星空があるみたいだと言ってトキは喜んだ。そう思って見れば、確かにそこには天も地も無いような気がした。綺麗だ、と思った。
「天国って、こんな感じなのかな」
ぽつりと呟かれたその言葉に、少しだけ迷う。
「……天国なんて無い。人間が言うような神もいない。俺たちは皆、死ねば土に還るだけだ」
戸惑うように視線を揺らしたトキが、少しだけ寂しそうな顔で俺を見上げる。
「神はいない。それは嘘じゃない。でも怖がらなくていい。お前は、俺が守るから」
どこか悲しげな光を放つ瞳を見据えながらそう言えば、トキは柔らかく微笑んで俺の胸に顔を埋めた。甘く香る髪に鼻先を寄せて、俺はトキの小さな体をしっかりと抱き締めた。胸を掠める暖かな吐息の感触を、柔らかな記憶の襞に挟み込むように目を閉じる。
おかしな話だな、と思った。
神などいないと、俺は誰よりも知っているのに。こみ上げる苦笑いを口の端に浮かべながら、それでも出来ることならこの時がいつまでも続けばいいと、俺は心の中で静かに祈った。
***
平穏な日々は唐突に終わりを迎えた。
それは柔らかな春の日には珍しく、霧のような冷たい雨が降る午後だった。
見知らぬ男が手にしていた黒い牛革の鞄が、ドサリと耳障りな音を立てて床に転がる。驚きに見開かれた目はこれ以上なくハッキリとした敵意に満ちていて、すらりと抜かれた銀色の刃は戸惑うことなく俺に向けられていた。
もう片方の手に数秒前まで構えられていた聖水は既に懐に仕舞われ、代わりに投擲用の銀のナイフが数本握り締められている。俺がここに居住している時点で、聖水も十字架も効果など無いということに気が付いたのだろう。なかなか聡い奴だ。
正直なところ、俺のような存在には聖水も十字架も大した効果はない。だが濃度の高い塩水は皮膚をかぶれさせるし、銀で貫かれれば鉱物毒が回って死ぬことだってある。
人間よりも遥かに高い自己再生能力が災いして、自然に薄まることのない鉱物の毒は驚くべき速さで俺たちの体を蝕むからだ。場合によってはほんの僅かな量でもあっけなく死に至る。そうでなくとも、もっと単純に外傷が原因で死ぬことだってあるだろう。
俺たちは不死身じゃない。人間よりも遥かに寿命が長かろうが、人間にはない力を持っていようが、所詮はただの生き物なのだ。心臓や脳に大きな損傷を負えば、当然死ぬ。そしてそのことを、今目の前にいる男はよくよく理解しているようだった。漠然とした異形への恐怖を乗り越え、それに対抗するべく鍛えられた教会員ならば、何の不思議もないことだった。
「何故お前のような悪魔がここにいる? この村に取り憑いているのか?」
まだ信じられないという顔で、けれど極めて冷静に男は聞いた。
全身を覆う黒い羽。渦を巻き天を穿つ歪んだ二本の角。今は隠れているが、鋭い牙も長い爪もある。この姿だけで『悪魔』だと断定するに相応しいほど、俺はどこからどう見ても異形だった。
まだ若く、使命感に溢れ、己の正義を強く信じて疑わない司祭の目には、俺はさぞおぞましい生き物に映るのだろう。久しく忘れていたけれど、本来これこそが正しい人間の反応だと言える。恐怖と汚らわしさの象徴。嫌悪されて然るべき存在。人間にとっての『悪魔』とは、そういうものなのだから。
消毒液のように癪に障る聖水の匂いを振り撒きながら、男は鞄の中から鈍く銀色に光る弓矢を取り出した。接近戦では分が悪いと悟ったのだろう。
「……俺はただここにいるだけだ。人間を喰ったりもしない」
ため息をつきながら投じた言葉は、若い司祭の耳には入っていないようだった。物理的にではない。悪魔の言葉には耳を貸さないという、極めて初歩的な教えに従っているのだろう。だったら問うなと言いたくなる。
「主の御名において、お前を排除する」
死神の鎌を思わせる銀色の矢。冷たく光るそれをひたりと俺に向けながら、年若い彼は己の決意を固めるように弦を引き絞った。




