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第8話 幽霊犬 2

 私たちは幽霊犬の後を追って宮廷を飛び出し、夕暮れ時の皇京を駆け抜けた。


 街中はとても賑やかだった。

 石畳の大通り。瓦斯灯に火を入れて回る点灯夫。荷車を引く馬。

 洋装の男と着物の女がすれ違い、新聞売りの少年が声を張り上げる。

 近代化に沸くこの街は、日が落ちてもなお騒がしい。毎日が祭りのような雰囲気だ。


 そんな雑踏の中を、犬は駆けて行く。

 壁のように広がる人々の僅かな隙間を潜り、或いは通り抜け、するすると一度も足を止めることなくス進んでいく。


 勿論、誰も彼には気が付かない。

 気づいているのは、追っている私と水明様だけだ。


「流石は犬……速いですね」


「警察犬よりは速度が劣るが……この人混みだ。人間である俺たちが後れを取るのは当然のこと」


 人は犬のように小さな身体ではない。

 人は犬のように小回りが利かない。

 生者は死者のようにいないものとしては扱われない。

 差がつくのは、仕方のないことだ。


「え、今の……」

「ん? ──ぇ?」


 すれ違った警察官の二人組が水明様に振り返った。

 公務員であるのなら、皇太子の顔を知らない者はいない。護衛も連れずに街中を疾走する水明様にギョッとし、しかし、見なかったことにした。面倒ごとは避けたいらしい。 


 懸命な判断に拍手を。

 私は肩越しに彼らを見やり、数度、両手を叩いた──と。


「──止まったようだ」

 

 犬は、大通りの終わりで足を緩めた。

 水明様の言葉にハッとし、私は速度を緩め、やがて静止する。


 到着した場所は──巨大な駅。

 赤煉瓦の壁。硝子と鉄の庇。屋根の上には大時計。

 西洋から取り入れた先進文化の象徴──数年前に開設されたばかりの、列車昇降場だ。

 荘厳な外装を前に、自分が異国に紛れ込んでしまったのではないかと錯覚する。


 駅前の広場は通りとは比較にならないほどの人混みだった。

 旅装の家族。見送りの群れ。汽笛が響き、白い蒸気が空へ立ち昇る。

 荷物を担いだ人夫が行き交い、端に出店した屋台から焦げた醤油の香りが漂う。

 文明開化の音が鳴り響いている。時代の流れを肌で感じた。


「あ……っ」


 私は小さな声を零す。

 犬がいたのは、広場の端に置かれたベンチの上だった。

 前脚を揃え、背筋を伸ばし、じっと駅の入り口を見つめて座っている。


「……何をしているんだろうな」


 バレて逃げられては困る。

 建物の陰に身を寄せ、そっと様子を窺っていると、隣に並ぶ水明様が疑問を口にした。


 ……疑問に答える前に、言わないと。


「水明様」


「ん? なんだ」


「少し、距離が近すぎませんか」


 僅かではあるものの、互いの肩が触れあっている。

 私と水明様は婚約者ではあるが、それはあくまでも偽物の関係。この距離は、非常に不適切ではないだろうか。


「仕方あるまい」


 しかし私の主張に水明様はまるで動じず、視線を犬に向けたまま言った。


「ここ以外では犬にバレる。それに、あんな人混みで堂々と犬を見ていたら、無人のベンチを皇太子が真剣に凝視している図が完成してしまうだろう」


「……それはそれで見物ですね」


「見物にされてたまるか。俺は珍獣ではない」


 ムスッとした水明様に苦笑し、同時に、私は諦めた。

 どうせ抗議したところで『我慢しろ』の一点張りだ。なら、ここは潔く諦める他ない。

 できるだけ意識しないようにしつつ、私は犬に集中する。


 犬は、動かなかった。

 人が通り過ぎる。汽車が着くたび、改札から人の波が押し寄せる。

 旅行鞄を提げた男、赤子を背負った女、学生服の少年。多種多様な者たちが広場を通り過ぎていく。


 犬は彼らに見向きもしない。

 彼らは自分の目的ではないと言わんばかりに、首を動かすことすらせず、ただジッと改札を見つめ続けていた。


「……人を待っているのでしょう」


 確信を呟く。


「誰か、大切な人が駅から出てくるのを待っているんです」


「そのようだな」


 水明様は腕を組み、静かに言った。


「躾けられた犬の座り方だ。あれは野良にはできないだろう」


「へぇ……詳しいですね」


「昔、犬を飼っていたからな」


「……ストレス発散用ですか?」


「俺を何だと思っているんだ。愛玩用だ。かなり可愛がったし、死んだ時はかなり泣いた」


「冷酷な皇太子殿下にも動物を愛でる心があったのですね。新聞社にリークしたら、結構な御金になるかも」


「斬るぞ」


「KILLしないでください」


 軽口を躱しながら、視線は犬に戻った。

 先ほどから姿勢も位置も、何一つ変わっていない。

 ただジッと、静かに、誰かを待っている。待ち続けている。


「……死んだあとも、待ってるんですね」


 言葉が、勝手に零れた。


「きっとあの子は、自分が死んでいることに気が付いていない。なのに、健気に誰かを待ち続けている……正に忠犬」


 私は目頭が熱くなった。

 骨の声を聞く仕事をしていると、恨みや呪いにばかり出会う。聞いているだけで此方の心を擦り減らす、悪意の塊に触れ続ける。

 だからこそ、こういう霊は──こういう、あまりに真っ直ぐな残り方をした魂は、心を掴んで離さない。


「幸福ですね、飼い主は」


「……あぁ、そうだな」


 同意した水明様の声は少しだけ、泣いているように聞こえた。


 ◇


 二刻が経過し、広場が閑散としてきたころ。

 

「……遅いですね、飼い主」

 

「そうだな」


 待ち疲れた私の呟きに、水明様は欠伸を噛み殺しながら返した。

 それにつられ、私も欠伸をする。

 仕方のないことではあるが、待つのはかなり辛い仕事だ。


 果たして飼い主はいつになったら登場するのか。

 私は急に襲ってきた眠気に抗い、瞼を擦った──その時。


 犬が動いた。

 すっと立ち上がり、身を震わせる。そして、ひょいと軽やかに石畳へ降り立った。


「──っ、水明様!」


「追うぞ」


 犬は駅を振り返らなかった。

 飼い主は現れない。と結論を出したかのように、迷いなく歩き出す。


 急いで追跡する。

 広場を抜け、大通りを外れ、暗く細い路地へと入って行く。


 何処に向かうつもりなのか。

 通常は通ることのない、舗装もされていない道を進み続ける。

 そして抜けた先で──私たちは同時に足を止めた。


 華やかな表通り、集中的に開発された区画とは正反対。

 かつての街並みや雰囲気が漂う、未開発区画。文明開化の音が届かない旧時代の光景が、そこに広がっていた。人の気配はほとんどせず。夜鳥と黒猫の鳴き声が木霊する、静かな世界。


 その一角。半壊したまま残された家屋に、犬は入っていった。

 閉ざされた戸を擦り抜け、迷いなく、中へ。


「……行きましょうか」


「気をつけろ。いつ崩れるかもわからん」


 私に忠告をした水明様が先に立った。

 妖刀の柄に手をかけたまま、軋む戸を押し開ける。

 埃と、黴と、古い木の匂いが鼻腔を擽る。


 存外、建物の内部は明るかった。

 月明かりが破れた屋根から差し込んで、床を斑に照らしているから。


 明るいからこそ余計に、家の惨状が目につく。

 畳は腐り、天井板は落ち、部屋の半分は崩れた瓦礫に埋もれている。もはや人が住めるような状態ではない。野良猫程度の大きさなら、快適に暮らすことができるだろうけれど。


「……これ」


 辛うじて崩れずに残っていた壁に近寄り、私は手を伸ばした。

 写真だ。多くの写真が飾られている。

 額に入ったもの。画鋲で直接留められたもの。褪せて、埃をかぶって、汚れに汚れ……それでも整然と並べられている。


 写っているのは、初老の男と一匹の犬。

 縁側で並んで座っている写真。男が犬を抱き上げ、少し照れたように笑っている写真。犬が子犬の頃らしいもの。首に赤い紐を巻いた、成犬になってからのもの。


 数々の写真。

 そんな中で、私が最も目を引いたのは──停車場の前で撮られていたもの。

 旅装の男と、その足元に座る犬。あの前脚を揃えた座り方だ。


「……っ」


 私の耳に届いた、くぅん、というか細い犬の鳴き声。

 そちらを見ると、あったんは崩れ落ちた瓦礫の山。その隙間に、月光がわずかに差し込んでいる。


 もしかして、そこに。

 そちらへ近づいた私は膝を折り、積み重なった板を一枚ずつ慎重に退ける。

 埃が舞った。指先が切れ、鋭い痛みを発した。けれどそれでも手を止めることなく、私は続けた。

 そして──見つけた。


 小さな骨だった。

 丸まった姿勢のまま、前脚を揃えて眠っている。

 首のあたりには色褪せた赤い紐が絡んでいた。


 そして何よりも──前足が、黒く変色している。

 死者の魂が宿る骨──霊骨に。


「……見せてね」


 私はそっと指を伸ばし、霊骨に触れる。

 瞬間──記憶が流れ込んできた。


     温かい手。頭を撫でる、皺だらけの手のひら。


     縁側の日差し。差し出される椀。少しぬるい飯の匂い。


     いってくるぞ、と温かな声。戸が閉まり、途端に寂しさが胸に広がる


     待つ。どれだけでも。いつまでも。


     夕方になると、彼は帰ってくるのだ。

     疲れた表情で改札から下り、自分を見つけると笑みを浮かべ、頭を撫でてくれる。『出迎えご苦労』なんて嬉しそうに言って。

     

     だから行く。

     あそこで待っていれば、必ず、あの人は改札から出てくる。何度でも。何度でも。姿が見えなくなっても、会えなくなっても、あそこに行けば、きっと──。


「……っ」


 これ以上は耐えられない。

 自分の感情の受け皿の限界を悟った私は骨から手を離し、深い溜め息を吐き、天井を見上げた。


「ずっと、待ってるんです」


 傍に寄った水明様に私は告げる。


「生きてる時からずっと。停車場まで毎日迎えに行って、帰りを待って……それで、死んだあとも、まだ待ってる」


 この崩れた家で、たった一匹で朽ちて、それでも毎日、あのベンチに通い続けている。

 大好きな人に会うために。頭を撫でてもらうために。ずっと、ずっと。

 あまりにも、健気で。あまりにも、悲しい。


「では」


 水明様が、静かに問うた。


「その飼い主は今……どこにいる」


 ハッとした。

 そうだ。この家は倒壊寸前で、人の住んでいる気配がない。

 写真の男は、どこへ行ったのか。捨てるようなことはないだろう。

 もしかして、犬の死をきっかけに引っ越しをした? いや、それはないと──。


「──誰かいるのかい」


 玄関からしわがれた声がした。

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