第7話 幽霊犬
夕暮れの宮廷は、昼とはまるで違う顔をする。
朱塗りの回廊に西日が差し込んで、柱の影が長く伸びる。昼と夜の境界線の時間。
まだ一日は続くというのに、その日が終わりを迎えるような気分なる。
書類の山を片づけ、硯を洗い、私はようやく背筋を伸ばした。
今日は帰りに骨董屋を覗こう。先月見た狸の頭蓋骨がまだ売れ残っていれば、給金の残りで手が届くかもしれない。
そんなことを考えながら門へ向かっていた時だった。
「雪解殿!」
背後から声が掛けられた。
咄嗟に振り返り、そして私は思わず心の中で嘆息した。
小柄な男が、息を切らして駆けてくる。
仕立てのいい洋装に、金鎖の懐中時計。髪は油で丁寧に撫でつけられ、指には大ぶりの指輪。
──覚えている。
三月ほど前、求婚を断った男だ。
「檜垣様……何かご用でしょうか」
「あなたを、待っておりました」
男は胸に手を当て、芝居がかった仕草で息を整えた。
「あなたが難題を出して以降、私は考え続けました。あなたの出した条件は、私を試すものだったのだと。真に想う者であれば、たとえ不可能でも足掻いてみせよ、と──ですから改めて申し上げます。雪解キカリ殿、どうか私と」
「お断りします」
「そんな! せめて最後まで話を──」
「言われる前に分かりましたので、手間を省きました」
私は丁寧に頭を下げた。
「檜垣様。私にはすでに、婚約者がおります」
「存じております。しかし」
「皇太子殿下です」
男の顔が一瞬、能面のように固まった。
それから、じわじわと血の気が戻ってくる。
「……あ、あれは、政略のためのものでしょう! 宮廷中の噂です。殿下は縁談を避けるために、あなたは求婚を避けるために。互いに都合がよいだけの、契約に過ぎぬと」
……鋭い。
というか、噂が正確すぎて怖い。
流石は頭だけは回る者たちが集う場所だ。
「そのような形ばかりの縁で、あなたのような方が縛られるなど、あってはならぬことです。私は本気であなたを想っております。この気持ちに、嘘偽りはございません!」
男は一歩踏み出した。
私はさりげなく半歩下がる。
「檜垣様のお気持ちは分かりました。ですが私の答えは変わりません」
「なぜです」
「なぜと言われましても」
私は正直に言うことにした。
「私、婚礼衣装より骨格標本のほうが欲しい女です」
「それも含めて愛すると申し上げているのです!」
……うわぁ、だるっ。
いや、悪い人ではないのだ。悪い人ではないのだが、この手の相手が一番厄介である。押しても引いても消えず、拒めば拒むほど「試されている」と解釈し、ますます燃え上がる。理屈が通じないのだ。
夕日が傾く。骨董屋の閉店時刻が近づいてくる。
どうしたものかと、私が本気で頭を悩ませはじめた、その時だった。
「──何をしている」
空気が、一段冷えた。
回廊の奥から、軍服の長身がゆっくりと歩いてくる。
腰には妖刀・霊月天領。夕日を背にしているのに、その姿だけが夜を纏っているように見える。
檜垣の顔が、今度こそ完全に凍った。
「で、殿下……」
「キカリ。この者は」
私は水明様の隣に並び、簡潔に事情を説明した。
「三月前に私がお断りした檜垣様です。本日改めて求婚に来られましたが、私には婚約者がいると申し上げても、それは形ばかりの契約だとおっしゃって、引いてくださいません」
「なるほど」
「──というわけで」
私は水明様を見上げ、両手を軽く広げた。
「あとは、婚約者殿にお任せします」
水明様の眉が、わずかに動いた。
「丸投げか」
「婚約者の役得というものは、こういう時に使うものかと」
「……言うようになったな、其方」
「私は元々逞しい乙女ですよ」
彼は小さく息を吐き、それから檜垣に向き直った。
その瞬間、水明様の目から温度が消えた。
私は隣にいて、思わず息を詰めた。冷たい、などという言葉では足りない。相手を人としてすら見ていない、器物を検分するような目。宮廷で「冷酷無比」と囁かれる、この男の本当の顔だ。
「檜垣家」
水明様が静かに口を開いた。
「子爵。三代前に商家から爵を買った家柄だな。当主は檜垣時房、五十四。其方はその次男」
檜垣の喉が鳴った。
「兄は今年、大蔵省の会計監査に配属された。妹は十七、来春に安曇家へ嫁ぐ話が進んでいる。母君は昨年から胸を患い、京郊の別邸で療養中──」
「な、な、」
「屋敷は麹町の三番地。裏手に藤棚がある。門番は老爺がひとり」
「どうして、どうしてそこまで!」
檜垣の声が裏返った。額に脂汗が浮き、指輪の光る手が震えている。
水明様は答えなかった。ただ一歩、静かに間合いを詰める。
「妹君の縁談は良い話だと聞く。兄君の配属も悪くない。母君の療養も、順調と聞いた」
低く、抑えた声。
「──平穏は、壊されたくないだろう?」
夕暮れの回廊に、風が抜けた。
「っ、し、失礼いたしました……! と、飛んだご無礼を……!」
檜垣は転がるように後ずさり、腰を折り、そのまま脱兎のごとく駆け出した。
金鎖の懐中時計が、走るたびに飛び跳ねている。角を曲がる寸前、履物が片方脱げたが、拾いもせずに消えていった。
……え、怖。
私は残された履物を眺め、それからゆっくりと隣を見上げた。
「……水明様」
「なんだ」
「えげつないですね」
「俺は何もしていないだろう」
水明様は面倒くさそうに首を回した。
目からはもう冷気が消えて、いつもの気だるげな色が戻っている。
「陰陽殿には全貴族の家系図と近況が届く。ただ読み上げただけだ──脅しとは、実際に何かをする必要がない。相手が『できる』と思えば、それで足りる」
「怖ぁ……悪魔みたいですね」
「褒め言葉として受け取っておく」
彼はふん、と鼻を鳴らし、それから深々と溜息をついた。
「まったく。モテる女も大変だな」
「他人事のように」
「その婚約者もな」
水明様は肩を落とし、珍しく心底疲れたような顔をした。
「あれで今月三人目だ。俺のところにも来るのだぞ。『殿下、あの縁は真実のものでございますか』などと、遠回しに探りを入れてくる連中が。おかげで先週は書類が半日進まなかった」
「あら。それは大変ですね」
「他人事のように言うな」
「だって私、そういうところは水明様に丸投げすると決めましたので」
「……其方な」
私は思わず笑ってしまった。
天下の皇太子殿下が、婚約者の求婚者を追い払うのに疲れ果てている。宮廷の誰も知らない光景だ。
「ふふ、水明様。ポンコツもほどほどにしてくださいね」
「誰がポンコツだ。俺は──」
その時。
視界の端を、何かが横切った。
夕日に染まった中庭。石畳の上を、一匹の犬がとことこと歩いていく。柴のような大きさで、毛並みは薄い茶色。首に、色褪せた赤い紐のようなものを巻いている。
私は目で追った。
「……見ない犬ですね」
「宮廷に犬はいないぞ」
水明様も気づいたらしい。私たちは同時に足を止め、その小さな背中を目で追った。
犬は急ぐでもなく、迷うでもなく、まっすぐに歩いていく。
何処に行くのかな。と、私が思った時──気がついた。
夕日を浴びているのに、影がないことに。
え、嘘。
あの犬はもしかして──。
私は唖然とするが、此方を一切気にする素振りも見せない犬はそのまま歩き進み……前方にあった白い壁の中へ、すぅっと消えていった。
その姿を見届け、私は水明様の袖を引く。
「……水明様」
「見たな」
「見ました」
私は袖を握りしめた。
指先が、ぞわりと粟立っている。
骨詠の巫女の耳が、かすかな音を拾っていた。
──鈴。ちりん、と。遠くで、古い鈴が鳴る音。
「霊です」
「悪霊の気配はない」
水明様の手が、すでに霊月天領の柄にかかっている。
だがその表情に殺気はなかった。ただ、静かな怪訝さだけがある。
「あの犬、迷ってません。目的地がある足取りでした」
「……追うか」
「追いましょう」
私は履物の鼻緒を締め直し、駆け出した。
骨董屋の狸の頭蓋骨は、また明日でいい。今は──あの犬を優先しよう。
背後で、水明様が呆れたように息を吐く音が聞こえた。
それから、すぐに足音が並んだ。
「待て、キカリ。先に行くな」
「早くしないと見失いますよ!」
沈む夕日の中、私たちは犬が消えた白壁へと走った。




