第9話 幽霊犬 3
唐突に鼓膜を震わせた声に、私は驚いて肩を震わせた。
反射的に振り返ると建物の入口──外れかけた玄関の戸口に、提灯を掲げた人物が立っていた。
それは小柄な老人だった。
黒い手拭いを首にかけ、両足には下駄を履き、片手に持った杖で舗装されていない地面を突いている。稲作に勤しむ人のように腰は曲がっているが、その両目はしっかりとしている。曇りのない、若者のような力強さを感じた。
「ここは確かに空き家じゃが、誰彼構わず立ち入って良い場所ではないぞ……よもや、盗人ではあるまいな?」
「ち、違いま──」
立ち上がった私は否定しようとしたが、言葉に詰まった。
困ったことになった。私たちは盗人などではないけれど、何と説明すればいいのだろう。犬の幽霊を追ってここまで来ました? いや、そんな馬鹿正直な説明をしたところで信じて貰えない。寧ろ、もっとヤバい奴らだと衛兵に通報されてしまう可能性だってある。
はてさて、どうするべきか。
顎に手を当て、私が悩んでいると──。
「──夜分に失礼した」
驚くことも、取り乱すこともなく。
私を背に庇い、一歩前に出た水明様が老人に語った。
「我々は盗人などではない。宮廷勤めの役人だ」
「宮廷? ……やや、その軍服は確かに──」
老人は納得したように唸りつつ、片手に持った提燈を掲げ、水明様の顔を照らした──瞬間、カッ、と両目を大きく見開いた。
「あ、貴方様は……ッ」
「良い。今は非公式の場だ」
水明様の正体に気が付いたらしい。
老人が慌てて膝を折ろうとするのを、水明様が手で制した。
「こ、皇太子殿下が、何用でこのような場に?」
「視察だ」
「視察、でございますか」
「あぁ。この区画は開発が遅れているのでな。取り壊されずに残された家屋の中に、倒壊の危機があるものがないかを調べていたのだ。夜分になってしまったのは……何分、俺は多忙の身ゆえ」
嘘がうまいことで。
密かに私は感心した。声の調子は一つも変わらず、しれっと辻褄の合う、相手が納得するストーリーを作り上げている。数多の思惑が渦巻く宮廷内においては、こういうスキルも必須なのだろう。
「は、はぁ。そりゃあ、ご苦労なことで……」
半信半疑ではありつつも。
老人は口調をやわらげた。
「わしは、近所に住んどる者です。権蔵と申します。夜の散歩から帰っている途中で、この家から物音がしたもんですから……まさか、荒しが入ったのかと思いまして」
「近所に住まれている方、ですか」
ということは、まさか。
私は食い気味に尋ねた。
「それでは、この家のことはよくご存じで?」
権蔵さんは頷いた。
「それは勿論。ですが……この家の主人は、昨年亡くなりましてね」
権蔵さんは朽ちた壁に触れた。
「突然の病でしてねぇ。夏の終わりごろに床について、秋の始まりにはポックリと逝ってしまった。行商人でしてね。晩年は列車であちこちを回っては、土産を持って帰ってきてました。気前の良い男でしたよ、あれは」
「家族はいなかったか?」
「残念ながら。奥さんは早くに亡くなられて、子供も革命の動乱で」
ただ。
権蔵さんは懐かしそうに言った。
「人ではねぇが……犬がおりましてね」
私は息を潜める。
「名前は八郎。茶色の毛をした犬で、えらく賢かった。毎日毎日、あの人が帰ってくる駅まで出迎えに行って。目立つ赤い紐を巻いていたんで、近所では有名でしたよ」
「……その犬は、何処に?」
「さあ」
権造老人は、杖の握りを撫でた。
「しばらくはわしが餌をやっとったが、ある日を境にいなくなってしまった。全く、何処に行っちまったのか……」
権蔵さんは遠くを見つめる。
すると、水明様が告げた。
「その犬は──ここにいたぞ」
水明様は瓦礫の隙間を指さした。
美しい月明かりに照らされた場所。そこに横たわる、丸まった小さな骨と色褪せた赤い布。
「……まさか」
カラン。
杖を落とした権蔵さんの口から掠れた声が零れ、次いで、彼はヨロヨロと骨に近付き、その場に膝を折った。
「お前……こんな、ところに……」
呟いた後、権蔵さんはハッとした。
「この場所は……あの人が、いつも昼寝をしとった場所ですわ」
「昼寝ですか?」
「そうそう。縁側の丁度このへん寝転がって、日向ぼっこをしながら昼寝をするのが好きな人だった……八郎はいつも、その腹のところにくっついて、一緒に寝とった」
「……」
私は手元の霊骨を見下ろす。
大好きな主人が亡くなった後、この子はずっと寂しかったのだろう。待って、探して、それでも主人は見つけられなくて、帰ってこなくて。
次第に痩せ細って、探す力もなくなった。
だから最後に、ここを選んだのだ。
大好きな主人といつも一緒に眠っていた場所を。
一番思い出が残る、特別な場所を。そこで丸まり、当時を思い出しながら、息絶えた。
「……正に忠犬」
「そのようだな」
私の呟きに、いつの間にか隣にいた水明様が同意した。
◇
小一時間後。
「ここが、飼い主さんのお墓ですか」
私たちは権蔵さんに教えてもらった飼い主の墓に辿り着いた。
路地を抜けた先にあった、古びた寺。位置が高くなった月から降り注ぐ光に照らされた墓場には、昼間とは異なる名状し難い不気味な雰囲気が漂っている。
暫く手入れがされていないらしく、雑草が伸び放題な墓地。
立ち並ぶ墓石の間を進むと、水明様がふと言った。
「これのようだな」
足を止め、眼前の墓石に水明様は触れる。
小さな墓だった。
建てられてまだ一年も経っていないはずなのに、かなり汚れている。訪れる者もいないのだろう。供えられた花は既に枯れ果て、盃に注がれた水は濁っている。
霊骨を供える前に、まずは掃除をしないと。
私は持っていた霊骨入りの箱を地面に置いた──その瞬間だった。
「「!!」」
木箱が淡く光った。
驚きに私と水明様が見つめる中、光は靄のようにふわりと立ち昇り……それはやがて、四つ足の小さな犬の姿を模った。
間違いない。
駅から──否、宮廷から私たちが追ってきた犬の霊……八郎だ。
八郎。
と、私が呼ぶよりも早く、犬は歩き出していた。
飼い主の墓石の前で立ち止まり、鼻先を近づて匂いを嗅ぎ……尻尾が左右に触れた。
ずっと探していた人に会えたような。大好きな人と再会できたような、そんな喜びが伝わる。
そしてすぐ……八郎は前足で地面を掘り始めた。
必死に、決死に。土に向かって両足を動かし続ける。
しかし当然ながら、掘ることは叶わない。何故なら彼は既に死んでいる。肉体を持たない魂だけの存在では、かつてのように地面を掘ることはできないのだ。
やがて、八郎自身もそれを理解したのだろう。
ぴたりと動きを止め、その場にお座りをする。
そして天上を見上げ──鳴いた。
「──くぅん」
何度も、何度も。
何度も何度も何度も。
悲し気な声を上げ、身体を震わせる。
霊骨に触れていない今、あの子がどんなことを考えているのかはわからない。
あの声にどんな想いが宿っているのか、詳細に知ることはできない。
わかるのは、ただ一つ。
八郎が心の底から、もう一度飼い主に会いたいと願っていること。
叶わない願望に苦しんでいるということだけ。
「──ぁ」
その時、気が付いた。
自分の瞳から零れ落ちた雫が頬を伝ったことに。
眼前の光景に心を動かされ、感情を刺激され、涙を流していることに。
時の流れというのは、何と残酷なことか。
死別という運命は、何と冷酷なことか。
何とかしてあげたい。
あの子の儚い願いを叶えて上げたい。
そう思うけれど、私にできることは何もない。
ただ、見つめ、見守ること以外には何もできない。
それしかできない自分に、無力な自分に、情けなくなった。
「キカリ」
水明様が私の肩に手を置いた。
「どうやら、この寺に住職はいないようだ。手早く埋めてやろう」
「……そう、ですね。早く──」
水明様に同意し、頷いた──その時。
墓石が淡く光った。魂と同じ、青色の輝きを持つ光だ。
……まさか。
私と水明様が見守る中、それは徐々に形を成し──痩せ細り、年老いた男の姿になった。
見覚えがあるそれは、間違いない。
あの倒壊寸前の家に置かれていた写真に写っていた、八郎の飼い主だった。
言葉は発さない。
無言のままその場にゆっくりと膝を折った彼は、自分をジッと見つめ、見上げる八郎の頭に手を伸ばし……優しく、優しく、その頭を撫でつける。
八郎は黙って受け入れる。
抵抗せず、尻尾を左右に振り、嬉しそうな表情で撫でられ続けた──やがて。
【──すまんな】
八郎を抱き上げた男は小さな声で謝り、立ち上がる。
そして次いで、此方に身体の正面を向け──。
【──ありがとう】
感謝の言葉を告げ、次の瞬間──スゥ、と姿を消してしまった。
淡い光は何処にもない。墓場は来た時と同様、月明かりに照らされるだけの静かな空間だった。
ザァ、と吹き付ける夜風が雑草を揺らす。
墓石を磨き、枯れた花びらを攫い、消えていく。
「……どうか、安らかに」
光が消えた、骨の入った木箱。
それを墓石の前に供えた私は両手を合わせ……八郎と飼い主。双方の冥府での幸福を祈った。
意外なことに、水明様も私と同様に手を合わせていた。
やはり……この人に冷酷なんて名前は似合わない。
彼が時折見せる温かな心遣いに、私は思わず微笑んだ。
【──ワン】
何処か遠く、或いは近く。
判別することができない場所から響いた、嬉しそうな犬の鳴き声を聞きながら──。




